前回のあらすじ:
アイルランド最大の都市ダブリンに生まれ育ち、ヨーロッパ大陸に移住してからもダブリンの街を描き続けた作家ジェイムズ・ジョイス(1882-1941年)。彼の作品として短編集『ダブリナーズ』(1914年)および長編『若い芸術家の肖像』(1916年)を紹介した。
『ダブリナーズ』は自然主義リアリズム小説を、『若い芸術家の肖像』は教養小説を骨格としながら、それに飽き足らぬ要素を持っている。また両者に共通する特徴として、ストーリー的・ドラマ的な盛り上がりを敢えて外す禁欲性と、代わりに読みどころとなる小説技巧が存在する。
今回はいよいよ『ユリシーズ』に取り掛かる。想像上のダブリンの街を虚構の人物と実在の人物が練り歩いて、大小さまざま悲喜こもごもの事件が巻き起こるだろう。いや、大した事件は起こらない。1904年6月16日のダブリンは史実でも作品の中でも平凡な1日だった。そんな日常を大長編に(無理やり)仕立て上げたからこそ、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも『ユリシーズ』があれば再現できる」と豪語したのだ。
ウォーミングアップ2
『ユリシーズ』に挑む前に必須レベルで読むべきものは、おそらく4つある。
ジョイスの2作品についてはキャラクターブックとしての側面やストーリーの連続性を前回すでに指摘した。ジョイス作品への向き不向きを判断する意味合いもある。
『オデュッセイア』(前8世紀頃成立、前6世紀頃テクスト化)にも異論はないだろう。地中海世界から冥府までに及んだオデュッセウスの10年の旅路を、現代のたった1日、1904年6月16日のダブリンに喜劇的に凝縮したものがジョイスの『ユリシーズ』だからだ。一応確認しておくと、『ユリシーズ』というタイトルはオデュッセウスのラテン語形・英語系「Ulysses」から来ている。
- ホメロス『オデュッセイア(上)(下)』松平千秋訳、岩波文庫、1994年
- 西村賀子『ホメロス『オデュッセイア』 〈戦争〉を後にした英雄の歌』岩波書店、2012年
- 阿刀田高『ホメロスを楽しむために』新潮文庫、2000年
- 各歌あらすじ:オデュッセイア by ホメロス – Literature Book Blog
ジョイスが全24歌からなる『オデュッセイア』を枠組みとして選んだのは、オデュッセウスが「文学史上唯一のオールラウンド・キャラクター」だから、らしい。彼は息子、父親、夫、恋人、戦士、王など男性の社会的役割を全て引き受ける。さらに知略を活かして乞食や遭難者にも彼は変身する。『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルーム(Leopold Bloom)もまた、様々な姿を見せてくれるだろう。
『オデュッセイア』の活用は見事だ。トロイア戦争から数えて20年もの間故郷のイタケ島でオデュッセウスを待ち続けた貞淑な妻ペネロペイアは、1904年6月16日夕方頃に不倫を行うブルームの妻マリアン・ブルーム(愛称モリー)と対応する。モリーの姦通を察して朝家を出て深夜までダブリンの街を歩き続けるブルームは、寝取られ亭主として作中ずっと非英雄的に悩み続ける(実際はかなり「寝取らせ」亭主の感がある)。『ユリシーズ』の最終第18挿話「ペネロペイア」においてモリーは、意識の流れとともに自らの生と性を賛美するだろう。
『オデュッセイア』第1-4歌の主人公を務めるオデュッセウスの子テレマコスは、『若い芸術家の肖像』から登場するスティーヴン・ディーダラスと対応する。テレマコスが作中大した活躍をせず、出生の不安を抱える(生後すぐオデュッセウスがトロイア戦争に向かったため本質的に父親が不在)ことを翻案して、スティーヴンは才気走る文学青年であり、ブルームと血のつながりを持たない。またスティーヴンは母の喪に1年服しており、ブルームは父と息子をずっと前に亡くしている。『オデュッセイア』における父子の継承のテーマがいかに疑似家族的に変奏されるか(されないか)が、『ユリシーズ』の家族小説的な読みどころになる。
しかしながら、対応は必ずしも素直ではない。例えば『ユリシーズ』第10挿話は「さまよう岩々」と題されているが、これは『オデュッセイア』だとキルケ―の助言により回避されたはずの苦難だ。『ユリシーズ』第8挿話「ライストリュゴネス族」は『オデュッセイア』第12歌に登場した人食い族のことだが、「ダブリン市民の飢えが王アンティパテスに、歯がライストリュゴネス族に対応」というのはかなり無理を感じる(ただしこれはジョイス自身が自作と『オデュッセイア』の対応を説明した計画表に書かれている)。そもそも『オデュッセイア』が全24歌なのに対し『ユリシーズ』は全18挿話であり、オデュッセウスのイタケ島到着後を扱う第13-24歌は『ユリシーズ』の第16-18挿話に押し込まれている。
