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【楽曲解説】高橋徹也『夜に生きるもの』(コード進行で見る高橋徹也②)

 

 以前、このような記事を書いた。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 高橋徹也の楽曲によく現れるコード進行を系統分析し、彼のトレードマークになっている奇妙な和声が具体的に何なのか明らかにした(つもりである)*1

 しかし『コード進行で見る高橋徹也』は長い上に、40曲分のコード譜に基づいているのですべてチェックしようとすると時間がかかりすぎる。辞書としては使えるが初見での可読性が高くない。

 

 そこで今回は、名盤『夜に生きるもの』の各曲をアルバム収録順に分析してみようと思う。ここで現れる特徴は高橋徹也の楽曲全般に見られる*2。前回が理論編だとすれば今回は実践編である。

 前書いたことも重複を厭わず書く(引用する)ため、前回の記事を読んでいる必要はない。むしろ前回の記事より先に読むと良い。コード進行以外のことにもいくらか触れる*3

 

[Reference]

・『夜に生きるもの』コード譜

夜に生きるもの - ChordWiki : コード譜共有サイト

高橋徹也本人による各曲レビュー

『夜に生きるもの/ベッドタウン』全曲コメント | 夕暮れ 坂道 島国 惑星地球

 

 

1.真っ赤な車

 

真っ赤な車 (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 Aメロで実存の不安を歌い、Bメロで実存の不安を歌い、サビで実存の不安を歌う。名曲。

 アルバムの中で最もストレートなロックのバンドサウンドであり、過剰と言えるほど力んで歌っている(そのせいでリズムがレイドバックする)。しかし以下で見るようにコード進行はストレートではない。

 

 最初に指摘したいのは、Aメロ・Bメロ・サビが全部Ebm9(IIm9)で始まることである。そこそこコードが動く曲なのに出だしを工夫しなくていいのか。以下は邪推:おそらくベーシストがこれを危惧し、Aメロのベース第一音をEbでなくF(9th)にするラインを弾いた。このおかげで聴感上変化がつき、コードが採りづらくなった。

 

 Aメロ前半の「Ebm9 – Dbmaj7」は高橋徹也の曲で腐るほど出てくる「IIm9 – Imaj7」型の進行である。

 Bメロ「Ebm9 – Fm9 – Gbm9 – Emaj7」=「IIm9 – IIIm9 – IVm9 – bIIImaj7」。前三つが高橋徹也の曲でアホほど出てくるm9のノンダイアトニックな平行移動の例になっている(Gbm9はマイナー借用だが、Fm9はそれで説明がつかない)。また後ろ二つ「Gbm9 – Emaj7」はよくよく考えると短3度上(マイナー転調!)のkey : E = Dbm での「IIm9 – Imaj7」になっている。

 

 サビ前半4小節は「IIm9 – V7 – IIIm7 – VIm7」という定型進行である(逆循環と呼ばれることがある。王道進行の派生とみなしてもよい)。ここはコード進行を一番最初に設定して作詞作曲したのではないか?

 サビ後半4小節は前半の変形であり、「IIm9 – V7 – IIIm7(b5) – VI7」となる。マイナーツーファイブ「IIIm7(b5) – VI7」でIIm9に解決する。ただし、Fm7(b5) = IIIm7(b5)はB(♭vii)をベースとするよう変更されており、「Fm7(b5)/B – Bb7」と半音下降する。これに伴ってギターはFm7(b5)の珍しいヴォイシングを使っている。ちょうど「真っ赤な車」と歌唱する部分であり、まあ効果的な変更ではなかろうか。

 

 

 リズムについて、力み以前に作曲段階でメロディがレイドバックしている。例えばサビの「俺の車を」は1小節目の3拍目から始まり、「車を」の部分は丁寧に裏拍に乗っている。作曲と演奏のレイドバックは「後ろから車に追い越される」という歌詞の描写と奇妙に整合する。

 サビの音韻における「k」音に言及しておきたい。つまり、「おれのるまを/おいしてい/みたとのない/まっるま」。切迫感の演出に一役買っている。

 

 

2.ナイトクラブ

 

ナイトクラブ (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 高橋徹也ノワールを代表する一曲。フランスのフィルム・ノワールをイメージしたのか、いかにもなマイナー調かつジャズ風である。

