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ジェイムズ・ジョイス入門(1):『ダブリナーズ』『若い芸術家の肖像』

 

 今から遡ること120年前の1904年6月16日夕方頃、アイルランド最大の都市ダブリンにて、22歳の文学青年がある女性と初めてのデートに臨んだ。その女性は後に青年の妻となるだろう。青年はこのデートをきっかけに、母親の死以来感じていた孤独感を捨てるだろう。

 青年はやがて女性とともにアイルランドを脱出し、トリエステチューリッヒ、パリと移住しながら第一次世界大戦を潜り抜け、小説家としてのキャリアを積んでいく。そして40歳を迎えた1922年、「1904年6月16日朝から翌日未明までのダブリン」を舞台とする文学史上稀に見る小説を発表した。

 その小説の名前は、『ユリシーズ』。

 作者の名前はもちろん、ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)。

 

 いつ頃からか、6月16日は『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルーム(Leopold Bloom)の名を借りてブルームズデイ(Bloomsday)と呼ばれている。終末の日(doomsday)に掛けたネーミングだ。毎年6月16日のダブリンではジョイスと『ユリシーズ』を祝う各種イベントが開催され、世界中から観光客が集まるらしい。

 

 本記事では120年目のブルームズデイに寄せて、モダニズム文学を代表する小説家ジェイムズ・ジョイス(1882-1941年)を紹介していきたい。

 目的は2つある。1つ目はジョイス作品に興味のある方に向けて、それらを「読む」のに必要な文献を整理しながら提示すること。一般的知名度を鑑みて、怪小説ユリシーズ』を目標に話を進めていく。

 もう1つは、本ブログで散々T. S. エリオットを擦ってきた*1ように今後ジョイスも擦る可能性があるので、その導入。これで「モダニズム奇跡の年」と呼ばれる1922年の主要作品、『荒地』と『ユリシーズ』の両方をカバーしたことになる。

 

 

 

ウォーミングアップ

 

 小説との付き合い方にはさまざまな流派・党派がある。この文章はアカデミズム寄りの興味を持った人間により書かれており、紹介する文献もそのラインに沿ったものが多くなることをあらかじめお断りしておく*2

 『ユリシーズ』(1922年)は18挿話1800ページもある大長編で、読むには時間と根気が必要になる。さらにいきなり手に取って面白がれるものではなく、『ユリシーズ』以前に読むべきものが多い*3。というわけで、体系的に「勉強」できるよう作品・文献を紹介していく。

 なお短編集『ダブリナーズ』(1914年)と長編『若い芸術家の肖像』(1916年)を読むだけならここまで身構える必要はない。「面白いから読む」で読み切れる。

 

 ジョイスはヨーロッパを放浪しながら作品に諸言語・諸文学を織り込んだ点で、コスモポリタンだと言われる。逆に、アイルランド脱出後も友人や親戚に頼んでダブリンの資料をかき集め、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)に至るまで(病的に)ダブリンを舞台にし続けた点で、ローカルな作家とも。

 実際の読感としてはグローバルとローカルの中間、「英国」小説の文脈から生まれた印象が強い。人によってはジョイスに挑む前になにか「英国」小説を読んでチューニングすべきだろう。私はそれまでのアメリカ小説モードから切り替えるため、小説ではなく論集を読んでチューニングした。

  • 高橋和久/海老根宏=編著『一九世紀「英国」小説の展開』松柏社、2014年
  • 高橋和久/丹治愛=編著『二〇世紀「英国」小説の展開』松柏社、2020年
  • 川崎寿彦『イギリス文学史入門』研究社、1986年

 

 特に『一九世紀「英国」小説の展開』は面白いのでお勧め。

 ついでに教科書として『イギリス文学史入門』も挙げた。ジョイス作品は引用が多いから、文学史的事項は知っておいた方が有利である。例えば『若い芸術家の肖像』における「バイロンは異端」といった、ロマン主義詩へのサラッとした言及にビビらないようにしたい。

 文学史的引用の極めつけは『ユリシーズ』第14挿話「太陽神の牛」だろう。ここでは古英語から現代英語までの有名作品の文体を年代順に次々とパロディしながら、飲酒学生の猥談含むクソくだらない会話を描写し続けるという、全く意味不明なアクロバットが待ち構えている。

 

