古い土地

暗い穴

劇としての(二次創作)

 

歌は、詩よりもずっと劇に近い。

(サイモン・フリス『サウンドの力』1981年)

 

全ての詩は劇をめざし、全ての劇は詩をめざす。

(T. S. エリオット『批評選集』1932年)

 

「劇」に関する2つの言及をきっかけとした、5つの断片・エッセイ。

 

 

 

劇としてのSCP

 

まずはSCPのインタビュー形式が一種の会話劇であることから話を始めよう。特に次のような会話は、不条理劇のエッセンスを持っている。

 

D-29102: ああ、そうね。まあ、おおよそ四角い部屋のようで、天井のこういう1つの明かりで照らされていた。壁はこんな感じのようなもので覆われていて、ええと、どう説明したらいいのかよくわかんない。プチプチかな?

カレ博士: それは適応膜ですね、はい。それは図式にぴったりです。他には何か?

D-29102: 特にないわ。私はただ2分間立ち止まって、それからあんたが言ったようにドアをノックした。ひどい朝食の騒音のようなものがあったと思うけど、それだけよ。

(沈黙。)

カレ博士: え、何ですって?

D-29102: ひどい朝食の騒音。何故?

カレ博士: ああ、すみません。あなたが他の事を言ったと思っていました。

D-29102: 他に何かある?(笑い)言わせてもらえば、これは大した試験じゃない。あんたたちは私のためにそれをちょっと誇張したんじゃないの?

カレ博士: あなたが気付いている事がそれだけなら、他に質問はありません。全て正常であることを確認するために、さらに検査を受けていただきます。そうすれば、合意通りに釈放されます。

D-29102: いいね。

(カレ博士が立ち上がって、面接室のドアから出ていく。D-29102が立ち上がり、奥の壁から出ていく。)

<ログ終了>

 

SCP-4972 “Something is Wrong” by Tanhony

http://scp-jp.wikidot.com/scp-4972

 

被験者のD-29102は、どこにもつながらない「適応収容チャンバー(ACC)」のドアから「ひどい朝食の騒音(snarky breakfast noise)」がすることを、疑問に思わない。カレ博士もその異常性(Dクラス職員が異常を感じないことまで含め)を強く咎めることなく、インタビューを終わらせてしまう。ついでに言うと、D-29102はインタビュー室から退出する際、おそらく「奥の壁」をぬっと貫通している。

著者Tanhonyお得意の不条理なインタビューと、劇の関係性。個人的にこれは大きな発見だった。なお、私はこれが「大きな発見」になってしまうくらい演劇に馴染みが無いことを、予めお断りしておく。

 

とはいえ、インタビューはあくまで「台本」の段階なので、現実では上演不可能な指示が書かれていることがある。

 

D-39112: そうそうそう。で、あんたが言ったようにそこへ行って、周りを見渡したんだ、そんで、子供の頃、俺はよくバーナード・ザ・バウンシング・バニーっていうテレビ番組を見てたんだ。その番組を見たことあるかい?

(カレ博士は10秒間メモを取る。)

カレ博士: いえ、ありません。

D-39112: この番組の大体はあんたもご存じの通り、元気ウサギのバーナードっていうキャラクターを中心に動いてるんだ。こいつは両耳に同じ斑点がある遊び好きなウサギだ。こいつは犬警察のパーシーだけでなく、今日まで制作者が名前を明かしていない巨大なクモなんかに、いろんな種類のいたずらをよくやってるんだ。

(カレ博士は1分間メモを取る。)

カレ博士: なるほど。続けてください。

[……]

カレ博士: すみません。ウサギの名前はなんでしたか?

D-39112: バーナードだ。

(カレ博士は634年間メモを取る。)

カレ博士: 情報ありがとうございます。とても助かりました。

 

「1分間」の時点で演出的にはだいぶ厳しい。「634年」は端的に不可能。これを作品内世界で上演可能にしている機構こそ、作品の主題、SCP-4972の異常性である。

さて、なぜSCP-4972でSCPと劇の関係性を例示しているかというと、劇を持ち出すことで作品の結末が味わい深くなるからである。

 

カレ博士: 開けるべきではなかった。開けてはいけません、ノア。私は…あれを見ました。言葉を持ってない、多すぎる。私たちは少し削らなければ、必要なのは10個ぐらいだ。私は何を言っているんだ?泡風呂のような感じです。

レスティ博士: 泡風呂?

