古い土地

暗い穴

異世界論――「異世界転生」論と「小説家になろう」論のための助走

 

 以下は「なろう」論をきっかけに書いた8000文字の放棄稿である。論が言語や論理の解体(destruction)の方へと進み、コントロール不能に陥った。論としては成立していないが何らかのオブジェとしては成立していると判断したので、ここに残す。

 

 

手が届かない 俺の新しい世界

なんてどこにも見えやしない

――高橋徹也「新しい世界」 

 

 

 本稿の序論として書いたものを、内容の独立性ゆえ次の記事にまとめた。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 ともかく、「なろう」の発明はヒップホップの発明と同様に、ある時点までエキサイティングだった。これ以上新しいものなどないのだから、既成概念を利用してどこまでも感覚をハックしていくこと(なろう風に言えば「チート」)。

 「なろう」という〈場〉における「異世界」概念の増殖、その現象こそが異世界じみて見えた時期があった。

 

 以下の論考に直接関係するのはこの部分だけである。ただし、「なろう」論を期待している読者は上の記事を読んだ方がよい。一応「なろう」論のつもりで書いたのだが、それを都合のよい口実にした何かと思う方が自然かもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

異世界論:「虚構」から「脱虚構」へ

 

 本稿の背景に入沢康夫『牛の首のある三十の情景』への論考として提出した次の記事がある。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 次ともおそらく関係がある。言語論および世界論の先触れ。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

「虚構」論

 

 前半部(虚構論)は『入沢康夫論3-2』「結語1:ヒト・トリ・ウシ」の読み換えのような内容になる。敢えて「異世界」等の重要単語の定義が宙づりになっていることに注意しておく。

 

 

仮定1.1 世界とは「虚構」である。少なくとも、ヒトが認識する限りの世界は。

 

 ある種の観念論者がよく行うタイプの主張である。認識とは虚構であり、世界とは認識であるならば。*1

 「社会」、「権力」、「神」、「通貨」などの社会通念は全て「約束事」として成立している。もう少し踏み込んで、我々の意識・無意識、「各自の死の必然的な到来の予想」*2、「今ここに」在ること、食うこと、眠ること、言葉を操ること、その他あらゆる諸観念が、フィクショナルなもの・借りもの・まがいものに見えてくる。少なくとも、どこかしらに切れ目があって嘘くささが漏れ出しているような。(これは元々『牛の首のある三十の情景』の読解であり、それを敷衍しようとしている)

 

 特に重要なのは言語の虚構性・言葉の嘘くささだ。言葉が数多の約束に基づいていることを思い出そう。意味は約束事のネットワーク・相互参照抜きでは生じ得ない。そして言葉は嘘をつくということも。

 この点を突き詰めたのが詩人の入沢康夫だが、しかしテキストを通して「異世界」という〈場〉に参加する我々は言葉の虚構性と無関係ではいられない。いやまさに、言葉の虚構性こそが主題になってくる。

 

 仮定1.1はよく見ると「異世界とは虚構である」ではなく「世界とは虚構である」と記述している。

 もし異世界(例えばナーロッパを想起)と比して基底現実(と、とりあえず呼んでおく世界)が圧倒的に高い確度で成立していると信じるとして、しかし基底現実も虚構の賜物にすぎないはずだ。確度とは虚構の積み重ねの別名である。*3

 

 

 

 先に進む前に、過程1.1の「世界=虚構」を利用して「物語」の効用を明らかにしたい。

 

このヒトは一にして多という極めて特殊な形態をとるが、我々の似姿だ。あるいは我々より我々らしいかもしれない。というのも、「自我」「意識」も(言語化される部分されない部分に関わらず)間違いなく「虚構」であって、したがってむしろ虚構性を積極的に引き受けるテキスト内の「わたしたち、わたし」はよりヒトの本性に近づいている。世界の虚構性を積極的に引き受けることも重要だ。