 時代背景も見ておこう。1904年当時のアイルランドグレートブリテン連合王国の一部であり、自治を獲得したのは『ユリシーズ』出版と同年の1922年だった(本記事冒頭でダブリンを「首都」ではなく「最大の都市」と形容したのはこのため)。19世紀イギリス帝国による支配の中で、次のような事件・運動が起こっている。

 

ジャガイモ飢饉(1845-49年)に代表される飢饉の連続で、アメリカなどへの移民が大量発生した。さらに長引く不景気で晩婚化が進んだ。19世紀を通じて人口が減少した国はヨーロッパだとアイルランドのみ。

・「無冠の帝王」と呼ばれた政治家チャールズ・スチュワート・パーネル(1846-91年)が自治に王手をかける。しかし姦通事件によるスキャンダルで失脚し、失意の中死亡した。パーネルはプロテスタント系(アイルランド国教会)のアングロ=アイリッシュで地主階級だった。姦通を理由に彼を糾弾したのが、アイルランドの中産・労働者階級が信仰するカトリック教会だったことも指摘しておく。

・W. B. イェイツに代表されるアイルランド文芸復興運動。これは英語を使いながらイギリス文学の伝統を脱しようとする運動。

ゲール語を復活させようとするゲーリック・リバイバル

 

 ジョイスの著作ではダブリンの街とともに歴史的事項も入念に書き込まれている。特に1882年生まれのジョイスにとって、9歳のとき起こったパーネルの死は印象深かったらしい。

 ジョイスアイルランド観は、『若い芸術家の肖像』の主人公スティーヴン・ディーダラス(Stephen Dedalus)から多少うかがえる。作中でスティーヴンは、「イギリスによる圧政と、カトリック教会による精神支配と、ナショナリズム運動の排外性」を、「沈黙と流浪と狡知」をもって「すり抜けて飛ぶ」(fly by)ことを望んだ。

 

 アイルランドの歴史については次を参照。ジョイス作品を読む前にWikipediaアイルランド近代史を調べるくらいはやっておくとよい。

 

 

 ジョイスの初心者向け作品には『ダブリナーズ』と『若い芸術家の肖像』の2つがある。方向性はだいぶ違うためどちらから読んでも構わない。ここでは出版年順に『ダブリナーズ』から紹介する。

 

 

『ダブリナーズ Dubliners』(1914年)

 

 ジョイスがキャリア初期の1904-06年頃に書いた作品をまとめた短編集。

 「ニューヨークっ子」(New Yorker)や「ロンドンっ子」(Londoner)に対抗する「ダブリンっ子」(Dubliner)という造語をタイトルに、ダブリンの人びとが生き生きと麻痺(paralysis)している様子が描かれる。麻痺というのはつまり精神的麻痺のことで、その解剖がジョイスの目的だった。

 各編は基本的に救いがない。滑稽なまでに悲惨だ。例えば2番目の短編「ある出会い "An Encounter"」は、主人公の少年が冒険を求めて学校をサボりダブリン市街を練り歩くダブリン版『不思議の国のアリス』のような話である。しかし冒険の最後、彼は「自分は生意気な少年を鞭打つことに至上の喜びを感じるが、この性向を誰にも分かってもらえず孤独に苦しんでいる。自分のことを理解して欲しい」と訴えかける老人に遭遇する。この出会いの衝撃から主人公は精神的成長を遂げる。

 「ある出会い」は綺麗にオチが付いている方で、他の短編はおおむねストーリーの盛り上がりに欠ける。また全体的な傾向として省略が多く、筋の構成も曖昧だ。この禁欲性は『ダブリナーズ』に限らずジョイス作品の大きな特徴である。たぶん、これを良しとする人が「ジョイスが向いている人」なのだろう。

 話が陰鬱で通常の意味では盛り上がらないにもかかわらず、『ダブリナーズ』は面白い。結局「小説が上手い」のだ。もうちょっと分析すると、『ダブリナーズ』の語りは自然主義リアリズムの方法論を十分に消化する一方で、それを越える試みも見られる。ジョイスは(大抵は教養のない)ダブリン市民を鋭く観察しながら、彼ら自身を模したような「けちけちした卑小な文体」で描いた。

 なお、ふわっとしたオチの短編はモダニズム前後から現れた傾向であり、ジョイスの言葉を借りてエピファニーEpiphany──日常の何気ない出来事から突如湧き上がる精神的顕現*4──と呼ばれることがある。

 

