奇しくもここに、「夜」「実存」「文学」をテーマとする三組のミュージシャンが揃った*1。
系統図を描くと次のようになる。
セリーヌ『夜の果てへの旅』(1932年)
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┃(実存主義文学のロック化)
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┃(ポップ化/サブスク以後)
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┠━ ヨルシカ(2017- 年)
┖━ YOASOBI(2019- 年)
この史的感覚が従来の批評に足りていなかったように思われる。
以下、蛇足のジョーク記事。高橋徹也を通じてヨルシカ・YOASOBIを考え、ヨルシカ・YOASOBIを通じて高橋徹也を考える。偽史を編む。
ヨルシカ
ヨルシカの曲を幾つか聞いて思うのは、意識的/無意識的な「少なさ」が様々な形で現れることである。列挙してみよう。
- アレンジのヴァリエーションの少なさ:工夫も数多く見られるが、結局は「アジアンテイストの残るアコースティックなバンドセット」になる。
- メロディのヴァリエーションの少なさ:似た進行に特徴的なメロディライン(大体の場合ペンタトニックスケール)が乗る。
- 語彙の少なさ:「夏」「雲」「バス停」「花」などの頻出。「青春」イデオローグに属する「エモい」言葉たちである。共感作用が期待されている。
これを否定的に評価することもできるが、ここでは肯定的に評価したい。独自の世界観を形成しているし、リスナーは「ヨルシカ」を聞きに来ているのだから。その点、このグループはちゃんとターゲティング・マーケティングを行いブランディングに成功している。高橋徹也『夜に生きるもの』の反省が活かされている。
以下、個別の作品に対するコメント。
〈ただ君に晴れ〉
この曲における「夏」「田舎」「青春」の扱いについて、ゼロ年代のオタク・ネット文化を通っている人ならエロゲ―空間だと指摘するかもしれない(「文学的フレーズ」が混じるところまで含めて)。
「夏」といえば、高橋徹也〈新しい世界〉の中間部を思い出さないわけにはいかない。
Life in this light brings my mind something real.
Life is the sight makes me feel summer's end.
Life's on my side if I could love them all.
Life in my life...What'd you say, summer's end.
光に包まれた人生、現実を私に突きつける
それは、夏の終わりを予感させる命の風景
全てを愛することができたら、人生は私のものとなる
人生、私の人生… いったい何を言ってるんだ、私は
夏はもう終わったというのに
〈新しい世界〉のAメロ・Bメロの範疇に踏みとどまり、サビ=ノワール的世界観には飛び込まないのがヨルシカとYOASOBIだと言える。
〈だから僕は音楽を辞めた〉
生ドラムの四つ打ちを辞めろ(生ドラムの四つ打ち撲滅委員会)。
歌詞の量がとても多い作詞・譜割の系譜をたどると、直接影響していそうなところではボカロ出身のwowaka(2009-2019年)が存在し、その上流にはaiko(1998- 年)、そして高橋徹也(1996- 年)が居る。フローにはヒップホップの影響もある。
〈爆弾魔〉
「爆弾片手」と聞くと高橋徹也の〈笑わない男〉を思い出さないわけにはいかない。どちらの曲もある種の閉塞感を描いており、「世界を爆破」する欲望が内在している。しかし後者にのみ破滅の予感が現れる。〈爆弾魔〉は梶井基次郎『檸檬』(1925年)の系譜、〈笑わない男〉は映画『太陽を盗んだ男』(1979年)の系譜である。
この違いはどこから来るのか。「先生」が登場し「ニーチェもフロイトも」と偉人の名を挙げる〈ヒッチコック〉が顕著だが、ヨルシカは10代をメインリスナー層に含め、「青春」をかなりポップに描くことが多い。ヨルシカの描く閉塞感は予期不安だ。
一方で高橋徹也の描く閉塞感は、心理的リアリティをかなり優先するものの、身も蓋もない糞みたいな現実が背後に待ち構えている。高橋徹也のターゲット層は(存在するとすれば)もう少し年齢が高めで、ポップへの配慮がなかった。しかし配慮の欠落は裏返せばリスナーへの信頼である。単純に狂ったロックだともいう。
ヨルシカが高橋徹也から受け継いだのは「他者の希求」「他者の手の届かなさ」のみであり、「近代小説的な他者へのアンビバレンス」「悪意的な分身」といったテーマが出てこないのは物足りなく感じる。
YOASOBI
編曲におけるクラブミュージックのフレーバーがまず耳につく。ヒップホップ以後の最近のポップスはドラム・ベースがかなり前に出るミックスになることも多いが、YOASOBIはあくまでボーカルと上物の中高音域を優先している。J-POP的。
表層の軽薄さに関するバランス感覚を、私はなぜか嫌いになれない。
以下、個別の作品に対するコメント。
〈祝福〉
この曲が特にそうなのだが、YOASOBIの歌詞と構成からは「カゲロウプロジェクト」(2011年)的な2010年周りのボカロの中二病エッセンスを感じる。懐古趣味。〈祝福〉は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』(2022- 年)のオープニングテーマとして書かれていることを考慮……してもこうはならなくない?