 アルバム『夜に生きるもの』の中では最も早期に録音された曲らしく(シングル『チャイナ・カフェ』収録)、最初から病的なモードだったことがうかがえる。またアルバムバージョンではカメラの音が随所に挿入されている。「監視(み)てるんだろ?」

 菊地成孔のブラスアレンジが良い。一方で、個人的にボーカルの録り方が気に食わない。演出だとしてもリヴァーブを利かせすぎだ。シングル『鏡の前に~』に入っている別バージョンの方がシンプルに決まっている。

 

 コード進行を見ると、Aメロはkey : Fm で定型といえるような進行、Bメロはツーファイヴゲームでジャズ的には定型の範囲。

 やはり歌詞が素晴らしい。漠然とした不安をことこまかに描き、描写が深まるにつれその正体はますます不明瞭になくなってゆく。1番AメロからBメロの歌詞のつなぎも面白い。そもそも一文が長く、まだ文章の途中、意味的には繋がっているのに曲の雰囲気が大きく変わってしまう。それがまた不安を煽る。

 この歌詞を書けるだけでも異才だが、それを音楽として実装する凄みがある。

 

 そしてサビ。「Amaj7 – Dbmaj7 – Fmaj7 – Amaj7」という長3度循環は本質的にColtrane changesの例になっている。しかも下降より難しい上昇に挑戦しており、この曲の雰囲気と良くマッチしている*4

 今wikiepdiaを調べて知ったが、1937年にRichard Rodgersが書いた〈Have You Met Miss Jones?〉はColtrane以前に長3度下降をやっており、Coltraneを触発したという。

 聞いてみたところ、長3度下降をやっている中間部は微妙な出来だ。ミディアムテンポでミュージカル的なメロディと釣り合いがとれていない。ジャズスタンダードになっているらしいが、インストで聞くと不和が目立つ。

 以下のFrank Sinatra版は、トニック部分で和音を鳴らさないことにより突拍子無さを減らす工夫をしている。メロディは美しいので普通にリハモした方が映えそうだ。

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 高橋徹也も長3度上昇を使うにあたって様々な工夫している。ツーファイヴを削ぎ落とし、スロウテンポにし、そもそも実存の不安を描くことで長3度循環の意外性が効果的に働く土壌を用意した。

 いつか本人に聞いてみたいが、Coltrane changesをどういう経緯で知ったんだろうか? まさか自力で?

 

 

 

3.鏡の前に立って自分を眺める時は出来るだけ暗い方が都合がいいんだ

 

鏡の前に立って自分を眺める時は出来るだけ暗い方が都合がいいんだ (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 一聴して珍妙な曲。コード進行的にはブルースの「I7 - IV7」と「IV7  – I7」を平行移動でコラージュしている。平行移動の選択に楽理的根拠をこじつけることは困難で、まあ感覚でやっているのだと思われる。

 サビ終わりにベースの半音下降が出てくるが、シンプルなV9の平行移動である。半音下降で気持ち良い進行なんて一杯あるのに、そういうのは絶対に用いない。(この時期の)高橋徹也が常人の身体感覚と異なる点。

 

 本格的に分析するならフレットレスベースとシンセギターを採譜すべきなのだろうが、難易度が高い上に採譜してこれ全部感覚でやってますとなったら著しい徒労なので、しない。

 

 中間部でめちゃくちゃ投げやりに「ドゥーワップ」と言った後手拍子が挿入されるが、何のオマージュなんだろうか。

 

 

4.人の住む場所

 

人の住む場所 (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 まず前回の記事をそのまま引用する。

 

 スピッツみたいな曲。「E7 - C#7」でサビのDmaj7に接続するところはまんま〈ロビンソン〉である。でもメロディアスで良い曲。欠点として、圧倒的な歌詞の像の結びづらさを挙げておく(元々〈雨上がりの街へ〉という曲だったのをアルバム制作段階で作詞し直したらしい。新旧の歌詞が入り混じってイメージが通らなくなったのか?)