 近年の邦訳リストは次の通り。やけに多い。

 

 個人的には訳注が充実した米本訳を推奨する。小説技法を読むのに毎回真剣勝負を挑まれるので、アイルランドの政治事情や宗教事情のレベルで理解が阻まれないようにしたい。次点で訳がこなれた柳瀬訳。

 

 読中読後のサプリメントとしては次の論集がある。

 

 『ダブリナーズ』に登場するキャラクターの多くは『ユリシーズ』にも再登場する。『ユリシーズ』を読む際はキャラクターブックとして手元にあると役立つだろう。

 

 

『若い芸術家の肖像 A Portrait of the Artist as a Young Man』(1916年)

 

 主人公スティーヴン・ディーダラス(Stephen Dedalus)がアイルランドに生まれてから飛び立つまでの過程を描いた教養小説ビルドゥングスロマン)。作品はジョイスの実人生から多くの素材をとっており、半自伝的な内容になっている。全5章。

 スティーヴンはジョイスと同じく1882年に裕福な家庭に生まれ、カトリックの全寮制名門校クロンゴウズ・ウッド・カレッジに6-7歳で入学する。しかし10歳頃、大酒飲みで放埓な父親が破産し学費を払えなくなったため退学。12歳頃、奨学生扱いでイエズス会の名門校ベルベディア・カレッジに入学。きわめて優秀な成績を収めるものの、娼館通いが止められず自責の念に駆られる。聖ザビエルの日の聖体拝領に向けた説教で「地獄のヴィジョン」を植え付けられ、告解。一時は司祭になるかと思われたが、海辺で鳥のような少女を見たことをきっかけに芸術家=詩人を志す(エピファニー!)。大学ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでは「応用アクィナス学」という独自の美学体系を練り上げながら、アイルランド脱出を決意する。

 小説で書かれる出来事とジョイスの人生の間には当然細かい異同がある(興味のある方は論集『ジョイスの迷宮』を参照)。人物造形という点で一番大きいのは、スティーヴンがクソ真面目なことだろう。ジョイス自身はもっとおどけた人に思われる。『若い芸術家の肖像』は子供の頑張りを見守るようなユーモラスな笑いを常に抱えている。

 ここにグロテスクさを感じなくもない。というのも、『若い芸術家の肖像』は教養小説アイロニカルな変形でもあるからだ。

 

 作品の原型は「芸術家の肖像」(1904年)という短い思弁的エッセイである。これの雑誌掲載が断られたのをきっかけに、ジョイスは大長編『スティーヴン・ヒーロー Stephen Hero』(1904-06年)を執筆した。現在も残っている『ヒーロー』の断片から判断すると、『肖像』第5章の大学生活パートをその熱冷めやらぬまま描いた作品だったらしい。ここから10年近い時を経て、青春の初期衝動と十分距離をとれるようになってから『肖像』は描かれる。

 『ヒーロー』と『肖像』の違いは何か。まず、『ユリシーズ』に繋がる神話的方法の導入が挙げられる。改稿の際生まれたディーダラス(Dedalus)という聞き慣れぬ性は、ギリシャ神話のダイダロス*5に由来する。スティーヴンがダイダロスとその息子イカロスのいずれになるかが作品の焦点となるだろう。

 次に構成・作劇法に大きな違いがみられる。『肖像』はスティーヴンの成長を主題としてプロットを再編成しており、結果として他者が後景化した。また心理的事件が起こってもスティーヴンの主観では深堀りされず、すぐ流されてしまう。例の禁欲性からストーリーの牽引力も弱い。

 個人的な感想になるが、『肖像』はしっくり来ない*6。私が教養小説的なものに興味がないせいだと思うが……。幼少期を描いた第1章の「子どもの語り」は見事だし、第5章は個性的なキャラクターが続々出てきて別の面白さを生み出しているけれど、その間の第2-4章がだるい。

 

 以下、邦訳リスト。

 

 『ダブリナーズ』同様訳文より訳注に注目して申し訳ないが、大澤訳は訳注が少なすぎるし、丸谷訳は訳注が多すぎる。個人的経験から初読は丸谷訳をお勧めする。意味が理解できないと文体を楽しむどころではない。

 さらに可能なら文庫ではなく単行本で読むとよい。文庫は巻末の注を参照するのが面倒だし、本文にご丁寧にアスタリスクが付いていて目にうるさい。 

 