計画表については後にまた触れる。モダニズム文学の神話的方法にさほど興味がないなら、『ホメロスを楽しむために』や「まんがで読破」シリーズで『オデュッセイア』を読んだことにしてもよいかもしれない。
必須文献として『ハムレット』(1603年)を挙げているのは意外に思われるだろうか。
理由の1つは『ユリシーズ』第9挿話「スキュレとカリュブディス」でスティーヴンが展開する奇妙な『ハムレット』論にある。いわく、「作者シェイクスピアは王子ハムレットではなく亡くなった先王に対応する」「ハムレットはシェイクスピアの亡くなった息子ハムネットに対応する」「王妃ガートルードが叔父王クローディアスと再婚したのは、シェイクスピアの年上の妻アン・ハサウェイがシェイクスピアの弟に寝取られた「史実」が裏にあったからである」。アンは悪妻として有名だが、このような姦通史観はスティーヴンおよびジョイスの独創だ。この奇抜さを味わうために『ハムレット』を読んでおきたい。
理由のもう1つは、『オデュッセイア』と同様に『ハムレット』も枠組みとして『ユリシーズ』に使われていることにある。この2つに共通するのは王位簒奪と姦通のテーマだ。『ハムレット』はいわずもがな。『オデュッセイア』ではオデュッセウスがすでに死亡したと考えた若者たちがペネロペイアに求婚し、宴会を開いてオデュッセウス家の財産を食いつぶしている。
定評がある『ハムレット』邦訳を並べておく。
枠組みとしての先行作品利用は『ハムレット』にとどまらない。
ジョイスの『オデュッセイア』利用はダンテ『神曲 地獄篇』(14世紀)を、『ハムレット』利用はゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795年)を経由している。ブルーム周辺には旧約聖書が、スティーヴン周辺には新約の福音書が素材として使われているという話も聞く。寝取り・寝取られに関しては当然フローベール『ボヴァリー夫人』(1856年)を参照するだろう*1。ジョイスの糞便への興味はアイルランド文学の先人スウィフト『ガリヴァー旅行記』(1726年)を引き継いでいる。挿話単位ではもっとパロディ元は多くなり、第15挿話「キルケー」ではマゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(1870年)が爆笑できる形で引用されている。当時の猥本、流行歌の類も至るところに登場し、想像以上に重要な役割を果たす。
これらは必須レベルでも推奨レベルでもないが、多少知識があると『ユリシーズ』をより楽しめる、かもしれない。
何が言いたいかと言えば、枠としての『オデュッセイア』にこだわる必要はないし、こだわるにせよ全てを『オデュッセイア』に帰すべきではない、ということだ。
『ユリシーズ Ulysses』(1922年)
まず邦訳を紹介する。
- 丸谷才一/永川玲二/高松雄一=訳『ユリシーズ I/II/III』集英社、1996-97年/『ユリシーズ 1/2/3/4』集英社文庫、2003-04年
- 柳瀬尚紀=訳『ユリシーズ 1-12』河出書房新社、2016年
- 柳瀬尚紀『ユリシーズ航海記 『ユリシーズ』を読むための本』河出書房新社、2017年(第17挿話訳などが掲載)
訳者死亡のため柳瀬訳は残念ながら完訳ではない。また注釈が一切なく、英語の洒落をアクロバティックに和訳するので訳文が独特。というわけで初読は丸谷・永川・高松訳をお勧めする。
丸谷ほか訳にも問題がある。誤訳の類はおいておくとして、注釈が明らかに多すぎる。不親切でほとんど意味をなさない注と親切すぎて興を削ぐ注を減らせば、1/4~1/3は削れるのではないか。
丸谷ほか訳を読む場合、やはり注釈の読みやすさを理由に単行本で読むことを勧める。単行本『III』巻末には人物案内・計画表・ブルーム年譜がまとまっているので、適宜参照されたい。登場人物が多い作品なので人物案内はとても役立つ(文庫版では『1』巻末にある)。
以下、『ユリシーズ』からの引用は単行本基準で示す。
サプリメントとして次の文献がある。
- 金子嘉彦/吉川信/横内一雄=編著『ジョイスの挑戦 『ユリシーズ』に嵌る方法』言叢社、2022年
- 下楠昌哉/須川いずみ/田村章=編著『百年目の『ユリシーズ』』松籟社、2022年
- 結城英雄『『ユリシーズ』の謎を歩く』集英社、1999年
- 北村富治『「ユリシーズ」大全』慧文社、2014年
- 2022年に行われた『ユリシーズ』読書会の資料:
- Stephens's Notes - STEPHENS WORKSHOP
- 各挿話あらすじ・計画表:Outline of Ulysses
『ジョイスの挑戦』と『謎を歩く』は読書中に穴を埋めるガイドとして使える。『百年目』は『ユリシーズ』に飽きたとき思考を刺激するものとして。『大全』は未見だが評判が良い。