 イントロのリフ「 Dmaj7 – F#m9」は大変良い発明だ。Dmaj7が流れてきてトニックのImaj7かと思うと、次のF#m9がIIIm9に聞こえて「いきなり転調!?」と驚かされる。しかし実際はどちらもダイアトニックコードだ。key:Aにおける「IVmaj7 – VIm9」 である。

 耳に気持ち良いが、楽理的にも面白い。この2つのコードだけでD Lydian = A ionian の調性を確立できる。つまり、F#m9をDmaj7のテンションと思うと全体でDmaj7(9,#11)になり、これはリディアンを強く示唆するコードである。F#m9の9thがDmaj7の#11thに対応するため、調性を確立する点(あるいは#11thを出して驚かせる点)でF#m9はF#m7であってはならない。

コード進行で見る高橋徹也 - 古い土地

 

 Bメロの「IIIm7 – VIm7」で勝負してる辺りは高橋徹也っぽくなく、この場合は好ましい。

 サビ最初の進行が「IVmaj7 – III7 – VIm7 – II7」なのを、〈ロビンソン〉の王道進行「IVmaj7 – V7 – III7 – VIm7」にも〈Just Two Of Us〉進行「IVmaj7 – III7 – VIm7 – I7」にも抗った結果と読むのは読みすぎだろうか。この曲の場合はベタをちゃんとやろうという形跡もあるので、案外分からない。

 いや、読み過ぎか。

 

 

5.夕食の後

 

夕食の後 (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 早いテンポのジャズ・ロック・ワルツ。

 明らかに歌詞から作り始めている。メロディもコードも自然に出てくるそれではない。

 コードだけ取り出すと次のようになる。

 

|[Fm7]---|---|[Fm7(b5)]---|---|

|[Bmaj7]---|---|[Bm7]---|---|

|[Bbm7]---|---|[Dbm7]---|---|

|[Abmaj7]---|---|[Ab7]---|---|

|[Dbmaj7]---|---|[Dbm7]---|---|

|[Cm7]---|---|[Fm7]---|---|

|[Fbmaj7]---|---|[Gbmaj7]---|---|

|[Abmaj7]---|---|[Ab7]---|---|

|[Dbmaj7]---|---|[Dbm7]---|---|

|[Cm7]---|---|[Fm7]---|---|

|[Dbmaj7]---|---|[Dbm7]---|---|

|[Cm7]---|---|[F7]---|---|

|[Bbm7]---|---|[Eb7]---|---|

|[Abm7]---|---|[Db7]---|---|

|[Gm7]---|---|[C7]---|---|

|[Fmaj7]---|---|[D7]---|---|

|[Bbmaj7]---|---|[A7]---|---|

|[Dm7]---|---|[G7]---|---|

|[Gm7]---|---|[A7]---|---|

|[Dmaj7]---|---|[Db7]---|---|

 

 ①は本当にコード進行の着想が分からない。採譜が大幅に間違っているのかもしれない。

 ②③はkey: Ab で理解できる。②の後半で「bVImaj7 – bVIImaj7 – Imaj7 (– I7)」とmaj7を全音上昇させていくが、これはそれぞれ機能的にサブドミナントマイナー - サブドミナント - トニック。全音下降の方が生理的に気持ち良いと筆者は感じるが、この例のように上昇でもたまに用いられる。上昇が身体的に出てくるのが高橋徹也の特徴の一つで、不気味なアッパー感がある。

 ④はツーファイヴゲームで短3度下のkey : F まで下りていく。

 ⑤はまた短3度下降してkey : D/Dm に降りようとしているのだが、その降り方が錯綜としている。よく分からない。

 

 筆者はこの曲が存外好きである。かなり無理なコード進行・メロディをしているのに、ストーリーテリングという一つの軸によって奇妙なまとまりを見せること。あるいは単にジャズ・ワルツとして面白い。

 「出所も分からない/安物のワインが/唯一今彼女にとって/リアリティのあるものだとして」。リアリティという単語は『ベッドタウン』最終曲〈犬と老人〉にも出てくる。「簡単に言うならリアリティ/それしか反応しないんだ」。もちろん「リアリティ」とは「現実」そのものではなく、審美的で心理的な「現実らしさ」である。

 

 

6.女ごころ

 

 未採譜。

 マイナー調の歌謡曲高橋徹也が合体事故を起こした曲。変なことをやっている箇所もあるが、採譜するほど気になりはしない。もう40曲分のコード譜あるし……。「なんとなく歌謡曲やってみっか」くらいの手つきが気力を奪う。

 この手の曲を書くならもっと歌謡曲を研究した方がよい。基本が洋楽/ロック/J-POPの人なんだろうなと思う。

 

 

7.チャイナ・カフェ

 

チャイナ・カフェ (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 冒頭の「show」は何なんだ。生命とは悲劇なのか?

