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ピチカート・ファイヴ論考1: 人さらいの音楽 / "誤解" / 階級闘争

 

 コンピレーションプレイリスト『配信向けのピチカート・ファイヴ その1高浪慶太郎の巻/その2小西康陽の巻』がリリースされました。小西康陽作曲のプレイリストはベスト盤・オリジナルアルバムに収録されていないミニアルバム・シングルの曲が多く選ばれているようです。自分はミニアルバムを探し集めるほど熱心なピチカートマニアではなかったので、未知の曲が多く、楽しめました。

 

 

 さて、世間一般のピチカート・ファイヴのイメージ(推測ですが)である「オシャレで生活を豊かにする大人な音楽」みたいなもの、結構リマークが付いて良いものと思います。編曲だけに着目すればそういう見方も無いではないです(そしておそらく渋谷系フォロワーに一番真似されている部分は編曲のアプローチだと思います)。しかし作曲と歌詞を踏まえると「キャッチーで、グルーヴィーで、明白に狂っている、人さらいの音楽」と言うのが妥当です。以下で説明しましょう。

 

 

 

 小西康陽の作曲について、コード進行は初期のやたらめったら分数コードやテンションコードを使うところ(作曲方面で渋谷系フォロワーに真似されるのはここでしょう)から『ボサ・ノヴァ2001』以降の割とトライアドで済ましてしまうところまで時代と共に変遷があります。しかし、展開に繰り返しが多い点は共通して取り出せると思います。これに一度はまると逃げられません。人を引き寄せるかはともかく(後述するように枚数が動いていないので広く人を引き寄せる音楽ではないでしょう)、人を引き離さない点でミームとしてのポップス強度が極めて高い。こういった意味で人さらいの音楽と呼んでいます。

 

 また、メロディは跳躍が多く意外と歌いづらいです。ボーカル(田島貴男野宮真貴)の歌の上手さでごまかされている点でもあります。

 

 

 歌詞を考えましょう。とはいえ、『女性上位時代』か『SWEET PIZZICATO FIVE』を一回でも歌詞に注目しながら通して聞けば分かることであります。「こいついつも朝か真夜中に何か始まる/終わるな」「(野宮真貴に仮託されたキャラクターが)傲慢すぎる」「何回”愛してる”と言うことを相手に求めるねん」「タクシー乗りすぎ」「(創作において嘘が許容されることを踏まえてなお)こいつ嘘ばっかりつくな」

 まあ『女性上位時代』も『SWEET PIZZICATO FIVE』もサブスクに無いんですが。作曲編曲歌詞全て素晴らしいだけに入手に一手間必要なのが良かれ悪しかれ

 

(でもyoutubeにはありました。うーんインターネット)

https://www.youtube.com/watch?v=8jbkBBOtAG8&ab_channel=TvuxoRoiale

Pizzicato Five - Sweet Pizzicato Five [Full Album] - YouTube

 

 彼の歌詞世界は一つの世界として確立されていて、同じ単語がいくつもの曲を通過していきます。もうちょっと下劣な言い方をすると、1日5本の映画を観ることで形成された小西康陽の単語帳があって、そこから使いまわしている感じがします。それで良い曲になるのだから大したものです。

 

 フルアルバムと『THE BAND OF 20TH CENTURY』のようなベスト盤では受け取る印象にかなり差があります。後者はまるで選曲により脱臭が図られているようです。歴史の編集、捏造、あるいはすべての歴史は偽史であるということなのでしょうか。サブスクにもあるベスト盤だけ聞かせて「小西康陽は狂った人なんだよ」と説得するのはかなり難しい気がします。それがちょうど筆者の置かれた状況です。

 

 

 (今日はベスト盤じゃなくて『ベリッシマ』を聞いて)

 

 具体的に曲の歌詞をバーっと並べて「こことこことここがおかしい、ここもおかしい、ここでもタクシーに乗ってる」等と書ければ良いのですが、一般的なブログ媒体は歌詞の引用条件が厳しいのですよね。歌詞の面からミュージシャンについて分析・批評したいときって山ほどあると思うのですが。

 

追記(2021/10/30):流石に具体例抜きに納得するのは難しいでしょうから、別記事を用意しました。1500文字でこの記事にそのまま書くのははばかられる分量ですが、独立の記事としては短いです。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

 

 さて、ではなぜピチカートファイヴ誤解(と筆者は主張したい)されているのでしょうか?