カレ博士: 拡散、拡散、ええと、希釈、そうだ、それが言葉だ。それがそうだ – これを書いては駄目だ、これを書いては駄目だ!近づきすぎる!

レスティ博士: ジョン、どういう意味ですか?記録のインタビューを受ける必要があります。今後の試験に役立ちますよ。

(カレ博士は目に見えて過呼吸になる)

カレ博士: なにかおかしい。なにかがおかしい。考えては駄目だ、解決しようとしないで、近づきすぎています。何も言うべきではなかった。何も言ってはいけない、すまない。

(カレ博士は手を見下ろして叫び始める。レスティ博士が立ち上がる。)

レスティ博士: 何ですか?どうしたのですか、ジョン?

カレ博士: 私に何をした!?私の手!私の手を見て!ここは何だ!?ここは何処だ!?ここは何処!?

(2人目のカレ博士が観察窓に近づき、前かがみになって大きく笑った。人差し指でガラスをリズミカルに叩き、7秒後に床に沈む。)

(レスティ博士は向きを変え、面接室の横のドアから出る。カレ博士はそうしない。)

<ログ終了>

 

「2人目のカレ博士」が作品「SCP-4972」のサビだ。しかし同時に、「超現実」を担当している箇所の中で、一番現実で上演しやすい部分でもある。つまりカレ博士を演じている役者と似た背丈の役者を用意して、同じ服を着せればよい。そうすれば観客はお約束=記号的に、「2人目のカレ博士」と認識してくれる。よくよく考えると、「床に沈む」の部分も舞台の迫り(せり 昇降する機能)を使えばできなくはない。

あるいはこの上演の容易さゆえに、「2人目のカレ博士」はあまり不気味でないとも言える。少なくとも私はそう思う。「適応収容チャンバー」「ひどい朝食の騒音」「泡風呂」といった言葉選びにこそセンスが光り、戦慄を覚える。

 

補足:SCP-701「吊られた王の悲劇」のように演劇を主題としたSCPは一定数存在するが、それは今回興味の対象ではない。

逆に、最近「SCPを題材とした演劇」が上演されたらしい。

SCPを題材とした新しい演劇公演を成功させたい! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

 

劇としての歌

 

※:以下の考察には物語要素の強いMVを含めてもよい。前節で不条理劇を持ち出したので、ここではすれ違った会話がキュートなタイラー・ザ・クリエイターを挙げておく。

www.youtube.com

 

声はまた、ある目的のためには言語的でない装置としても使用される──アクセント、溜め息、強調、ためらい、声調の変化。歌の言葉は、つまり、話し口調として働く、直接にエモーションを示し、性格を特徴づける音響の構造として働くのだ。歌は、詩よりもずっと劇に近い。したがって、作詞家は私たちが日常的に知っている声の働き方に頼ることになり、だから彼らは通俗的なフレーズやスラングの断片を使うことになる。

(サイモン・フリス『サウンドの力 若者・余暇・ロックの政治学』細川・竹田訳、p.51)

 

ポピュラー音楽研究者のサイモン・フリスは、国際ポピュラー音楽学会(1981年設立)の初代理事を務めた分野の草分けである。

彼はポピュラー音楽の言説における歌詞分析(日常的な/社会学的な*1/文学研究的な)の限界を、様々な形で指摘した。歌手のまわりに議論を限定するにしても、ポピュラー音楽における主要な欲望の対象は「歌詞の意味」というよりむしろ、「歌」であり、「声」であり、「スター」ではないか、と*2

「歌は、詩よりもずっと劇に近い」というフレーズは、ポピュラー音楽における「声」の水準(もちろん歌詞は歌手本人が書くと限らない)をよく教えてくれる。私たちは演じる身体=媒体=スターをどうしようもなく欲望する。

さらに、1920年代のビング・クロスビーから始まるマルチメディアに活躍するスターたちは、ステージ上で二重の演技を強いられる。1つは歌詞の意味内容が示唆する登場人物であり、もう1つは観客が期待するスターとしての在り方(広告イメージや映画俳優としてのスターのイメージから醸成されるもの)だ。これらに従ったり従わなかったりすることで、緊張や親密さが演出され、ポップ・スターやロック・スターの価値は高まっていく。

 

ここまで「声」の「スター」の話ばかりしてきたが、インスト曲を含む音楽全般に「演奏=performance」は浸透している。ジャズ・ミュージシャンは彼らのアドリブが「声」として消費されている明白な例だ。結局のところステージに上がれば誰しも演技を行う。

 