 読中読後のサプリメントとしては次の論集がある。『肖像』第3章で地獄に関するクソ長説教を描写したジョイスの意図、ならびに第5章で「応用アクィナス学」を標榜したスティーヴンの意図については、『ジョイスの迷宮』を参照されたい。

  • 金子嘉彦/道木一弘=編著『ジョイスの迷宮 『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』言叢社、2016年
  • 高橋渡/河原真也/田多良俊樹=編著『ジョイスへの扉 『若き日の芸術家の肖像』を開く十二の鍵』英宝社、2019年

 

 第5章の大学生活パートに魅かれた方は『スティーヴン・ヒーロー』を読むといいかもしれない。家族や大学当局との衝突が描かれ、ストーリーもドラマも起伏に富む。ジョイスは22-24歳の時点ですでに「普通に面白い小説」を書く技術を持っていた。そしてそれに飽き足らなかった。

 

 第5章で開陳されるスティーヴンの芸術理論に関して、美学的にはなんぼのものかという疑問が当然湧き上がる。結論を言ってしまえば、レッシングやシュレーゲルあたりの近代美学を、アリストテレストマス・アクィナスで粉飾した程度のものらしい。

 そもそも『若い芸術家の肖像』というタイトルでスティーヴンが詩人を志しているのは、美学史を鑑みるべきかもしれない*7古代ギリシャ以来美は詩が担うものであり、造形芸術としての絵画・彫刻・建築および時間芸術としての音楽は、18世紀中頃「美学」の形成によって初めて高位の芸術と承認されたのだった。

 興味のある方は次を参照。

 

 ちなみにジョイス自身は音楽に造詣が深く、テノール歌手としての腕前はコンテストに入賞するほどだった*8。音楽的側面は『若い芸術家の肖像』だと暗示にとどまるが、『ユリシーズ』では至るところに1904年当時のアイルランドの流行り歌が引用される。さらに第11挿話「セイレーン」は音楽を主題としつつ、書き言葉で音楽を奏でようとする。

 

 スティーヴン・ディーダラスは『肖像』のラストシーン(1902年)でパリへと旅立った。しかし1903年の母親の死をきっかけにダブリンに帰ってきて、『ユリシーズ』の準主人公を務めることとなる。ほか父親サイモン・ディーダラスや友人リンチなども再登場する。

 スティーヴンの帰還はジョイスの伝記的事実と整合している。実のところ亡命作家ジョイスは1912年までしばしばダブリンに帰省していた。1912年以降帰らなかった理由は、アイルランドをこっぴどく書いた『ダブリナーズ』を出版する際のごたごたで、アイルランドがいよいよ想像上の故郷になったせいか*9

 

 

インタールード:ジョイスの文体

 

 ジョイスの文体的な特徴について説明する。そのためにまずモダニズム小説一般によく使われる自由間接話法内的独白を確認しておきたい。

 『ユリシーズ I』(丸谷ほか訳、集英社、1996年)から4つ例を挙げる。翻訳の問題も大きいので原文を併記した。

 

(1)3人称の語り

Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed.

重々しくて肉づきのいいバック・マリガンが、シャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現れた。十字に重ねた鏡と剃刀が上に乗っかっている。

(『I』p.13、第1挿話・第1-3行)

 

 これは『ユリシーズ』第1挿話「テレマコス」が3人称小説であることを確認しておけばよいだろう。

 

(2)直接話法

—Tell me, Mulligan, Stephen said quietly.

—Yes, my love?

—How long is Haines going to stay in this tower?

──ねえ、マリガン、とスティーヴンは静かに言った。

──なんだね、坊や?

──ヘインズはいつまでこの塔にいるつもりなんだろう?

(『I』p.15、第1挿話・第49-51行)

 

 これも問題がない。ただしジョイスは会話文を指示するのにダブルクォーテーションではなくダッシュを用いる。

 

(3)自由間接体(人物の言葉もしくは感性を模した3人称の語り)

Pain, that was not yet the pain of love, fretted his heart.