正直に言うと関連書籍が多すぎて全然チェックできていない。良いものがあれば適宜追加する。
前回記事まで含めると、ここまでで既に『ユリシーズ』について結構説明してしまった。以下ではQ&A形式で残りの部分に触れたい。
Q. ぶっちゃけ面白いの?
A. う~~~~~~ん、挿話による。個人的に好きな部分は小説(novel)の面白さではないかもしれない。
まずもって、ストーリーには期待しない方がよい。1800ページかけてスティーヴンは青春の終わり(芸術家になれるかは分からない)を予兆するだけ、ブルームとモリーは夫婦関係の変化(どう転ぶかは分からない)を予兆するだけである。
人間心理の深みや細かい襞を描くことにも期待しない方がよい。いや、場面ごとには当然いろいろある。しかし一番出番の多いブルームに関して言えば、妻を寝取られることに関する懊悩は一定の段階から先に進まないし、生後11日で亡くなった息子ルーディに関しても全然言語化がされない。「深み」について例の如く禁欲的だ。私が読み取れていないだけの可能性も高いが。
代わりにあるのが、意識の流れによる膨大な情景描写、とりとめもない思考、性的描写、etc. だ*2。ブルームは「現代文学の主人公のうちでも最も自意識的でない」と言われている。自意識的な理想主義者スティーヴンではなく猥雑な現実主義者ブルームを主人公にした時点で、『ユリシーズ』の方向性は半分決まっていた。
第4挿話「カリュプソ」より、ブルームがトイレで新聞を読みながら脱糞している場面を見てみよう。
じっと我慢しながら彼は静かに一段目を読み、そして、出しながらしかも抑えながら、二段目を読みはじめた。半分まで来て、もう抑えることをやめ、しずかに内臓が開いてゆくに任せながら読み、さらに辛抱づよく読みつづけるうちに昨日の軽い便秘はどうやら解消した。頼むぜ、あまり大きいとまた痔になってしまう。いや、ちょうどいい。そう、ああ! 便秘薬。カスカラ・サグラダを一錠。人生がすっかり明るく。感動も情緒もかきたてない話だけど、歯切れがよく気がきいてる。今はなんでも活字になる。ねた涸れ時だ。
(『I』p.173、第4挿話・第578-85行)
当時の規範意識からすればかなり挑発的な描写だったろうが、それはおいておく(モダニズム文学における糞便表象に興味のある方は『百年目の『ユリシーズ』』を参照)。注目すべきは、これが「脱糞している以上に脱糞している」リアルな描写であることだ。「内臓が開いてゆくに任せながら読み」のようにブルームの読書と便の排出は不可分に結びついている。さらにこの「流出」が、読者が『ユリシーズ』の文章を目で追う流れと重なることで、非常にモダンな排便のリアリティが達成されている。
『ユリシーズ』のジョイスは、人間心理の浅いところ、前意識(努力すれば意識化できる無意識の領域)に注目し続ける集中力がある*3。これは偉大な文学的達成だ。
しかし面白いかはまた別の話で、描写が拡散し続けるからずっと読んでると辛くなる。読者側が集中できない。
『ユリシーズ』のどこが面白いのかをまだ説明できていない。『ユリシーズ』の文体的構造をとっかかりにしよう。
ジョイスが計画表で明らかにしているように、各挿話はそれぞれ異なった文体で書かれている(ことになっている)。例えば第6挿話「ハデス」は「技術=インキュビズム」を、第10挿話「さまよう岩々」は「技術=迷路」を使っているらしい。第10挿話の「迷路」とは、19個の異なるセクションでダブリンの市民たちを描き、さらにセクションの途中で数行他のセクションを挿入する技法を指しているのだろう。第6挿話の「インキュビズム(夢魔主義?)」はよく分からない。
そして前半の第1-9挿話と後半の第10-18挿話では目的意識が大きく異なる。ジョイスは1914年の執筆開始時から全体の構想を持っていたわけではなく、書きながら着想を固めた方がうまくいくと考えていた。その結果生まれたのが第9挿話と第10挿話のギャップだ。