ところで、演奏・演技・演劇が欲望の対象にならない、あるいはこれらの審級が何らかの意味で存在しないポピュラー音楽というのは、果たしてあり得るだろうか。

BGM、アンビエント、フィールド・レコーディングなどがぱっと思いつく。BGMは受容者の側・鑑賞態度の問題なので扱うのが難しそうだ。ここでは最後の例だけ見る。

www.youtube.com

 

私はこのフィールド・レコーディングを、超クールなポピュラー音楽として消費している。しかし、水生甲虫が「演奏」しているかどうかは(比喩としてはよく言われることだと思うが)議論の余地があるだろう。

1つの答えを示すと、ここでは音の編集・配列、あるいは録音の過程そのものが欲望の対象になっている(一方、オーディオマニアでない限り「再生」の水準はあまり意識されない)。フィールド・レコーディングが生で聞く音と全然違うというのはよく言われることである。「演奏」を発生させる媒体への欲望を、ここにも確認できる。

 

補足:上の例では「水生昆虫の出した音」というパッケージング──アルバム・ジャケットも中々秀逸だと思う──を無視できない。すなわち、フィールド・レコーディングにも「仮想された音源(≒演奏者)への接近欲求」は存在するのではないか。

一方、分析美学的な「音楽」の(あまり納得のいかない)定義として「音楽とは文化的な合目的性をもつ活動である」(セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』)というものがある。これに従うならば、鳥の声や滝の音や鈴虫の声は音楽的に体験することができても、音楽そのものではない。

 

 

劇としてのメアリー・スー

 

しかしメアリーはついに病に倒れ、危篤におちいった。病室で息を引き取るメアリーを囲んで、カーク船長とMr.スポックとDr.マッコイとMr.スコットは泣きじゃくりながら、メアリーの美しい若さと、若々しい美しさ、知性、能力、あらゆる面での長所を惜しんだ。

今日もなお、メアリーの誕生日はエンタープライズ号の公式な祝日となっている。

カスガ氏によるメアリー・スーの元ネタA Trekkie's Taleの日本語訳 - Togetter

 

出来の悪い二次創作主人公を指す言葉として「メアリー・スー」は今日よく知られている。その起源は、アメリカで大流行したSFテレビドラマ『スター・トレック』(第1期1966-69年)シリーズの二次創作シーンにある。1973年にファンジン『Menagerie』第2号で発表されたポーラ・スミス「A Trekkie's Tale」は、あまりに治安の悪い当時の二次創作シーンを諷刺するために作られたメタ二次創作だった。

 

メアリー・スーに代表される「作者の理想像が投影された最強系オリ主」の劇性は陳腐であり、場合によっては劇的過ぎて陳腐さをはるかに突き抜ける。最初の上演(=オリジナル=一次創作)を再演する欲望(=コピー=二次創作)は、ファンジンというクローズド・サークルでやっていくうちに変な方向へ向かっていった*3

 

本節で行う唯一の主張、本当にしょうもないお気持ち表明は、「SFテレビドラマ」で「逆ハーレムもの」をやろうとすることに私は違和感を覚える、ということである。こんな初歩的な段階で違和感を覚えることに気づいて驚いた、とも言う。

つまり、視聴者=二次創作作者が役者=キャラを演じる媒体を(性的に)欲望するとき、役者が演じるキャラクターを欲望しているのか、役者のイメージを欲望しているのか、役者とキャラクターの重なりあいを欲望しているのか、重なり合いを欲望するとしてそれはいかに形成されるか、が分からないのである。

必ずしも作品と関係ない俳優やアイドルの逆ハーレムなら、(生もの系は修羅の道だろうが)全然理解できる。が、『スタートレック』のメアリー・スーはおそらくそうではない。作品の媒介が欲望の前提になっており、それによって欲望の構築性が一気に上がる感じがして、幻惑されるのだ。前節で述べた、ポップ・スターが歌詞と自己イメージからくる二重の演技を強いられることとも関連する*4

 

上の記述にはいくつもリマークが必要だ。まず、テレビドラマの放送は1969年に終わっており、ビデオ(VHS)以前の時代だから、映像を観る手段は再放送しかなかったはずである(シリーズ初の映画作品は1979年)。一方ノベライズやコミカライズは1967年から継続的に出版されており、供給が安定していた。記憶と書籍媒体をメインに二次創作シーンは進行したのではないか。

ゆえに、俳優がどういう経歴を持っていて他の作品で何を演じているかはあまり問題にならなかったと推測する(そこを気にする人はメアリー・スー型の逆ハーを書かないだろう)。