――「結語1:ヒト、トリ、ウシ」『入沢康夫論3-2』

 

 19世紀のフランス文学者ジェラール・ド・ネルヴァルは「物語とは、その物語を生きる人々のためにある」*4と述べたとか述べてないとか。これを物語の虚構を脱していく主張*5ではなく、むしろ虚構性を積極的に引き受ける主張と読みたい。世界とは虚構なのだから。

 ネルヴァルは登場人物に「憑依」せずには物語を書けない人だった。一方で、極めて編集技術に優れている。https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2021/11/28/104315

 

 

 以上をまとめて

 

系1.2 「物語」は有効である。

 

 

 

 

 仮定1.1から次の一見逆説的な系を引き出そう。

 

系1.3 全て創作における世界は、あるいは基底現実をも含む意味可能世界は、それぞれ「異世界らしさ」の断片を含んでいる。印象的に書けば「全ての世界は異世界である」。

 

 複数の世界があれば、相対化によって結局すべてが「異世界」になるのは当たり前ともいえる。

 

 基底現実の異世界化に関連して、「経験・認識・思想・神秘・幻想・狂気・戦慄が現世界を異世界にする可能性」について触れておこう。

 我々は言語による概念化により自己を守っているが、それを文学の力で越えること――ネルヴァルでもカフカでも阿部公房でも三島由紀夫でもなんでもよい――は可能なのか? 1960年代までの文学が並んだが、時代の雰囲気は絶対に関係している。

 

 なろう作品はこの点について冷めている。現実の変革可能性などもはやない。変革が起こったとて、それすらも「体制」の健康のために行われる新陳代謝にすぎないのだろうと。「なろう」という〈場〉が創りだされる過程でこのような「諦観」が影響した、と言ってみる。

 しかし変革(変わっていくこと、進歩すること)への欲求はある。変革は面白いからだ。この裏に「本質的な可塑性のない現代・現実は面白くない」という不満がある。欲求を満たすためには現代ではなく中世ヨーロッパの貴族社会(に似て非なるもの)、王政社会(のまがいもの)、近代社会(の借りもの)を舞台とするしかなかった。以上は「なろう近代(19世紀)回帰願望説」に対する一つの説明になる。

 

 ともあれ、「なろう」はただひたすらに「異世界らしさ」と戯れた。英雄譚や革命の物語がどれだけ嘘っぽくとも、いやむしろ嘘っぽさこそ「異世界らしさ=異世界のリアリティ」として重要だったのか?

 個々の実作者は楽しんで書いていたりワナビだったりランキングハッカーだったりいろいろだが、総体的な〈場〉としては虚しく哀しいポルノ性である。現代は全てがポルノ的に消費される。

 

 

 にじファン崩壊(2012年)や諸々でなろうの人口が増え、基本的な要素は出揃い、横のメタゲームが激しくなり、書籍化作品がいくつも生まれる頃、次のような感触が生まれてきた。

 

命題1.4 我々に手が届き得る(創作の)世界は全て「現実」という単一世界の中の小世界にすぎない。「我々は現実から出られない」し「我々は異世界に手が届かない」。実質的に「異世界は存在しない」。

 

系1.5 創作の世界が含んでいるとされた「異世界らしさ」(系1.3参照)、それもどうやら「嘘くさ」く、有効でなくなってきた(系1.2参照)。

 

(初期のワクワクが無くなり、異世界ものがジャンルとして確立され、自己参照が二周目にも入ると食傷気味になった、という個人的感情の読み換えにすぎない。)

 

 「なろう」はパロディのパロディ、そのまたパロディを塔のように積み重ねていく。これに伴って嘘の嘘くささ、そのまた嘘くささにまで向き合わざるを得ない。

 この裏には我々の実存の問題があり、また現代における言語の問題がある。

 

 

 

「脱虚構」論

 

 さて命題1.4と系1.5により「(異)世界=虚構」論の限界が見えて来た。ここから先は「脱虚構」論になる。

 言語に思い悩む我々は、次のように結論付けざるを得ない。

 

仮説2.1 世界とは「虚構」ですらない。少なくとも、その欠片しか持たない。

 

仮説2.2 我々は「虚構」ですらない。少なくとも、その欠片しか持たない。

 

 つまりは、あるとき「約束事」の総体である言語の参照の網の中で、これ以上遊べなくなった自分自身に気付くのだ。

 

 我々はどこに居るのだろう?