 『Night & Day, Day & Night』収録の〈星空ギター〉ではもう少し元気のない「show」が聴ける。全ては90年代に終わってしまった?

 

 次に、「チャイナ・カフェ」は何なんだ。ヴァースとコーラスで歌詞の意味内容が微妙に繋がっていない。「俺」が「ヤツ」の話を聞いている場所が「チャイナ・カフェ」なる場所だと想像できるが、そのモチーフの説得力・必然性がない。「何?」にも「何故?」にも答えてくれはしない。なぜちょっとエキゾティックな場所が設定されたのか、どのような時代背景の気持ちでいればよいのか。

 

 全体的にノワールっぽい雰囲気で、高橋徹也自身は1950-60年代フランス映画と結びつけている(『全曲コメント』参照。なんで1980年代香港ノワール映画を先に出さないんだろう?)

 しかし中身は到底悪漢モノではない。ここには現代的な実存の問題があるし、「俺の恋人だと名乗るやたら背の高い女」は「俺」の頭の中にのみ存在する。

 『ベッドタウン』収録の〈笑わない男〉はもうちょっと筋が通る悪漢モノで、「俺」は「爆弾を片手」に女を口説き、「結構な気分」になっている。あそこに登場する「あいつだけ一度も笑ってない」男は、やはり実在しない。

 

 作曲の分析をしていく。ヴァースは複雑なので楽譜を用意した。

 

〈チャイナ・カフェ〉ヴァースの譜面:メロディの度数はコードのルートに対するもの

 Gm7/Gm6から始まってGmBbm – Am – Bmと平行移動していく。メロディもこのままマイナーペンタトニック(7th抜き)。最初の移動はポップスによくある短3度上昇で理解できるが、他は根拠づけるのが難しい。

 

 注(発展的な内容):ここでは事後的な分析としてコード進行を「Gm7(6)」のようにまとめたが、生成の過程をちゃんと追うと次のようになる。

高橋徹也が当初意図していた進行は一小節ごとにツーファイヴ「Gm7 - C7」を繰り返すもので、実際右チャンネルで彼が弾くリズムギターはそうなっている。

②次に、彼はこの進行の上にややコード感の薄いGマイナーペンタトニックのメロディを当てた。

③これらを聞いたベーシストが録音時、ベースラインを「ii - v(G - C)」ではなく「ii - vii(G - E)」とした。Gに対してE(6th)を強調する。

 以上により、全体としてはコード感が薄れGドリアンモードが強くなっている。ドリアンの示唆として先の楽譜では「m7(6)」を使った。

 

 サビは分かりやすい「IVm7 – Vm7 – Im7」。申し訳程度にピアノが中国風味を出すが、必然性という観点ではやはりよく分からない。ヴァースとコーラスはマイナーの調性で統一感を保っているが、「チャイナ・カフェ」という単語が投入されるとギリギリである。マイナーペンタトニックをこねくり回しているうちにエキゾティックが想起される瞬間があった? これで曲としてまとまっている(?)のは凄みか。

 

 PVやシングルのジャケットで(おそらくは自身の)墓穴を掘っている。曲との関連性は不明だが、当時の高橋徹也をよく表している。

 

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8.いつだってさようなら

 

 未採譜。

 demoバージョンを聞くと1stアルバムの頃に作曲されていそうだ。

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 歌詞もメロディも和声もアレンジも特筆すべきところがない。アルバム収録時に3/4拍子に変更して一部の譜割に無理が生じた、という程度。ファーストアルバムのダメなところをそのまま引きずった曲。

 録音は悪くないのでこの曲で高橋徹也の歌唱法について考えるとよいかもしれない。考えがまとまったら追記する。

 

 

 

9.新しい世界

 

新しい世界(高橋徹也) (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

 グルーヴィーなグッドミュージックのガワを被せて色々無茶をやっている曲。そもそもガワが上手く被れていないという話もある。

 

 歌詞について考えてみよう。まず譜割がおかしい。メロディより先に歌詞が全部つくられている。結果一番と二番でメロディの形が微妙に全部変わり、覚えにくい。例えばAメロで四回出てくる「君」に着目してみるとよい。