もっと言えば、原作未読系二次創作が出現したとは思いたくないが(ファンジンへの参加には時間も金も労力もかかる)、二次創作は周囲の二次創作を参照して書かれていたはずである。性的欲望を部分的に含む欲望は、いろんな虚構を含み、もっとしっちゃかめっちゃかになっている。

この「参照系」*5の構造を、なにかしらの身体と演技の水準に差し戻して考えることはできないか、というのが私の課題かもしれない。

 

補足:参照系に関連して、誰かが異世界系Web小説とエリザベス朝演劇の類似性を指摘していたことを思い出した(出典は忘却)。幽霊の出現・過剰な暴力・過剰な復讐などの「趣味の低さ」、剽窃が頻繁に行われ作者未詳の重要作も稀ではないという「オリジナリティ以前の環境」が似ている、といった主旨だろう。

演技・演劇を主題とした創作物なりWeb小説は一定数存在するが(例えば『アクタージュ』二次創作は連載強制終了後も人気を博した)、それはやはりここでの主題ではない。代わりに作中世界で演劇が一定の役割を果たすWeb小説として、岸若まみず『異世界で 上前はねて 生きていく (詠み人知らず)』を挙げておく。 

https://syosetu.org/novel/187838/

ところで、ドストエフスキーの作品(例えば『罪と罰』)の登場人物の「顔ファン」なるものが存在するらしい。つまり適当な役者なりアイドルを登場人物の容姿として想定して、それに「萌え」それを「推し」、ときには二次創作までするのである。初めて知ったときは驚いたが、役者がラノベの挿絵程度の存在まで退いており二重性が薄いので……いやしかし、ここに潜む二重性には未だ戸惑いを隠せない。おそらく「アニメ化するなら声優は誰」「実写化するなら役者は誰」より踏み込んだ妄想なのだろう。

結局のところ、本節の話題は私に「「3次元」が絡んだときの虚構性に対する訓練が足りていない」「がっちりリージョン意識がある」で片付けられる話なのかもしれない。

 

 

劇としての詩

 

つまり、現代の意見はすべて、詩と劇とは二つの別物であり、例外的な才能をもった作家によって結合されたことがあるだけだという認定の上に立っているのである。

(T. S. エリオット『エリザベス時代の四人の劇作家』1924年

 

古代ギリシャでは叙事詩・叙情詩・劇詩の3つが詩の3大部門と呼ばれた。ルネッサンス以後の西欧で劇は、まず劇そのものとして鑑賞され、台本だけでも物語的に鑑賞され、そして詩として鑑賞された。ただしルネッサンスの時点で多くの喜劇が散文メインだったことは述べておく。

エリオットの背景には、「エリザベス朝演劇が英語圏の文学で一番偉い」という史観がある。さらに「(シェイクスピアの)最も詩的な場面は最も劇的な場面である」とも言う。批評では初期の1919年頃からずっと詩劇について論じていたが、1930年以降詩の実作と代わるようにして詩劇の実作を書き始める。現代の韻文劇はいかにして可能かという問題に挑み続けた*6。むろん、それによって自分がシェイクスピアの衣鉢を継ぐ「正当な」英文学者だと示す政治的欲求もある(エリオットはロマン主義詩人が書いた詩劇を退ける)。

 

以上はどちらかといえば「詩としての劇」の話に見える。詩における劇的な技巧、「劇としての詩」を考えてみよう。

まずテニソン『ユリシーズ』(1842年)に代表される劇的独白の手法がある。語り手が聞き手に対して喋りかけるのだが、本文では聞き手の反応が書かれないから独り言のように見える。この形式では語り手が劇の登場人物のような(誇張された)発話をするので、この名がついたのだろう。

作中の「わたし」は詩人自身のように振る舞うこともある。そう鑑賞されることがとても多い。この装いを奇妙な形で利用したのが、「民主主義の英雄ホイットマン」を作り上げた静かな老詩人、『草の葉』(1855-1897年)のウォルト・ホイットマンだった*7。あるいは、「俺はね、無傷なんだ。そんなことも、どうだっていいことさ」「おれはキリストの教えのなかには決して見つからない」「託宣だ、俺の語ることは。俺にはわかっている。ただ異教徒の言葉でしか説明のしようがないから、口を噤んでいたいのだ」(「悪い血」『地獄の季節』1873年*8と書いた、ラッパーのクール・ポーズの祖先のようなアルチュール・ランボー