 我々は何を書いているのだろう?

 我々は何を読んで

 

 

注2.3 「脱虚構」という語にはデリダの「脱構築」のレミニッセンスが働いているようだ。だが、デリダが「再構築reconstruction」を目指したのに対し、ここでは「解体destruction」にとどまってしまう

 「静的構造を批判・解体し、生成に着目しながら意味を構築し続ける」という思想は、しかしその表層部分(後者の部分?)だけが「権力」「消費主義社会・資本主義社会」に都合よく利用されてはいないだろうか? 表層を「変革」し「改善」することであたかも「脱皮」したかのように装い、根本的批判を逃れること。フレーバーが変化しているだけで本質は静的なままだ。怒りのあまり人間が生きているのが悪いという暴論を吐きたくなってしまう。*6

この(おそらく――否、絶対に、不毛な)根本への問いが、一種の近代病であることは承知の上だ。

本稿において「再構築」を提示することは、言語のオルタナティブ(資本主義のオルタナティブ)を提示するに等しく、とても筆者の手に負えることではない*7。仮想的な対抗概念として以前の記事で「反ミーム」を取り上げたが、しかしこれは現状の構造をズラしてくれるものではないだろう。

 

 

 言語の〈不能力〉、我々の〈不能力〉を痛感する。*8

 我々は嘘をつく、いや嘘は決して吐けない。「嘘ですらないもの」をつく。言葉自体にも、この「嘘ですらなさ」が内在しているかのような。

 内在?

 

 「我々が存在する」という言明にすら気を付けた方が良い。存在を論ずることは可能なのか?

 

命題2.3 我々は、世界は、「存在」も「不在」もしていない。少なくとも、「存在」にせよ「不在」にせよそう主張するための根拠が十分でない。

 

命題2.4 言語は存在論を表現する十分な力を持たない。

 

 これらは語り得ぬものを語るようなものだが(しかしここに至っては全てがそうだ)、存在の悪質さと呼ぼう。存在の怒り、実存の不安とは、まさにこの悪質さに起因する。

 

 

 命題2.3に含まれているが、改めて書くと

 

命題2.5 異世界は「存在」も「不在」もしていない。

 

 直観するに、「異世界」という概念は「解体され無効化されている」状況に近いのかもしれない(しかし勿論、そうですらない!)

 

 存在の悪質さは次を導く:「ここ」も「向う」も無いこと(これは「嘘」で、もっとマシな表現は「解体され無効化されたこと」だが、それすら適当でない。以下面倒なので「無い」と書いてしまうが、このようなリマークが延々と続く状況であることに注意せよ)。したがって(帰る場所も行く場所も無いので)「冒険」も「帰還」も無いこと。「希望」も「絶望」も無いということ。「差異」も「言語」も無いということ。

 異世界」は幾重にも無効化される

 

 我々はすでに幻想の中にいる。幻想の中にもいる。呪いのなかにもいる。幻想の外にも? いや、いない、いない、いない。どこにも。いるともいないとも言えない。

 

 