まだ愛の痛みになっていない痛みが彼の心をいらだたせた。

(『I』p.19、第1挿話・第106-7行)

 

 これは自由間接思考(free indirect thought)と呼ぶべきもの。「He thought」が隠れている。

 自由間接体でもっと聞き慣れているのは自由間接話法(free indirect speech)だろう。例えば(2)の直接話法は「He asked how long Haines was going to stay in tower. 彼はヘインズがいつまで塔にいるつもりなのか尋ねた」のような間接話法に書き直せる。これの「He asked」を脱落させて、「How long Haines was going to stay in tower. ヘインズはいつまで塔にいるつもりなんだい」とするのが自由間接話法だ。

 自由間接体の翻訳にあたっては、1人称っぽくするか3人称っぽくするか、現在形にするか過去形にするかが問題となる。

 

(4) 内的独白(意識の流れ)

[A cloud began to cover the sun slowly, shadowing the bay in deeper green. It lay behind him, a bowl of bitter waters.] Fergus' song: I sang it alone in the house, holding down the long dark chords. Her door was open : she wanted to hear my music.

[雲がしだいに太陽を覆いはじめ、湾をかげらせ、いっそう深い緑に変えた。苦い水をたたえたボウルが目の下にある。]ファーガスの歌。ぼくは家のなかで一人でその歌を歌った。長いくぐもる和音をおさえながら。母の部屋のドアをあけておいて。ぼくの歌を聞きたがったから。

(『I』pp.27-28、第1挿話・第265-8行)

 

 ここでは3人称の語り「It lay behind him」の途中に、突如1人称の過去回想が挿入されている。この1人称パートが内的独白だ。ただし邦訳は3人称パートも人称を省略することで1人称っぽく訳出している。

 内的独白のうち、思考や描写が絶え間なく延々と続くものは意識の流れと呼ばれるだろう。

 

 

 演習問題:次を文体的に分析せよ。

A paper. He liked to read at stool. Hope no ape comes knocking just as I’m.

なにか読むもの。便座での読書を好む。途中で阿呆がノックしなけりゃいいが。

116 (U55.467) - Ulysses at Random /『I』p.170、第4挿話・第534行)

 

 答え:(4)内的独白の途中に3人称的な語り「He liked to read at stool」が挿入されている。しかしはこれは(1)ナレーターによる語りとは限らず、「He thought」が隠れた(3)自由間接思考の可能性が残る。

 

 

 自由間接体についてもう少し補足したい。

 自由間接話法は地の文に登場人物の視点を織り交ぜる手法として、イギリス小説だと19世紀初頭のジェイン・オースティンが活用し始めた。ディケンズもよく使うし、これだけならモダニストの専売特許ではない。

 しかしジョイスに至っては、(3)間接話法と関係なく登場人物の行動を描写するだけの(1)客観語彙すら、描写する対象の影響を受けるだろう。英文学研究者ヒュー・ケナーはこれを「チャールズおじさんの原理」(The Uncle Charles Principle)と呼んだ。

 

Every morning, therefore, uncle Charles repaired to his outhouse

そうして毎朝チャールズおじさんは小屋へとおもむいた

(『若い芸術家の肖像』第2章冒頭)

 

 ふつう「went」で済ませるところ、「repaired」という(この文脈では)見慣れぬ単語を用いている。このいかめしい語はチャールズおじさんの大仰な言動を反映しているのだ。「outhouse」が単に汚いトイレ小屋であることがより滑稽さを増す。

 

 チャールズおじさんの原理は、19世紀中頃にフローベールが開拓した客観的で厳密な語りのゲームを揺さぶる。ただし、フローベール以前のように語りの途中で作者がぬっと顔を出すのではない*10ジョイスにおいて内容と形式は分離しておらず、「形式が内容」であり「内容が形式」なのだ*11

 語に関する鋭い感性は、ジョイス語と称される夥しい造語群とともに、いずれ『フィネガンズ・ウェイク Finnegans Wake』(1939年)へと彼を導くだろう。

 

chaomos(混沌宇宙)= chaos(混沌)+ cosmos(宇宙、秩序)

aposterioprismically(経験的分光律動性をもって)=a posteriori(ラテン語:後天的) + prismatikos(ギリシア語:プリズムの)+ rhythmically(英語:テンポよく) 

Liverpoor: イングランドの都市Liverpoolと「肝臓虚弱」を掛けて

Winnie, Olive and Beatrice, Nelly and Ida, Amy and Rue: 逆から頭文字を読むとRAINBOW

bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthurnuk: 雷の擬音語かつ「雷」を意味する各言語が織り交ぜられている

(「『フィネガンズ・ウェイク』の言語」、宮田恭子=編訳『抄訳 フィネガンズ・ウェイク集英社、2004年、pp.630-661)

 