エリオット『荒地』(1922年)における「意識の流れ」=ペルソナの高速切り替えをこの系譜で挙げようと思ったが、あれは劇的というより映画的と言うべきだろう。エズラ・パウンドの添削・編集によって速度が増している。

変種として、詩を発表する媒体が劇的になる場合を考える。1950年代、アメリカのビート派詩人によりポエトリー・リーディングという形で詩が舞台に登った。あくまでテクスト読解を補助するための朗読会と違い(これも劇的といえばそうだが)、朗読というパフォーマンスがテクスト本体を上回り得る点で、「近代詩=テクスト」のイデオロギーを逸脱している。また同時期、片面20分収録できるLPを用いてオーディオブックが市場に出回り始めた。

 

 

補足:日本における「劇 drama」と「詩 poetry」の結びつきは、ついに強いものになることなく現代まで来たようだ。「drama」と「poetry」の概念が輸入された明治時代をまず見ると*9シェイクスピアに影響されて明治20年代に島崎藤村や岩野泡鳴といった詩人が明治新体詩(≒文語七五調)のスタイルで詩劇を書いた(島崎藤村「朱門のうれひ」1893年、岩野泡鳴「魂迷月中刃」1894年)。しかし川上音二郎1903年に上演した『ヴェニスの商人』法廷場面(土肥春曙脚色)*10坪内逍遥が台本を書いた『ハムレット』(1911年)は、プランク・ヴァース部分含め全て散文で訳している。近代的な感情を盛るなら散文劇、というわけだ*11 *12

あとは1950年代末から1970年代初頭にかけて、詩人はしばしば詩劇を書いた。現代詩の流行と(アングラ)演劇の流行が重なっていた時代である。自分で劇団を持った寺山修司のような例外もいるが、殆どの場合演じることを想定していない(そのため超現実的な指示が使える)戯曲だった。次の引用は実際上演されたし、そもそも詩人が書いたわけではないが。

A (主人にウインクして)金は王様。

B (主人にウインクして)大臣が買える。人間が買える。魂が買える。

C (主人にウインクして)よろこびも、美しいものも、恋も意のまま。

主人 (独白的に)恋も買えるか……

安部公房「どれい狩り」1955年──『幽霊はここにいる・どれい狩り』新潮文庫、1971年、p.170)*13

近代演劇の中でもミュージカルはどうか。劇と歌は結びついても歌と詩は結びつかない、という印象がある。しかしそれこそエリオットの子供向け詩集『ポッサムおじさんの猫とつき合う法』(1939年)が大ヒットミュージカル『キャッツ』(1981年)に化けたのだから、事態はもっと複雑だ。私は詩としてシリアスなものを想定しすぎなのだろう。

 

 

劇としてのSS

 

前置きが長くなった。ようやく本題に入る。

私は提案する。台本形式のSSを戯曲として読み、あまつさえ上演可能性を想像しよう、と。

二次創作における台本形式はそもそも描写の簡易さから選ばれた方式であり、キャラを多数登場させても発話者が明らかな点にアドバンテージがある。小説形式の方が技術が必要で難しいため、シリアスな二次創作にふさわしく偉い、という風潮がある。これを演劇を持ち出すことで破壊(?)するのだ。

 

ここでは預言者詩人にして21世紀を代表する名優*14、HACHIMANに入場していただく。ついでに舞台は『アクタージュ』とする。

 

「いつもありがとうね。八幡君」

八幡「俺も楽しませてもらってますから。また呼んでください」

「うん........またね」

名残惜しそうに手を振りながら去っていく『お客』を見送り、見えなくなったところで一つ息を吐く。

八幡「はぁ...........」

 

男の体も金になるものだ。

高校進学を諦めてアパートの家賃、光熱費、食費、携帯代に妹の学費と払うものは多いがその分稼ぎも多い。

相手の理想になると言うのも疲れるが、文句も言ってられないだろう。

(『マントゥール』https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14385446#3 )

 

(他の二次創作でもHACHIMANが売春しているところを見た気がする。テンプレなんだろうか?)