『ユリシーズ』前半は、『若い芸術家の肖像』の延長線上にある人物中心の物語と言える。つまり「正統」なモダニズム小説だ。全部が全部つまらないわけではないが、地味なことは否定できず、脱落者が多いのも納得できる。……私は『肖像』をあまり評価していないので『ユリシーズ』前半に対しても辛いが、『肖像』が好きな人なら『ユリシーズ』前半をもっと評価するだろうか*4。
一方『ユリシーズ』後半は、物語を語るとは何なのかを問う読者志向のテクストだ。前回「インタールード:ジョイスの文体」で説明した範囲を越えて、語り手が「編成者」に変貌している。
具体的に見てみよう。次は個人的に最も好きな第12挿話「キュクロプス」からの抜粋。第12挿話で描写されるのはパブでのやりとりで、語り手は乱暴な口調の「おれ」と、「おれ」の語りを様々な文体でパロディする謎の語り手=編成者。
するてえと、チンプンカンプンの心得がちょっぴりあるレネハンが言う。
──《イギリス人をやっつけろ! 信用できないイギリスめ!》
彼かく言いてのち、荒くれ大いなる逞しき毅き両手にて、黒ずめる強き水泡なすエールの大杯をあげ、おのが族のスローガン《赤き手を勝利へ》を唱えつつ、敵なる族、猛く雄々しき英雄たち、不死の神々のごとく黙しつ雪花石膏の玉座に坐す大海原の征服者たちの壊滅をば祈りてそを飲みほしぬ。
──どうしたんだ? とおれはレネハンに言う。一シリング落として六ペンスだけ見つけた野郎みてえな面してるぜ。
(『II』p.179、第12挿話・第1330-39行)
ここで挿入されたのは中世ロマンスのパロディだ。ただでさえ話が盛られがちな酒場での会話が別な方向に盛られるのが面白い。計画表の「技法=巨人化」は言い当て妙である。ついでに言っておくと、第12挿話はクライマックスに向かって次第に盛り上がっていくストーリー的な機微も楽しめる。
次は読んでて2番目に辛かった第17挿話「イタケ」からの抜粋。計画表における「技法=教義問答(非個人的)」の意味はすぐに分かるだろう。
ブルームは暖炉レンジで何をしたか?
彼はシチュー鍋を左の台に移し、立ちあがって鉄の湯わかしを流し台に運び水出しの栓をひねって水を流そうとした。
水は出たか?
出た。ウィックロー州にある立法容積二十四憶ガロンのラウンドウッド貯水池からダーグル川、ラスダウン、ダウンズ峡谷、キャローヒルを経て、スティローガンにある二十六エーカーの貯水池までは、二十二法定マイルの距離を距離一ヤードにつき五ポンドの契約敷設費で構築された単複線パイプラインの濾過装置本管による地下水道を通過し、[引用者略:400文字]
水を愛し、水を飲み、水を運ぶ者ブルームは暖炉レンジへ引き返しながら水のいかなる属性を賛美したか?
その普遍性、その民主的な平等性と、みずからの水平を保とうとする本性への忠実さ。メルカトル投影図の海洋におけるその広大さ。[引用者略:1000文字]
(『III』pp.322-326、第17挿話・第173-233行)
無駄な話が延々と続いて読むのが辛い。描写しているのはブルームとスティーヴンの物語が交差して別れる『ユリシーズ』全体のクライマックスで、普通に書けば普通に盛り上がるところだが、ジョイスはそうしない。普通の小説には興味ないらしい。
このように、『ユリシーズ』後半は面白さもつまらなさも派手である。個人的にはこっちの方が好みだ。前半で挫折するくらいなら、『III』巻末の人物案内を活用して第11/12/13/15挿話にいきなり挑んでもよい。
そして『ユリシーズ』後半の面白さ/つまらなさが小説(novel)の面白さ/つまらなさかと問われたら、たぶん違うと答えよう。
批評家ノースロップ・フライは『批評の解剖』(1957年)において散文の形式を「小説」「ロマンス」「告白」「解剖」の4つに分けた際、その全てが『ユリシーズ』に含まれていることを指摘した。ジョイス自身は『ユリシーズ』のことを好んで「叙事詩」「百科事典」と呼んだ。
参考:
Q. なんで1904年6月16日なの? ジョイスの初デートはどう活かされてる?
A. ジョイスの初デートはあんまり活かされていない。6月16日が選ばれた理由は複合的。
前回冒頭に書いたことを再掲する。
1904年6月16日夕方頃、アイルランド最大の都市ダブリンにて、22歳の文学青年[ジェイムズ・ジョイス]がある女性[ノラ・バーナクル]と初めてのデートに臨んだ。その女性は後に青年の妻となるだろう。青年はこのデートをきっかけに、母親の死以来感じていた孤独感を捨てるだろう。
これは今日よく流通しているロマンチックな説明である。「君はぼくを大人にした」とその後ジョイスはノラに語ったとか。
しかしながら『ユリシーズ』を読んでいると、中年女モリーの浮気と中年男ブルームの逡巡を書き込むことのどこが初デート記念なんだという疑問が当然湧く*5。実際のところ、1904年6月16日前後にはノラとの初デート以外にもいくつか転機があったらしい。
まず第9挿話「スキュレとカリュブディス」で述べられるシェイクスピア=ハムレットの父王説を思いついたのが、1904年6月16日前後のことらしい。シェイクスピアを情けない寝取られ男とみなすこの説はジョイスのお気に入りであった。披露の機会をうかがい続け、最終的に『ユリシーズ』の重要な箇所に収めることとなった。
次にアルフレッド・H・ハンターという男との出会いがある。ジョイスはすぐノラに夢中になったわけではなく、1904年6月20日前後、聖スティーヴンズ公園にて連れのあることに気づかず若い女に話しかける(酔っぱらっていたのか?)。それで連れの男と言い争いになり、結局「目はあざ、手首足首は捻挫、あごも手も裂傷」の状態にされた。
このときジョイスを介抱してくれたのがアルフレッド・H・ハンターだった。ハンターは「身持ちの悪い細君を持った」「ユダヤ人」だと当時噂されていたらしい。彼はジョイスとほとんど面識がなかったにもかかわらず、親切にもジョイスを助けてくれた。
ジョイスはハンターをモデルにした短編を書いて『ダブリナーズ』に収めようとしたが、筆が進まず挫折する。だがハンターの人物像はその後も膨らんでいき、『ユリシーズ』の主人公ブルームへと結実した。ここまで説明を避けてきたが、ブルームが「ユダヤ人」である──本人のアイデンティティはもっと曖昧で複雑なのだが、周囲から「ユダヤ人」と思われているがゆえに「ユダヤ人」である──ことは、ハンターをモデルとしている。
さらにジョイスの実人生において、「ノラとの初デート」を読み替える機会があった。ジョイスの友人にヴィンセント・コズグレーヴという男がいて、スティーヴンの友人リンチのモデルになっている。1909年8月頃、コズグレーヴはかつてノラと関係を持っていたとジョイスに告白し、ジョイスをひどく動揺させた。数日後には虚偽だと判明するのだが。
ノラの浮気疑惑はその後も何回かあって、ジョイスの戯曲『追放者たち Exiles』(1918年)がこの問題を扱っている。
このように、ジョイスは姦通に並々ならぬ関心をもち、実人生においても遭遇した。『ユリシーズ』が初デートを記念しているとしても、それは紆余曲折を経た30-40代の夫婦関係から振り返ったものである*6。
『ユリシーズ』における愛の造形はさほどウェットなものではない。第18挿話で明かされるようにモリーはかなりドライだ。感傷にひたるブルームにせよ、至るところで好色ぶりを発揮する*7のであって、それが独特のユーモアをもたらす。
もしロマンティックなラブがあるとすればそれは、常に過去の中に、しかも味覚・触覚を強く喚起するものとして描かれる。
そっと彼女はおれの口のなかに温かく嚙んだシードケーキを入れた。彼女の口で嚙まれ唾で甘酸っぱく柔らかいむっとする塊。歓喜、おれは食べた、歓喜。
(『I』p.424、第8挿話・第1039-1041行)
参考:
「1904年(21-22歳)」、リチャード・エルマン=著、宮田京子=訳『ジェイムズ・ジョイス伝1』みすず書房、1996年、pp.163-206
桃尾美佳「第4挿話と腎臓を食らう男」、金子嘉彦/吉川信/横内一雄=編著『ジョイスの挑戦』言叢社、2022年、pp.112-133
Q. 計画表、どう付き合う?
A. 初読の際はあまり気にしないほうがいい。
第1挿話「テレマコス」 学芸=神学 色彩=白、黄金色 象徴=相続人 技術=語り(若者の) ……
といった感じでつらつら書かれる計画表。ジョイスは自作と計画表について次のように語っている。
これは二つの民族(イスラエルとアイルランド)の叙事詩であり、同時に一日(一生)の小さな物語であり、人体の循環でもあります。……作品は一種の百科事典でもあります。わたしの意図は、神話を〈わたしたちの時代の相〉に置きかえるだけでなく、各冒険(つまり、身体全体の構成計画の中で、各時間、各器官、各学芸が内容的につながり、相互関連します)におのおの独自の技法を条件づけ、創造さえもさせることです。
(1920年、カルロ・リナッティへの書簡)
すぐにこれを見せたら、わたしは不滅ではなくなってしまいます。謎やパズルを少なからず書きこんだので教授たちは何世紀もかけてわたしの意図を議論しつづけることになるでしょう。それが不滅を維持する唯一の方法なのです。
(ブノワ=メシャンへ計画表を渡すときの言葉)
「それが不滅を維持する唯一の方法なのです」に関しては「作品の生命って別にそういうことではなくね???」と言いたくなるが、ひとまずおいておく。ジョイスがどのくらい本気なのかも分からない。
計画表について考えるため、その歴史を説明したい。
『ユリシーズ』はアメリカのリトルマガジン『リトル・レヴュー』で連載されていたが、露骨な性描写により検閲・発禁処分が相次いだ*8。特に第13挿話「ナウシカア」後半部(1920年掲載)における覗き・自慰描写がニューヨーク悪徳防止協会に咎められ、出版者が訴えられてしまう。罰金の実刑が下り(1921年4月)、第14挿話「太陽神の牛」冒頭が掲載されて以降『ユリシーズ』の連載は止まった。第15挿話「キルケー」が荒唐無稽な夢幻劇なのは、連載停止に対する開き直りがあったのかもしれない。
ジョイスが計画表を書いて仲間内で共有し始めたのも訴訟以降のことだ。非難に対する芸術性の自己弁明としてオデュッセイアとの対応(ホメリック・パラレル)を強調した。とはいえ1度計画表を作ってみたらジョイスも興が乗って、本文全体を計画表に沿ってリライトしたようだ。
『ユリシーズ』に対する初期批評はホメリック・パラレルに沿って与えられた。最も早いものの1つに、T. S. エリオットの「『ユリシーズ』、秩序、神話」(1923年)がある。これはむしろ自作『荒地』の擁護に見えるが。1940-50年代アメリカで新批評が勃発した際にも、『ユリシーズ』の形式性に着目して大量の研究論文が書かれた。これが今日ジョイス産業と揶揄されているものの出発点である。
計画表は実際的にも役立ったようだ。1933年に『ユリシーズ』のアメリカでの出版を許可する判決が下された際、判事はホメリック・パラレルを含む批評書を読んだ形跡がある。
しかしながら、ジョイスは後に形式化しすぎたことへの後悔をあのナボコフに語った。ナボコフもだいぶ形式と衒学の人なのが面白い*9。
「不滅を維持する唯一の方法」である「謎やパズル」について、今『ユリシーズ』を読む読者は大量の訳注や注解書により謎解きをある程度外部委託できることは指摘すべきだろう。
例えば丸谷ほか訳において、ブルームがユダヤ人であることは第4挿話「カリュプソ」冒頭の概説に書かれている。しかし小説本文で初めてこの情報が明かされるのは第8挿話「ライストゴリュネス族」のはずだ。解説によって作品本来のプロットが破壊されている。
気になる方もいるだろうし、そういう方には柳瀬訳をお勧めする。個人的には「この程度なら」構わない。丸谷ほか訳の介入が過剰に感じることもあるが、外部の助けを借りないと『ユリシーズ』に付き合っていられない*10。
『ユリシーズ』の謎は未だ尽きない。ストーリーの根幹に関わるものとしては、主人公ブルームが寝取られに抵抗しない理由、息子ルーディ死亡後のブルーム夫妻の関係変化が挙げられる。脇道ながら第6挿話「ハデス」以降登場する「雨外套(マッキントッシュ)の男」の正体も、昔から今まで好事家・専門家の議論を呼んでいる、
計画表に沿った読解もまた、新批評時代にあれだけ大量生産されたにもかかわらず、有効な議論という意味ではむしろ不足しているくらいだ。つまるところ面白くて説得的な議論が非常に難しい(だから初読者にはお勧めしない)。興味のある方へ注意しておくと、計画表自体ある種の作品とみなすべきである。内輪向けとはいえ人に見せるために書いたものだし、2つのバージョンが確認されている。さらに先述したように、『オデュッセイア』以外にも枠組みは多数存在する。