 Aメロは一見して恋愛もの(もうちょっとよく考えると友情もの)で、1stアルバムに出てきそうな内容である。旧友との再会をきっかけにBメロで時間の経過を取り扱う。このあとサビへ向けてどう展開するかといえば、今の穏やかな場所が「なぜか好きになれないのさ」、新しい世界なんて「どこにもないのさ」、そして目の前に続く道が「俺を駆り立てて離さない」。感情の表出がグチャグチャである。ポップスに許容される域を大きく超えている。*5

 

 有識者によれば、「売れたいのに売れない」というかなり現実的かつ物質的な欲求にドリヴンされてこの曲が出来たらしい。そのために「成功者の旧友」というモチーフが登場するのだと。物質的現実をインプットして実存をアウトプットする機構かよ。

 

 コード進行を見てみよう。Aメロ・Bメロは歌詞の意味内容が通常のポップスの範囲内なのと同様に(それもところどころおかしいのだが)、定型の進行を使っている。

 Aメロ最初の「Bbmaj7 – Am7 – Am7(b5)」が「Imaj7 – VIIm7 – VIIm7(b5)」であることはちょっと意外(VIIm7を経過和音として用いる)。Aメロでは思いっきり王道進行「Ebmaj7 – F7 – D7 – Gm7」が出てくるのが面白い。ポップスのふりをして場を温めている。

 

 サビのコード進行は前回書いたのを引用。頻繁な転調の中に「IIm9 – Imaj7」の平行移動が紛れ込んでいることに注意。

〈新しい世界〉サビの譜面:メロディの度数はコードに対するもの

 サビを見よう。1コーラス6小節なのだが2のn乗を1単位としないせいで止まれない感じがする。進行は「Ebm9 – Dbmaj7 – Fm9 – Ebmaj7 – Cm7(b5) – F7」。

 「Ebm9 – Dbmaj7」はDb major ~ Bb natural minorを示唆する。AメロBメロはkey:Bbなのでサビでマイナーへ転調するのはポップスの常識の範囲。だが、次の「Fm9 – Ebmaj7」で全音上がったEb mjorを確立する。そして次のマイナーツーファイブ「Cm7(b5) – F7」が暗示するのはBb harmonic minorである。

 明らかな情報過多。この過剰が歌詞とマッチしている。情報量のバランスをとるという選択肢は存在しない。

コード進行で見る高橋徹也 - 古い土地

 

 最後のサビはこの転調過多な6小節を更に半音ずつ、計4回上昇させていく。どれだけ「もう後が無い」のか。

 途中に出てくる「目の前をいま横切る車の中に 君とよく似た悪魔が」がこの曲のハイライトだと筆者は考えている。鮮やかな裏切り、美しい悪意。この詞だけで〈新しい世界〉という曲の存在事由たりえる。

 

 

 作曲、作詞、編曲等が優れた曲は他にもあるが、高橋徹也の歌唱が最も活かされているのはこの曲かもしれない。Aメロ・Bメロは、音韻の滑らかさを考慮していない歌詞や譜割の無茶から歌唱というより語りに近い。曲が進むにつれ熱が入るのだが、1番サビ直前で「好きになれないのさ」と突き放してサビに行くあたり、(脳の普段使わない箇所に)ビタッと嵌る感覚がある。

 

 

 

10.夜に生きるもの

 

夜に生きるもの (歌・作詞・作曲:高橋徹也) - ChordWiki : コード譜共有サイト

 

「大げさに、図々しく言えば、世の中に居る人ほとんど”夜に生きるもの”だと思ってますし。別に時間的な夜ってことじゃないですけど」

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 Bメロの歌詞が良い。まるで「人さらい音楽宣言」ではないか。

 

 コード進行を見ていこう。

 Aメロはkey : Bm で「Bm7 – Cmaj7 – C#m7(b5) – F#7」=「Im7 – bIImaj7 – IIm7(b5) – V7」。マイナーツーファイヴの前にbIImaj7を挿入するのは、ちょっと意外に見えて定型だろうか? 「Bm7 – Cmaj7」だけ取り出すとBmのコードスケールがB phrygianっぽくなる(実際はB aeorian)。「Cmaj7 – C#m7(b5)」を取り出すとルートのみ上昇する、「IVmaj7 – #IVm7(b5)」のような進行。

 Bメロはツーファイヴゲーム。解決先がD、F、Eの3つある。Dはkey : Bm のダイアトニック。その次のFは短3度上昇、その次のEが意外性のある転調で、ここでkey : C#m にうつる。keyが F から E に半音下降する変わり目の部分、コード進行は「Fmaj7 - F#m7」と半音上昇しており、メロディも高くなる。「夜に生きるもの」を言葉として導入する部分であり、歌っていて気持ち良い。

 サビはkey : C#mで「Im7 – II7 – V7」。マイナー調でII7を使うのは珍しいという程度。その終わりは「C#m9 – D#m9」でいつも通りm9の平行移動を行う。

 

 サビ終わりでギターが轟音をかき鳴らすのはグランジ的な緩急なのだろうか?