これを戯曲っぽく改変する。

 

マントゥール

 

登場人物

比企谷八幡……高校生

比企谷小町……八幡の妹

お客

コロス(合唱隊)

 

場所 千葉

 

第1幕 第1場

 

(薄暗いホテルの一室。窓が無く密閉された空間。蚊が飛ぶようなブーンという不快な音が遠ざかったり近づいたりする。片隅にベッドがあり、シーツにはしわが残る。お客は部屋を出ようとしている。)

お客:いつもありがとうね。八幡君。

八幡:俺も楽しませてもらってますから。また呼んでください。

お客:うん........またね。

(八幡、名残惜しそうに手を振りながら去っていくお客を見送り、見えなくなったところで一つ息を吐く。)

八幡:はぁ...........。

(部屋の照明はさらに暗くなる。コロス颯爽と登場)

コロス:

男の体も 金になる

高校進学 諦めて 

アパートの家賃 光熱費

食費 携帯 妹の学費

払いは多く 稼ぎも多い

相手の理想に なれ八幡

文句は言って いられない

 

こ、こんなはずでは……。

「男の身体も金に~」以降のナレーションをどう処理するかが問題だ。先に述べたように台本形式は利便性から採用されているだけなので、小説的な地の文の心理描写と平気で共存する。2000年代後半~2010年代前半の匿名掲示板SS(『男「〇〇」女「〇〇」』のようなスレタイのもの)はほぼ純粋な台本形式なので、この手の問題は発生しなかった。Pixiv SSのハイブリッド性が悩ましい。「Show, don’t tell」を徹底して欲しい気持ちがふつふつと湧く。

ここの状況説明は絶対に必要なので、省くことはできない。処理方法として一番自然なのは八幡の劇的独白にすることだ。しかしギリシャ演劇以来のコロスが登場すると嬉しいので、サプライズニンジャ理論でコロスを出してしまった*15

 

ついでに言えば、役者はギリシャ演劇や能と同様に、全員仮面を被ってほしいと思う。キャラ面を被るとよい。この演劇は二次創作という共同体・半神話に捧げられた供儀だからであり、名優への(=必然的な身体への)欲望よりも代えがきく(=偶然的な)身体への欲望を優先したいからであり、名優が用意できないという現実的事情があり、自分が役者だったらこの演劇で顔を出したくないと切に思うからである。

となると「VR chat」で上演するのが一番現実的だろうか*16。ところで、私のもう一つの欲望は、バレエを頂点とする近代演劇の身体規律*17に向けられている。VR演劇がモーションアセットを使わないとしても、身体規律の味は変わってくるように思う*18

そしてまた、映像作品の台本ではなく演劇の台本という点にこだわっていきたい。映画の登場以降、その上演場所は「劇場 theater」と呼ばれた。実際、旧来の劇場を乗っとって生まれた映画館は多いのである。ここから連続性を見出しても良い。しかし映画(そしてyoutube)としてのSSはありふれている。

 

私の腕ではPixiv SSの演劇化は難しそうだ。

最後に、もうちょっと上演が容易かつ演劇の快楽が内在していそうな作品として、『咲』の不条理系創作『京太郎「ビューティフル・ライフ」』を紹介したい*19

京太郎「う」

京太郎「うわぁぁぁっ!!!!」

京太郎(こ、こっちにきやがった!!!!今まで並走してたのに!!いきなりっ!!!)


大沼「…………」ガサガサガサガサ!!!!

ガサッ!!!


大沼「………………おはぎ」タッタッタッタッタ

京太郎「ビューティフル・ライフ」 - 咲-Saki- 京太郎SSまとめ - atwiki(アットウィキ)

 

何にせよ会話中心のものが劇に仕立てやすい。劇の快楽は科白に尽きるわけでは当然ないのだが、台本から眺める私たちの立場ではそうなりがちである。

 

補足:不条理系かつ完全台本形式でも、音MAD「モーレスターシリーズ」のSS化である「モーレス小説」は、圧倒的に映像的・編集的で、演劇に向いていない。

モーレス小説ウォーズ第一話「フィギュアを戦わせる遊びがモチーフだし、正直、スマブラ小説ウォーズみたいな支離滅裂さこそがスマブラの本質でしょ」』

https://web.archive.org/web/20210728015455/http://molesternovels.hatenablog.com/entry/2017/10/25/163945

あと考えておくべきなのは「やる夫スレ」の系列だろうか。掲示板で行われるAA(アスキーアート)を使ったSS群であり、いまだ根強い支持を集めている。シェアキャラクター(「やる夫」「やらない夫」などの2ch由来のキャラクターから他創作物のキャラクターまで)が一次創作も二次創作もやる。

シェアキャラクタ―という概念にそもそも演技性が含まれる(それを言うなら二次創作という概念にも劇性が含まれる?)。やる夫スレそのものについては、AAに重点が置かれている点でまず漫画的*20であり、次に映像的。上演可能性については微妙。ここで欲望されているヴァーチャルな身体(=AA)をどこまで「演劇」的なものとみていいかわからない。