一方で、『ユリシーズ』の百科事典的なサイズ感が謎解きと衝突している気がしてならない。本当に謎解きをさせたいならT. S. エリオット『荒地』(1922年)くらいコンパクトにまとめるべきではないか。長編小説としてもナボコフ『ロリータ』(1955年)くらいが限界に見える。
全ての謎を集めた百科事典には全ての答えが書き込まれており、謎解きはその意味を失う。少なくともそのモチベーションは削がれる、というのが正直な感想ではないか。
結構真面目に、『ユリシーズ』1番の謎はその物量だと私は考えている。量が質に転換する。
参考:
金子嘉彦/吉川信/横内一雄=編著『ジョイスの挑戦』言叢社、2022年
コンクルージョン
『ユリシーズ』はなにか1つの述語で限定されることを拒む作品だ。それでも無理を押して現代から見た『ユリシーズ』の魅力を言い当てるならば、とてつもないスケールのバカをやらかしている点にあるのではないか。大いに笑わせ(ジョイスが)、大いに笑われる(ジョイスが/読者が)。
ジョイスは言葉の天才だが、バカだ。本文も計画表もどこかアホらしい。読んでいて「あんなに小説が上手かった人が、なぜこれを……」「別に小説の制度ぶっ壊さなくてよくね?」という思いが何回もよぎった。もちろんそこが歴史的に重要なのだが。
個人的に読んでいて1番辛かった第14挿話「太陽神の牛」における古英語から現代英語までのパロディは、描写されるミセス・ピュアフォイの難産および計画表における「器官=子宮 学芸=医術 色彩=白 象徴=母 技術=胎生的発展」と重なっているらしいが、「だから何?」の領域である。広大な遊び場を提供されたと思うべきか。
意味と無意味が同居する豪快さは、『ダブリナーズ』にも『若い芸術家の肖像』にもなく、『ユリシーズ』になって初めて現れたものである。そして夜と夢の世界を描いた『フィネガンズ・ウェイク』でより大々的に展開されるだろう。
「ジェイムズ・ジョイス入門(3):『フィネガンズ・ウェイク』」を書く予定はない。
以下、シリーズ全体で参考にした資料と文献案内を挙げておく。これもチェックが足りてないので、良いものを見つけ次第追加する。
- リチャード・エルマン=著、宮田京子=訳『ジェイムズ・ジョイス伝1 / 2』みすず書房、1996年
- ジェイムズ・ジョイス=著、吉川信=訳、『ジェイムズ・ジョイス全評論』筑摩書房、2012年
- ジェイムズ・ジョイスに関する、日本語で読める研究書など - 鳥 批評と創造の試み
- ジェイムズ・ジョイス研究 - STEPHENS WORKSHOP
アペンディクス:『ユリシーズ』注目キャラランキング(2024年6月16日時点)
第5位 競走馬スローアウェイ(史実)
1904年6月16日ゴールドカップ・レース(アスコット競馬場、ロンドン近郊、現在GI)にて勝利したダークホース。単勝20倍。
ブルームは第5挿話にて「その新聞もう捨てる(throw away)」と言ったのを「スローアウェイ(Throwaway)に賭けた」と聞き間違えられた。この勘違いから第12挿話でブルームに災難が降りかかる。
ホメリック・パラレルにおいてトロイア戦争の「トロイの木馬」と対応する*11。
翻訳者・柳瀬尚紀は競馬好きで、1904年6月16日における唯一の事件はスローアウェイの勝利だと述べた。これも厳密にはイングランドで起こったことだから、1904年6月16日のダブリンで記録に残る事件は何もなかったと言える。
第4位 シェイクスピア(第15挿話)
(麻痺した顔に怒りを込めて。)はしめのおと、ころたの、二ど、けこす。
(『III』p.106、第15挿話・第1686-7行)
T. S. エリオット『荒地』とは違って*12、なんと本人登場。しかし第1挿話から伏線を張っておいて、第9挿話であれだけ語られたにもかかわらず、雑魚。(スティーヴン=ジョイスの解釈に従えば)寝取られ男の末路。
『ハムレット』3幕2場の王妃のセリフ「初めの夫を殺すほどのものでなければ、二度目の夫とは結婚いたしませぬ」からの引用。
第3位 キャシェル・ボイル・オコナー・フィツモリス・ティズダル・ファレル/綽名エンディミオン・ファレル(史実)
彼はワイルドの家の角で立ち止り、メトロポリタン・ホールに貼り出されたエリヤの名前に顔をしかめ、遠くのデュークス・ローンの賑いに顔をしかめた。しかめっ面の片眼鏡が日ざしにきらりと光った。彼は鼠の歯をむき出して呟いた。
──《強イラレシユエニ欲シタリ》