 

 

 第一に、評判・存在感・影響力がある割に全然売れてません。当時のオリコンチャートによると、フルアルバムで一番売れたのが『ROMANTIQUE 96』で132,390枚、最高10位。次に売れたのが『overdose』121,290枚、最高9位。シングルは「ベイビィ・ポータブル・ロック」が126,920枚、最高19位。

 比較のため数字を出しておくと1994年のシングルで最も売れたのがMr.Children「innocent world」181万枚とのこと。

 

 売れていない、つまり広く聞かれていないということ。広く聞かれるために生じるディスコミュニケーション(ポップスにおいて一番面白いコミュニケーション)があるように、知られていないために生じるディスコミュニケーションもあるでしょう。イメージだけが先行して実態が把握されていないとか。

 

 一昔前のディスクガイド本などでピチカートファイヴが紹介されるときよく『BOSSA NOVA 2001』がトップに出てくるのですが、これは売り上げが多いからなんでしょうね。内容だけで言うと先に『Bellissima!』『女王陛下のピチカート・ファイヴ』『女性上位時代』『SWEET PIZZICATO FIVE』あたりが紹介されてしかるべきです。

 初動1480枚しかオリコンに記録されていない『Bellissima!』と82,570枚の『OVER DOSE 2001』を比べて知名度で判断するのは分かりますが、単にアルバムを聞いていない気もします。というのも、もっと実売が動いて内容も伴った『overdose』があるので。

 

 

 第二に、小西康陽自身が「オシャレで生活を豊かにする大人の音楽」のモードに徐々に入っていったというのがあります。いえ、エッセイ等を読むと本人は80年代からそのつもりだったのかもしれません。ただ実作とそういった志向は、ある部分は(豊富な引用や編曲によって)結びついていたけど、また別の部分は(本人の意図を越えて?)断絶されていたように思います。

 

 作品を見てみましょう。94年『overdose』までのリリースペース・創作意欲は異常でした。冒頭でも言及した「配信向けのピチカート・ファイヴ」でその一端を知ることができます、

 95年『ROMANTIQUE 96』以降は少しずつ落ち着いてきます。というか、ネタが切れたことが伝わってきます。95年以前に多くのことをやってしまったせいで、何をやっても以前の仕事の延長戦上になってしまう。後期ピチカート・ファイヴの楽しみの一つはネタ切れとの戦いを聴くことです。

 97年『ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド』99年『ピチカートファイヴ』あたりは良い曲も一部ありますが、全体的に出来が良くない。楽曲の多様性がなく画一的、悪い方向で自己再生産。そして中身のない多くの曲には、軽薄でオシャレなガワだけが残ります。「サブカルっぽくてスカしたハナモチならん音楽」そのままに。

 一方で98年『プレイボーイ プレイガール』01年『さ・え・ら ジャポン』は狂いつつ内容も比較的良いので、一筋縄ではいきません。

 

 00年代以降の彼の楽曲提供もまた著しく自己再生産(しかし再生産される自己に94年以前の彼は含まれません)です。外部からも「いかにも渋谷系な曲」を要請されているのでしょう。この自縄自縛の中でも良い曲を書くあたりが流石。

 ともかく、求められる楽曲・提供する楽曲のテイストが一貫し続けていることは風評の形成を加速させているようです。

 

 そして吉田健一の「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」を引用した02年『戦争に反対する唯一の手段は。ピチカート・ファイブのうたとことば』の発売は象徴的でしょう。そういうことにしたのかと。加齢・老化・円熟の一つの言い換えなのでしょうか。

 

 

 ここからしばらく余談/放言。

 

 一年以上前に糸井重里がやり玉に挙げられていたのを話の流れで思い出しました。社会的・構造的問題を自助に矮小化させてしまう「丁寧な生活」「文化的雪かき」問題です。

 今、社会階層の視点から渋谷系ミュージシャン(とリスナー)の再批評・総括が求められているのかもしれません。誰が?