 

 

 

劇としての(二次創作)

 

All the world's a stage,

And all the men and women merely Players;

(Shakespear "As You Like It")

 

ポストモダン以後/インターネット以後/オタク的二次創作以後、誰しもが情報の発信者となり、誰しもが演出家兼役者になった、という。そうだとして、「世界劇場」とはシェイクスピアの時代から言われていたことである。

 

私はHACHIMANの演劇を通じて、生活をHACHIMANにしたかったのかもしれない。

 

 

[reference]

村井健『〈要点〉 日本演劇史~明治から現代へ~』

https://www.nntt.jac.go.jp/centre/library/list/upload_files/nntt_engekishi.pdf

 

 

 

追記:本稿の主題は第5節「SSの演劇化」にある、と私は思っている。他の節は「劇」というモチーフの重みや背景を確認するために配置された。本稿の作業を横に広げていくならば、劇としての「冷めたチキン/Vtuber」「(ごっこ)遊び」「人形劇」「都市」「ASMR/オホ声」*21なども考察の対象になるだろう。

 以下、使わなかった引用なりアイディアなりのメモ。

Tipographica - 時代劇としての高速道路 Highway As A Samurai Play - YouTube

・劇的なもの(運命的なもの)とメロドラマ的なもの(偶然的なもの)

セネカ:上演されぬラテン劇(放送劇の先祖? 吟唱という形式)

書簡体小説。二次創作小説は(あるいは一次創作も)はじめから救済ルート的なものではなかったのか。なりチャ。

「作者が戯曲を上演させるつもり書いたかどうかは問題ではない。問題は演じ得るかどうかだ」(エリオット全集4 p.248)

「作品を最も劇的にするものが作品を最も詩的にする」(エリオット『詩劇に関する会話A Dialogue on Drmatic Poetry』)

 

 

 

*1:ロックンロールの出現を背景として1950年代後半から1960年代前半に流行した社会学的な「内容分析content analysis」は、歌詞の意味的な分析から少しずれる。つまり、「内容分析」において歌詞は統計調査の対象であり、特定の単語が現れる回数などを記録して、そこから若者の非行や逸脱行為に関する何らかの結論を引き出す。

*2:この辺りの考察は『サウンドの力Sound Effects』(原著1981年)よりも『Performing Rites』(1996年)の方がずっと優れているので、可能ならそちらを参照。ただし後者には和訳がない。

*3:シミュラークル」などを持ち出すべきかもしれない。特に演劇という形態はテレビドラマに比べて一回性が強調され、オリジナル/コピーの概念を保持しやすい。が、この点以外は何度もやっている話なので省略。『Web二次創作小説史1995-2008 転生オリ主とトリップ夢主』を参照。

https://kakuyomu.jp/works/16817330656289184661 

*4:この手の「メタゲーム回りすぎて欲望行方不明」の例として『ホロライブラバーズ トロフィー「ファンタジーを覇する物」獲得ルート』(2020-21年)を挙げておく。https://syosetu.org/novel/245562/ 解説は次にある。日記 最近書いた/読んだ/聴いたもの - 古い土地 

*5:上の『Web二次創作小説史1995-2008』を参照。

*6:ここでは、散文劇は詩になるのか、散文劇は詩的鑑賞ができるのか、という問題が宙づりにされているように見える。

*7:ホイットマンに関する面白エピソードを紹介:ヨーロッパ在住のアン・ギルクリストなる熱狂的なファンは、3人の子を持つ未亡人だった。彼女は「今こそ肉体の神聖さがわかります」「求めるのではなく求められるのを待つのが女性の本能です」などと書いた恋文をホイットマンに送りつけ、ついに気持ちを抑えきれず渡米する。ホイットマンは「そんな理想像を描いては困る」などと書き送り、うまくかわし切った。(木島始(訳編)『ホイットマン詩集(海外詩文庫5)』思潮社、1994年)

*8:なお『地獄の季節』の初期タイトル案は『黒ん坊の書』『異教徒の書』だったらしい。ミンストレル・ショー的な擬装欲求、というよりは単に「異邦人はクールだ」という考えか。(鈴村和成(訳編)『ランボー詩集(海外詩文庫12)』思潮社、1998年)