(『I』p.606、第10挿話・第1282-6行)
名前が長いうえに物を沢山持った変人。実在したダブリンの名物男。《強イラレシユエニ欲シタリ》は原文だとラテン語「Coactus volui」で『ローマ法大全』からの引用。
盲人の青年にぶつかって謝りもしない(というか気づかない)冷酷さをあわせ持つ。
第2位 王位を奪うやつ(第1挿話)
甘い長く尾を引く声が海から彼に呼びかけた。彼は角を曲りながら手を振った。声がまた呼んだ。つややかな茶色の頭が、あざらしの頭が、遠くの水の上に、まるく。
王位を奪うやつ。
(『I』p.59、第1挿話・第832-5行)
『オデュッセウス』の求婚者アンティノオスや『ハムレット』の叔父王クローディアスから引き継ぐ王位簒奪のテーマ。『ユリシーズ』第1挿話においてはイギリス人ヘインズとスティーヴンの友人マリガンがその役目を果たす。
ヘインズは国家の換喩。「悪いのは歴史らしいな」と言う彼がゲール語に熱心なのはゲーリック・リバイバルの民族運動としての限界を示唆する。
マリガンはスティーヴンのアイディアの簒奪者。一方でスティーヴンはマリガンに9ポンド(スティーヴンの月収の2.5倍)も借りており、聞き役として外部に道化を必要としているようにも見える。『肖像』のクランリーと同様に、「訣別する友」。
第1位 風の織り手(第2挿話)
でも、そういう可能性はつまりは実現しなかったのだから、可能だったと言えるのかな? それとも実現したものだけが可能だったのかしら? 織るがいい、風の織り手よ。
(『I』p.66、第2挿話・第60-3行)
強キャラ。注釈によると、「観念をもてあそぶものの意か。そのほか古代アイルランドの予言の術と結びつける説や、ギリシア神話で人間の運命を織る三人の女神を指すとする説がある」「古来の諺「言葉は風にすぎぬ Words are but wind」が念頭にある」。
第1挿話では異端者たちがこう呼ばれている。
風を織る者たちすべてを待つものはただ空無のみ。
(『I』p.54、第1挿話・第745行)
*1:百科事典的な奇書という点でフローベールの遺作『ブヴァールとペキュシェ』『紋切型辞典』(1881年)も忘れ難い。ここにおいてフローベールは『ボヴァリー夫人』の客観主義的語りとは違うゲームを始めている。
*2:意識の流れが積み重なり過ぎてブルームはリアリティを欠くところがある。普通の人間はたった1日の間にここまで大量の言語化された思考を行わないからだ。
*3:性倒錯や言い間違えへの着目という、フロイト心理学的にド直球な無意識描写も別途存在する。
*4:『ユリシーズ』前半が好きなら『肖像』も好き、が一番近い気がする。『肖像』のスティーヴンのキャラクター性・自意識が好きな人は、ブルームに必ずしも乗れないだろう。
*5:私の勘違いでなければ、第11-13挿話の間スティーヴンは描写されておらず、この間にスティーヴン(≒若き日のジョイス?)が「初デート」を行う余裕はあるかもしれない。初デート描写外説。
*6:ちなみにジョイスとノラが正式に籍を入れたのは1930年以後、子供が成人してからのこと。ジョイスがカトリック教会を忌み嫌っていたため。
*7:第4挿話で女中の尻を追いかける、第5挿話で潜在的浮気相手との文通、馬車に乗り込む女性への覗き未遂、第8挿話で女神像の肛門確認未遂、第11挿話で女給の尻を追いかける、第13挿話で少女のスカートの中を覗き見ながら射精、第15挿話でマゾヒズム/窃視/寝取らせ/スカトロジー/男性出産/女装/獣姦嗜好の暗示。
*8:『ユリシーズ』のポルノ性に関する余談。1930年代の日本では『ユリシーズ』の訳書が2つ出て1万部売れたが、そのほとんどがエロ目的での購入だったらしい。
*9: ナボコフの『ユリシーズ』評は『ナボコフの文学講義 下』(野島秀勝=訳、河出文庫、2013年)を参照。 彼がジョイスから何を受け取らなかったかが読みどころになるだろう。ナボコフもある種の謎解きを執拗に行うが、作中現実で完結する範囲にこだわり、ホメリック・パラレル的な間テクスト性はつまらないとして無視している。
*10:謎解きの初歩は、テクストに書かれたダブリン市内の店名・地名・通りの名前を丁寧に追って、人の動きを把握することだろう。訳注や注釈書によりやる気さえあれば追うことは容易。そして私はこの作業を『ユリシーズ』以前『ダブリナーズ』の段階で放棄した。正直に言うと、この手の細部の謎解きに熱中する人の気持ちが全く分からない。
*11:ただし細かいことを言えば、「トロイの木馬」は『オデュッセイア』だと過去回想でわずかに語られるのみ。
*12:次の記事の「シェイクスピヒア」参照。T. S. エリオット『荒地』登場人物最強議論スレ(強さランキング) - 古い土地