注2.6(形式論理の視点) 状況を整理するため、アナロジーにしかならないが形式論理を用いてみる。ただのお遊びだ。

排中律は「φ ∨ ¬φ」で表されるが、存在の悪質さにおいて排中律は必ずしも成立し無さそうだ。「¬φ ∧ ¬¬φ」を公理に追加した「矛盾した」矛盾許容論理というのが一つの喩えだ。あるいは必然性演算子□を用いて「¬□φ ∧ ¬□¬φ」を公理に追加した様相論理ともいえそうだ。あるいはCon(φ)を「φが無矛盾である」と読むことにして「Con(言語) → [Con(言語+φ) ∧ Con(言語+¬φ)]」を公理に追加したとも。

様相論理が一番モデル化として正しそうだが、一番気が利いているのはConのバージョンだ。だって言語は矛盾していることを我々は直観しているのだから、Con(言語) → Aは常に正しい! 公理は追加しなくともよい! ……しかし言語が矛盾しているにも関わらず、いやだからこそ、言語の矛盾は証明できない。自然言語の厄介さだ。ゲーデルの第二不完全性定理「諸条件を満たす無矛盾な理論は自身の無矛盾性を証明できない」と奇妙な照応を見せる。

 

 

 

 言葉と世界の嘘くささ。その突き詰めさえも1960-70年代でだいたい終わってしまった。あるいはそういったテーマの賞味期限がそこで切れた。

 あとに残ったのは、言葉への/世界へのただ漠然とした不信だ。幸福な(?)切り結びの時代が終わり、緩やかに没交渉になってゆく。

 

 80年代以後、ある種の詩がもはや不可能になったのは、言葉の(不信に裏打ちされた)軽視が原因ではないだろうか。

 

 そして「小説家になろう」とは、まさにこの不信と諦念から出発したのではないか

 

 あのポルノじみた、安易な肉体的欲求が混じった「嘘くささ」は、悲鳴と嗚咽ではなかったのか。

 あの三百万文字を超える長大で重厚な物語は、sight(風景・心情)の異常量の積み重ねにより、不信を越えてここではないどこかへたどりつくための処方箋ではなかったのか。

 ゲーム的リアリティの採用、架空作の引用は、もはや言葉以外のものが説得に必要だったからではなかったのか。

 

 

 

 

結:異世界を幻視するために

 

 異世界趣味はともすればオリエンタリズムとなる(未来の東洋から過去の西洋じみたファンタジー世界へという歪んだ形で、それでも持っていくのは西洋近現代的価値観)。というか、このポリティカル・インコレクトネスが作品の快楽に直結していることの方が圧倒的に多い。

2021/11/24:野崎歓『異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論』 - 古い土地

 

 「なろう」は基本的に「体制」側への憧れに根差したテキスト群だ。いや、「主人公の介入によって根本的に変革しうる体制」への、憧れ? (現代ものだと前者NAISEIものだと後者を読みたくなる) この憧れが安心ベースで提示され続ける。

 

 ある時期まではこの「ポリティカル・インコレクトネス」「安心ベース」に新奇性、「不安心感」を抱くことが出来た。ちょうどヒップホップに開眼した人が歌詞のセルフボーストやワンループ性に驚くように。

 今はそうではない。なろうのこういった性質を課題に感じる。*9

 

 

 「脱虚構」の果て、なろうの取り組みの先に、それでもなお異世界を求めるのなら。

 

予想3.1 異世界とは世界やその状態ではなく、行為である。

 

 ちょうど快楽が状態でなく行為であるとの同様に。

 

 異世界を永遠に蒸着させることはできない。しようとすれば、必ずや何かを失うことになる。それこそが創作行為の本質に見えるが。

 

 

 もう一つ。「異世界」があれば「この世界」もあるはずで、その間には差異があるはず。

 

予想3.2 異世界は意味を伴う。

 

 意味とは〈絶対意味〉だ。

 存在の悪質さの中で、それでもなお失われない〈絶対意味〉……。

 あまりにも近代病すぎるか。今の筆者には手を伸ばすことも幻視することもできない。*10

 

 

 

あとがき

 