*9:明治以前、能・歌舞伎・浄瑠璃の台本は文学的に鑑賞されたとしても、物語部分への興味が強かったのではないか。七五調で書かれている場合にも、「歌」としてすら鑑賞されたか微妙である(このあたり全くの嘘を欠いている可能性あり。日本演劇に詳しい方の指摘を待ちたい)。一方、遠くイギリスで能が「詩劇」に繋がったことはある。エズラ・パウンドがW. B. イェイツに能を紹介したのをきっかけに、イェイツは能の要素を取り入れた詩劇『鷹の井戸』(1916年)を書いた。

*10:原文は次の「167」以降にある。https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko14/bunko14_d0273/bunko14_d0273.html 

*11:反面、時代錯誤な部分も含んでいたらしい。小野昌『坪内逍遥シェイクスピア 帝劇『ハムレット』をめぐって』https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-KJ00000110792.pdf

*12:言文一致運動(二葉亭四迷浮雲』1887年~)からの補足。明治の小説家はよく散文で戯曲を書いた。その出来は必ずしも良いとは言えない。列挙してみると、尾崎紅葉『夏小袖』(1892年、モリエール守銭奴』の翻案)、幸田露伴『裕福詩人』(1894年)、森鴎外『仮面』(1909年)。

ところで十辺舎一九『東海道中膝栗毛』のような18世紀後半の滑稽本に、言文一致に適う写実的な会話描写が多く含まれていることを指摘したい。 散文劇のはしりと言える。また明治の言文一致運動において、西洋小説の模倣を表とするなら、裏で江戸滑稽本が参照され続けていた。

*13:1924年生まれの安部公房は20歳頃まで詩作を試みていた。彼のユーモラスな文体、凝縮された比喩に漂う詩情はこれ故か。また安部は詩誌「列島」(1952-55年 詩誌「荒地」に対抗する左派現代詩人の拠点となった)に参加している。

*14:「名優」というのはつまりそのクロスオーバー二次創作の多さにおいて。預言者詩人だと思っているのは今のところ私しかいないようだ。『HACHIMAN「おれが今日 ここに来たのは……」[このSSの続きを読む]』を参照。https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2023/09/22/175241 私はシェアキャラクタとしての詩人、誰しも「詩人HACHIMAN」を名乗れることに可能性を見出している。この構造は面白いのでみんなじゃんじゃん活用して欲しい。キャラ売りしようとした初期ボーカロイドと構造が似ているかもしれない。

*15:エリオットは最初の詩劇『聖堂の殺人』(1935年)でのみコーラスを用いている。コーラス専用の人物は現代劇では使うべきでないという判断か。「それでもやっぱり生きてきた、私たちは生きてきた、なかばうつろに生きてきた」。

*16:2022年、VR上で『マクベス』を掛けた例が存在する。VRChatで演劇「マクベス」を上演 出演者はアバター姿で演技 - MoguLive 

*17:エリオットは『劇詩問答』(1928年)の中でバレエを熱心に褒めている。また論集『四月はいちばん残酷な月』(水声社、2022年)の池田論文では、エリオットとバレエの次のような関係が述べられている:エリオットは1921年、現代バレエの改革者ロシア・バレエ団のロンドン公演で掛けられた『春の祭典』から、学生時代に読んだ『金枝篇』を再発見し、聖杯伝説や預言者テイレシアスを『荒地』の中に盛り込んだ。つまり『荒地』の中心にあると思われがちな聖杯伝説はどうも後付けらしい。

*18:「役者」と性の関係についてこれまで書いているようで書いていなかったので、ここで補足しておく。言うまでもなく、古来より様々な地域で「役者」(を含む芸能関係者)は性と関わって来た。身体規律を確立した19世紀中頃のフランス・バレエにすら、パトロンが高額を支払って楽屋裏に入る制度が存在し、ときに性的関係を強要された。最近ではジャニーズ騒動はもとより、女性vtuberへのセクハラが常態化しているとはよく言われる(一方男性vtuberはあまりセクハラされないらしい)。より凄まじいのが男性が女性アバターを演じている場合である。VRで演劇を行うならば、こういった「エロあるよ(笑)」について再考が必要であろう。

*19:これは某氏の紹介で知った。ここでお礼申し上げる。https://x.com/nema_to_morph_a/status/1711369754718679225?s=20 

*20:あるいはノベルゲーム的。あるいは読者の意見がランダムで採用される「安価スレ」やダイスに基づいて展開を決める「あんこスレ」を踏まえるとTRPG的。

*21:2000年代後半の男性向けエロコンテンツで発展した「過剰な/説明的な淫語」、例えば「みさくらなんこつ語」を劇的独白とみなす解釈がある。(宮本直毅『エロゲ―文化研究』p.217)