 『フィネガンズ・ウェイク』は今見ても奇書というべき異常な言語遊戯だ。もちろんルイス・キャロルなどの先人はいるけれど、『フィネガンズ・ウェイク』は圧倒的な物量が質に転換している。執筆途中の原稿を見た親身なパトロン・ウィーヴァ―にして「才能を浪費しているのではないか」と言わしめた。落ち込んだジョイスはしばらく絶筆した。

 振り返れば『ダブリナーズ』における「けちけちした卑小な文体」は、形式と内容を一致させる試みの発端だったのではないだろうか。

 

 

参考:

042-内的独白について – Here Comes Everybody

116 (U55.467) - Ulysses at Random

結城英雄「『ユリシーズ』について」、『ユリシーズ III』集英社、1997年、pp.661-682。

 

 

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*1:例えば:T. S. エリオット『荒地』登場人物最強議論スレ(強さランキング) - 古い土地 

*2:念のため批評理論の本を挙げておく。

小倉孝誠=編『批評理論を学ぶ人のために』世界思想社、2023年

三原芳秋/渡邊英理/鵜戸聡=編著『クリティカル・ワード 文学理論』フィルムアート社、2020年

*3:この判断に私のイデオロギーがにじみ出ているが、挫折する人が多いのは必須レベル/推奨レベルの準備が周知されていない側面もあると思う。主要因はストーリー的にも心理的にも盛り上がりに欠けて延々と続く文章だろうが。

また本記事では『ユリシーズ』完読を一応の目標とするけれど、完読が偉いとは言わない。意地と惰性で読み切るより特定の挿話だけ集中的に読む方が良い読書体験かもしれない(本当は『ユリシーズ』だけ手に取って挫折するのだって悪くない)。この記事ではジョイスにどう取り組むにせよ役立つ情報を提供するつもりだ。

*4:エピファニー自体は古代ギリシャから存在する概念だが、現在流通する意味はおおよそジョイスを経由している。

*5:ギリシャ神話で有名な工匠・発明家。ミノタウロスを閉じ込める迷宮を作り上げた。その後ミノス王の怒りを買って息子イカロスと共に塔に幽閉される。人口の翼によってダイダロスは脱出に成功するものの、イカロスは太陽に近づきすぎて蝋が解け墜落死する。ダイダロス - Wikipedia 

*6:アメリカのランダムハウス社が選んだ20世紀の英米小説ランキングでは、1位『ユリシーズ』3位『若い芸術家の肖像』となっている。1位が『ユリシーズ』の時点で党派性がものすごく反映されているが、そういったジョイス好きの批評家にせよ『肖像』をここまで評価する理由がいまいち納得できない。20世紀最高の小説ベスト100 by 米ランダムハウス社モダンライブラリー aokiuva 

*7:ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(1881年)やオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』(1890年)といった「肖像」小説、ならびに教養小説の分派として芸術家の成長を描く芸術家小説(クンストラロマン)の系譜も参照。Künstlerroman - Wikipedia 

*8:ジョイス本人が歌っている音源は軽く調べたかぎり見つからなかった。ジョイスによる朗読2つとジョイスが作詞作曲した曲1つを挙げておく。

James Joyce reading from Ulysses - YouTube

James Joyce Reading Finnegans Wake (w/Subtitles) - YouTube

James Joyce's Only Known Composition: "Bid Adieu To Girlish Days," Sung By Tenor Kevin McDermott - YouTube 

*9:ダブリンの辛辣な描写やナショナリズム運動への批判から、その世界的名声に反しジョイスは長らくアイルランドで無視されてきた。ジョイスアイルランドの「和解」がなされるのは、アイルランドの政治的・経済的地位が安定し、ジョイスアイルランド作家としての研究が進んだ1980-90年代のこと。1993年には10ポンド紙幣の肖像にジョイスが採用され、ブルームズデイも観光資源として利用されるようになった。

*10:追記:『ユリシーズ』後半では通常の語り手と作者を媒介する「編成者」が顔を覗かせるだろう。「ジェイムズ・ジョイス入門(2)」を参照。

*11:ジョイスの弟子サミュエル・ベケットによる『フィネガンズ・ウェイク』評。ジョイスの文章は「何かについて書いたものではなく、何かそれ自体なのだ」という。「意味が眠りであるとき、言葉は眠りにつき、……意味が踊りであるとき、言葉は踊る」。