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ピチカート・ファイヴ論考2: 歌詞の具体例 / 録り音 / DJ感覚

 

 前回の記事の補足です。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 この記事中間部の論証で「歌詞の面から見ても明らかにピチカートファイヴは人さらいの音楽なんだよ」と納得するのは難しいでしょうから、曲を具体的に挙げていきます。

 

 

 「スウィート・ソウル・レヴュー」や「陽の当たる大通り」を指して「ハッピーな曲調と歌詞の中にもこっそり孤独な陰の部分が差し込まれるのが小西康陽の作詞家としての凄みだ」のような論があります。ある側面では正しそうです。少なくとも、ピチカート・ファイヴに好意的な印象を持つ方の多くはそう受け取っているのでしょう。

ピチカート・ファイヴ、鬱屈した時代にこそ改めて評価されるべき名曲 「スウィート・ソウル・レヴュー」が映し出す90年代の風景 | ぴあエンタメ情報

 

 彼の作詞でもっと憂鬱・諦観・皮肉がフューチャリングされているのは『ベリッシマ』各曲、「大人になりましょう」「サンキュー」などでしょうか。歌詞を調べてみると、なるほど、これは確かに子供の音楽ではないですね。

 

 が、まともな大人のための音楽でもないでしょう。歌詞の陰陽どちらにもリマークが付きます。

 

 まずハッピー・ポップとされている方ですが、明るさの演出の仕方がネアカのそれではない(音楽・映画オタクの小西康陽は当然ネクラです)。"野宮真貴"というキャラクターに仮託したことを考慮してなお、狂態・躁病と言うほうがしっくりきます。例えば「ハッピー・サード」の「踊りたくないなら ひとりで踊る」。もう我々は止める術を持ちません。勝手に踊ってろ。

 なお躁も時代によりテイストが違い、「90年代前半までは素で狂っていた」「90年代後半からは仕事として/無理して狂っていた」という特徴があるようです。

 

 次にサード・ユウツとされている方。一流の皮相ですが、裏を返せば真剣に向き合っていないということです。彼の書く歌詞にはどうしたって真剣みを欠いたふざけ・遊びが入ります。そう見えてしまいます。筆者は「サンキュー」の「ゴキゲンなキスしてくれてサンキュー ユウツな気分で死にたいけど」が小西康陽の歌詞の中で一二を争うほど好きなのですが、この歌詞は上の「ひとりで踊る」同様に果てしないコミュニケーションの断絶を表しているよう思われます。この、何を投げても影響しない/会話できない感じが筆者は好きなのです。

 悲しみの表現もやはり時代とともに変遷があり、90年代後半にいくとよりプライベート・エモーショナルな歌詞が増えていきます(世間的に一番愛好されているのはこナイーヴな泣きの側面でしょうか?) しかし、本人は真剣なつもりかもしれませんが――小西康陽の単語帳から引用された単語のコラージュで表現されるがゆえに、真剣さが十分伝わってこない。「メッセージ・ソング」もプライベートな出来事から着想しているようですが(次の記事の5ページ目)、筆者は少し笑ってしまいます。

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 異なる曲で何度も繰り返し使用し文脈を重ね過ぎたせいで、もはや小西康陽は「愛してる」の単純なひとことすら伝えることが出来ません。哀れ。

 

 

 

 狂熱と憂鬱、戯れ、同じ単語の繰り返しによる独自文脈の発生、コミュニケーション不通。歌詞だけでも売れないのがよく分かりますね。圧倒的に他人への共感に欠ける。「自分と関係ない話をしているなこいつ」と多くの人に思わせたらセールスはおしまいです。

 しかし逆に、小西康陽の歌詞はこれらの特色によって独自の魅力を(一部の人に)発揮し、遠くどこかへ連れ去ってしまいます。

 

 歌詞の面でもピチカート・ファイヴは人さらいの音楽なのだ、ということが以上で説得されたでしょうか。

 

 彼の歌詞世界に乗っかってしまうのは、非常に楽しいですが、とても良識ある大人の行為とは思えません。ガワだけ見ているのなら無責任で軽薄な消費だし、ちゃんと中身を見ているなら子供おじさん/おばさんです。ポップスなんてそんなものかもしれませんが。

 特にピチカートファイヴで美しく豊かになってしまうような生活はダメです。前回の記事でも書きましたが、そんな生活は社会構造の問題として捉える必要があります。

 

 

 小西康陽作詞の中で遊びの側面を抜きに褒められるのは「子供たちの子供たちの子供たちへ」ぐらいでしょうか。離婚して別れる子供たちに向けて書いた曲というだけあって、いつもの語彙でありながらどことなく真摯に聞こえます。

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追記:

 旧譜を聞き返していて重要なことを忘れていたのですが、『BOSSA NOVA 2021』以降のピチカート・ファイヴって常に"ピチカート・ファイヴ"の音がしますよね? 編曲でなく(編曲も以前と比べれば実験が少ないですが)録音、音作り、スタジオワークの話です。筆者が90年代のポップスを全然聞いていないせいで生じた勘違いだったら申し訳ない。サウンドが安定したこともピチカートファイヴのブランド化・パッケージングに一役買っていると思います。

 

 もう一つ。小西康陽のDJ感覚は彼の編曲・作曲の特徴づける重要な要素ではないかと。『月面軟着陸』のリミックス、『女性上位時代』のサンプリング、『SWEET PIZZICATO FIVE』のディープハウスは語るまでもありません。

 それ以降も彼の楽曲に存在する過剰なシンプルさと繰り返し。一方であるべきものが欠けた引き算と不在の感覚。乾き。シンプルさだけならオールディーズの影響とみなせるかもしれませんが、お手本から学ぶべきは過不足ない丁度良さです。小西作曲を年代順に聞いていくと、クラブミュージックの聴取によって彼に内在していた繰り返し傾向(『coupes;』87年で既に過剰の気がある)が強化されたという仮説を立てたくなります。いかがでしょうか。