〈怪物〉
高橋徹也の「二つの怪物」を想起させるタイトル。閉塞はあるが、破滅の予兆はない。だからノワールまで行かない。
この歌詞ならもうちょっと編曲がダサい方が良い気もする。中二になりきれてない感。私の誤読かもしれないが。
ここで力尽きた。余裕があれば後で追加する。
高橋徹也『夜に生きるもの』
ヨルシカとYOASOBIの言うところの「文学性」は、小説のフレーズをサンプリングして物語性強めぐらいの意味合いで使われているようである。近代小説のイデオロギーが採用されているわけではない。近代小説のイデオロギーでポップスの歌詞は書けない、という判断が下されたわけだ。当然、彼らは素晴らしき失敗例として高橋徹也を横目に見ていた。
また、高橋徹也が「実存」を直接的に激しく問うたのに対し、ヨルシカとYOASOBIは優しく撫でるものとして扱った。この点に関しては正直、ボカロの方が攻めていてかつ10代ももっと上の年齢層も聞ける音楽になっていて面白い。〈テレキャスタービーボーイ〉(2020年)、〈ヴィラン〉(2020年)など。
ところで、「SSWの男/ボーカルの女」という組み合わせ、「ボーカルに物語を演じさせる(ボーカルは女優である)」ことはピチカート・ファイヴ(1984-2001年)を想起させる。今のところピチカート程の問題は起きていない。関連して、ヨルシカはアイドル化の逆に覆面化しているが、これが別種のアイドル化を呼ぶことは言うまでもない。
競争原理が強く働く共同体、とくに大衆向け創作物の共同体ではメタゲームが起こる。例を挙げれば、今回見たような日本のポップス音楽における四つ打ちの流行、〈Just Two Of US〉進行の流行。2010年代中頃のヒップホップにおけるトラップの流行。*2
コミュニケーションを背景に持つメタゲームは現象としては面白い。だがその渦中にいる個別の作品を聞くとなると、付き合いきれないと感じることもしばしばある。聞き飽きたと思うごとに、オリジナリティ幻想が私たちを誘う。
本当にメタゲームでいいのか、と高橋徹也は思ったのかもしれない。彼が1997-1998年に行ったのは、ロック・ポップス共同体の共有財産をある程度利用しつつもメタゲームを拒否することだった。まずそこにアンビバレンスがあり、本当に利用できているのか、本当に拒否できているのか(〈新しい世界〉における「好きになれないのさ」という距離の取り方)は検討すべきだろう。しかし少なくとも事実として、ほぼコミュニケーション不可能で、唯一性があり、神通力を帯びた『夜に生きるもの』が出来上がった。
高橋徹也はたしかに、売れないべくして売れなかった。ただその神託の巫覡(ふげき)のごとき異才、競争原理から出発してどこかへ連れ去られてしまった作品たちが、音楽史を再構成するサブスクの時代に見直されるとしたら面白い。
この記事は音楽系機関紙『白旗 第二号(仮)』に掲載予定の論考「未解決事件集:1998年の高橋徹也(仮)」が書けないスランプから生まれました。クリエイティブ顧問ズが提供する『白旗 創刊号』には、筆者の16000文字にわたる論考『ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟』*3が掲載されています。現在全国の書店で好評発売中です。一部書店はオンラインにも対応しています。
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[reference]
【楽曲解説】高橋徹也『夜に生きるもの』(コード進行で見る高橋徹也②) - 古い土地
「AIのべりすと」に歌詞は書けるか〔高橋徹也編〕 - 古い土地
*1:「ずっと真夜中でいいのに。」には申し訳ないが、音韻上の都合でご退場願った。『ヨルシカ、YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに。~ネットカルチャー発の次世代型アーティストとは』
https://www.billboard-japan.com/special/detail/2954
*2:「小説家になろう」の「追放/もう遅い/ざまぁ」「異世界[恋愛]」の流行をここに加えようかと悩み、脚注に入れておくことにした。
*3:かつてこのブログに投げたエッセイ『ピチカート・ファイヴ論考1: 人さらいの音楽 / "誤解" / 階級闘争』『ピチカート・ファイヴ論考2: 歌詞の具体例 / 録り音 / DJ感覚』が執筆のきっかけとなっている。査読も経て内容面では遥かに洗練されている。