 

 Joao Gilbertoのカバーで有名な〈Estate〉からインスピレーションを受けたらしいが、何を言っているのかよくわからない。いずれにせよこの頃の高橋徹也ボサノヴァ的な余裕やアンニュイさを欠いている。

 しかし、〈真っ赤な車〉のようなロックよりボサノヴァの方が彼本来の声質・歌唱法と相性がよい(『夜に生きるもの』にあるのは無理を押し通す面白さである)。98年以降の高橋徹也は穏やかな作曲と歌唱の方向に進んでいく。夜は明けた。

 

 

 

おわりに

 

 高橋徹也の曲は良いけど、ポップスとしての良さじゃないし、売れるわけがない、といういつもの結論に至る。

 曲構造、歌詞、歌唱のいずれも「引き離さない」ミームとしては強度が高いので、どうにかマネタイズできなかったものか。「レコード会社に売り出しの努力が足りない」と書こうとしたが、驚くべきことに『夜に生きるもの』の制作・宣伝には数千万円もつぎ込まれているらしい。それで三千枚しか売れなかったので、まあ、はい。

 

 メモ:当時、高橋徹也を売り出すにあたって小沢健二スピッツMr.Childrenあたりは参照されていそうである。90年代後半の「J-POP」完成期のオーバーグラウンドを考えねばならない(それは筆者の能力・趣味を超える)。

 

 

 

 

*1:次のエピソードからも窺えるように、彼の作曲の中心にはつねにコード進行がある。

そしてもちろんタイトル・トラック「大統領夫人と棺」が生まれた時の興奮も忘れられない。何の気なしにEm9とDm9のツーコードを爪弾きながら、"彼女はこの国の最高権力者の妻で" と語り始めた瞬間、全てのストーリー、そして歌詞とメロディが同時に湧き上がってきた。

高橋徹也 Discography 1996-2022 | 夕暮れ 坂道 島国 惑星地球

*2:コード進行に関しては。他の点に関しては必ずしもそうではない。代表作とされる『夜に生きるもの』『ベッドタウン』が彼のキャリア上の特異点であることに注意。

*3:ただし、高橋徹也は究極的には「歌詞の人」であると思うが、歌詞は軽く触れる程度にとどめた。ブログで歌詞分析をするとしばしばJASRACから突っ込みが発生し「研究・批評」目的だと言っても勝てなかったりするため。

*4:長3度下降がまだ易しいのは、Imaj7 に対し bVImaj7 はサブドミナントマイナーとしてポップスで普通に使われる和音のため。

*5: 余録(投稿時の主張であり現在は違う考えを持っている。脚注に残しておく):筆者は今まで「目の前にただ続く陽のあたる道」を比較的ポジティブな方向性のワードだと考えていて、だからサビの中でも前半と後半で感情がすれ違っているよう考えていた。が、ふと今、すれ違いを解消する仮説を思いついた。

 夜に生きるものである「俺」にとって「陽」は必ずしも温かくないのではないか?

 太陽は空虚な真空、ともすれば笑われるべき「あのただのあかり」(Cornelius〈太陽は僕の敵〉)であって、彼を助けるものでは決してない。むしろ夜明けはドライブの終わりを告げる(ベッドタウンに生まれ育った高橋徹也はドライブと夜の国道、郊外の風景、カーステレオから流れる音楽が分かち固く結びついている)のだから、太陽は彼から車を奪ってしまう。特に終盤、「君とよく似た悪魔」の顔が一瞬だけ映るためには「俺」は車を降りていなければならない、と思う。降りていた方が美しい。

 目の前に「ただ続く」のは精神の荒野ではないのか。彼は原理的に存在不可能な「新しい世界」をそれでも、あるいは不可能性ゆえにこそ求める。自らの「車」が無くなってもなお、強迫観念に襲われながら自らの足だけで「目の前にただ続く陽のあたる道」を歩かねばならない。