 フランスの詩人ステファン・マラルメ*11は1880-90年代に自ら「批評詩」と呼ぶ散文群の中で、「特定のテーマに対する批評的散文を詩的に書きながら、裏で詩に関する主張を引き出す」というよくわからないアクロバットをやっている。本稿を書いてだいたい気持ちが分かった。マラルメは根本的に詩のことしか考えていない。筆者が「近代」「言葉」「世界」「実存」のことしか考えていないのと同様に。

 

 本来は「異世界論」と対になるように「転生論」を書いて「異世界/転生」論とするつもりだった。内容は予想できるように死生観や神話的モチーフで、「我々は生きているとも生きていないとも言えない」を回転扉に論が運ぶかどうか。しかし文字数の関係で断念。やるならまずT.S.エリオット『荒地』について記事を書かないといけないだろう。どこに向かってるの?

追記:それと二次創作(ならびにそのていで書かれる一時創作)において「転生」が物語の中に侵入する手段であることは見逃せない。ここで語ったような抽象世界論ではなく、なろうの実際のテキストと向き合って物語観を抽出することが必要になるだろう。

 

 

 ロラン・バルト「作者の死」の理論でなろう批評するのはどうだろうか。なろう作品は作者の欲求が過剰に出ている部分と読者・〈場〉の要請が過剰に出ている部分が混ざっている。果たして作者は非人格化したのか否か。作者と作品と読者と〈場〉の四角関係は「なろう」史の中でどう変遷したのか。

 

 あり得ない数の作品が連載小説として並び、結構な数が未完に終わる、という現象もネット小説シーン特有で、これを踏まえたネット以後の文芸論はどんなものがあり得るのだろうか(既にあるのだろうか)。

 

 それと、誰かが絶対やらなくてはならないのはフェミニズム批評である。本稿もおそらくはその対象に入るのだろう。

 やったら面白いに決まっているが、重い仕事になることも容易に想像できる。なろうが「近過去参照」している多数のオタクコンテンツ・インターネットコンテンツを適切に抽出し批評することから始めて、なろう(偽)史を批評用に編纂しその特色を見出さねばならない。これを実行できる能力を持つ人間がなろうにリーチする確率は、現在のところ極めて低いと言わざるを得ない。

 

 

 

  一番は〈無〉であること、零文字であること、記事を書かないことなのだが、しかし存在が曖昧である状態、存在が曖昧であることが指摘されていない状態よりは、〈有〉であること、少なくともそう擬装されている方がまだ望ましい、という心理が働いているように見える。

 

 

 

 

 

*1:「ヒトが認識する限りの世界」という留保を、言語の限界、ならびに「人間の言語は人間が使う」という構造上の限界から来ていると読むことも可能だろう。

*2:「牛の首のある七つの情景 6」より

*3:とあるtwitterジャーゴンで「茶番」と呼ばれるもの

*4:ネルヴァルなら言いそうだが、出展不明。https://1000ya.isis.ne.jp/1222.html

*5:本稿後半の「脱虚構」とはこのような希望に満ちたものではなく、むしろ……

*6:実際のところ筆者はそう思っている。アナーキストなので。

*7:そのうえ、「再構築」は筆者の興味の範疇にない。どうせ「解体」するのだ。

*8:これは近代病患者マラルメのレミニッセンス https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2021/12/06/041222

*9:ヒップホップのワンループ性はドシドシやっていくべきだと思う

*10:補足:とはいえ、「俺ガイル」の比企谷八幡は言語・非言語の間隙を縫って「本物が欲しい」と言ったらしい。フリッパーズギター解散後の小沢健二のように、これはポストモダンの相対化に対して「絶対・本物」を持ってくる揺り戻し作業を、ジェントルにやっているように見える。意味への欲求は少なからぬ人が持っている気はする。だが意味を人との関係ではなくエクリチュールに求めることに、筆者の病状はあるのだろう。

*11:ステファン・マラルメ雑考:とある入門手続 - 古い土地