 

 TOKYO 2020で小山田圭吾がついに社会的制裁を喰らいました。それは彼の所業(とされているもの)をふまえると今の日本社会では自然現象的自然さがあります。詳細を例えば次を参照。

小山田圭吾問題の最終的解決|外山恒一|note

 ここでも触れられているように、社会階層から見ると小山田圭吾は庶民側なわけです。小山田圭吾叩きは階級闘争になりません。

 

 やはりここはまず小西康陽を批判していきましょう。彼の歌詞ではしばしば「お金が無い」という言葉が出てきます。しかしそれは60年代フランス映画的な絵になり余裕がある「お金の無さ」であって、実際は「タクシーを拾って踊りに行く」(「万事快調」)わけです。現代日本の実際の貧困とは一線を画します。ここら辺からマルクス経済学の視点で彼の歌詞にアプローチしても面白いかもしれません。

 あと、『ベリッシマ』『女王陛下』が2千枚も売れていないのに(エッセイからすると)余裕そうな生活をできたのは一体どういう仕組みなのか気になります。

 

 そしてゆくゆくは真の富裕層たる小沢健二を批判し打倒していかなければならないでしょう。復帰後の小沢健二は音楽的内容が全然良くなく(創作のモチベが変わったことよりも単に新しく音楽をインプットしていないのが原因だと推測しています)、家族のことをあれだけ歌っているのに不倫して、しかしさほど燃えず鎮火したのは何なのでしょうか。

 

 冗談めかしく書き出したんですけど、普通に社会構造の問題が深く根を張っている気がします。

 

 そもそも渋谷系のような音楽を作る/聴くこと、あるいはそもそも(日本においては)音楽を愛好することそれ自体階級と不可分である、と言うことは当然できます。

 

 

 閑話休題。ともかく彼自身(とリスナーと渋谷系フォロワー)によって「ピチカート・ファイヴはオシャレで生活を豊かにする大人な音楽である」というセールスポイントの事実化・歴史の読み替えが静かにゆっくりと行われたのです。

 

 

 彼が「誤解」されている第三の理由。それは筆者がここまで述べたのはポップスに対してあまりに冷笑的・皮相的な見方であって、彼は誤解などされていないという可能性。日常生活の中でピチカート・ファイヴを愛好した当時のピチカートマニアの多くは、(『女性上位時代』『SWEET PIZZICATO FIVE』をちゃんと聞いてもなお)「ピチカート・ファイヴはオシャレで生活を豊かにする大人な音楽である」と考えた可能性です。

 

 筆者のここまで文章それ自体がポップスにおけるディスコミュニケーションの一例だったと。


www.youtube.com

youtubeにあるpvの一例 筆者が笑わずにはいられないのは真摯に向き合わず冷笑しているせいでしょうか? 高浪君の所在なさ、謎のDJ、動きまくる小西康陽、どこから買ったんだってぐらい水色の服を着た野宮真貴を見ても?)

 

 今更ですが、筆者は解散からだいぶ時間が経ってから初めてピチカートファイヴを聞きました。

 当時新譜として聴くのと後から聞くので受け取り方が何もかも変わるので、「当時は大人の音楽だったんだよ、今聴くとまた違うだろうけどね」と言われたらこちらは「そうですか・・・」と引き下がることしかできません。

 

 実際『ベリッシマ』『女王陛下』は詞を小西康陽のみが担当し言葉の面で一貫性を持たせた一方、作曲には田島貴男高浪慶太郎も参加し、多様性をも獲得しています。売れなかったのは大人のディープな音楽だったせいかもしれません。

 

 それでも田島貴男脱退/野宮真紀加入以後の、特に高浪慶太郎脱退以後のピチカート・ファイヴは、オシャレのガワを被っているだけ(なんなら被っていないこともある)で本質は全くそこじゃないよと言ってみたいのです。

 

 あるいは、オシャレは表層にあることこそ本質なのでしょうか?

 そして渋谷系とは「中身なんてない」ことへの気づき、「大切なことなんて何にもないけど」(「大人になりましょう」)というイデオロギーのあらわれだったのでしょうか?

 

 

 

 とっ散らかったのでこの記事の主張をまとめます。ピチカートファイヴの「オシャレで生活を豊かにする大人の音楽」のごとき風評は彼自身・リスナー・渋谷系フォロワーから形成されたもので、ガワにすぎません。もしそこに中身があるとすれば、それは人さらいの音楽であって、大変に面白いですが、生活を美しくする滋味や人を元気づけるだけの共感は基本無いものと思われます。この状況は諸々の理由(フルアルバムで聞かれていない・自己再生産と評価の時代的形成・この見方がおかしい)が引き起こしているようです。

 

 

 雑考のつもりが本当に長くなってしまいました。

 Pizzicato One『前夜』(2020)の話(歌は予想通り全然ダメだけど、歌えていいと思えるまで40年かかったというインタビューだけで泣けるよね 選曲が良いし、アレンジからして音楽的判断はまだできるよね)もしたかったのですが、文字数もだいぶ多くなってきたので機会があれば別稿にて。