古い土地

暗い穴

詩をよむそれはくるしい 5:塚本邦雄

 

 

塚本邦雄(1920-2008年)は、第二次大戦後の前衛短歌運動の旗手としてよく知られる。

きっかけは、戦後まもなく歌壇・俳壇に対して突きつけられた「第二芸術論」(1946年)だった。これは短歌型文学の前近代性──日本的抒情、表現の狭小、「何を」より「誰が」詠むかを重視する解釈──を否定する評論であり、呼応する形で、塚本邦雄は「現代短歌」を模索し始める。

第一歌集『水葬物語』(1951年)は歌壇からは無視されたものの、三島由紀夫の激賞を受けた。1950年代から60年代にかけて塚本は、寺山修司岡井隆らとともに、現代短歌の韻律・語法・情景を整備していくことになる。

その後1980年代に俵万智穂村弘が口語短歌を定着させ、今の「#tanka」に繋がる、というのが詩歌史的なあらすじ。

 

本稿の主題は、塚本邦雄のテクニックにある。「私」の消滅、クールポーズ、現実批評と幻想、組織的な破調の運用、etc。過去多くの歌人がそうしてきたように、私も塚本邦雄の解読を試みよう。

 

Then I get deep in the beat then complete the

Poem's physique, never weak or obsolete

They never grow old, techniques become antiques

Better then something brand new 'cause it's real

And in a while the style’ll have much more value

Classical, too intelligent to be radical

Masterful, never irrelevant, mathematical

俺はビートを深く刻み、詩の体格を完成させる

決して弱くも時代遅れでもない

決して古びない テクニックは骨董品になる

新品のものより良い、本物だから

しばらくすればスタイルの価値はさらに高まるだろう

古典的で、急進的というにはあまりに知的

達人的で、決して無関係ではなく、数学的

(Eric B. & Rakim〈Don’t Sweat the Technique〉1992年)

 

 

 

難しさの分解

 

塚本邦雄の作品は難しい。しかも、その難しさにはいくつも根がある。ここでは塚本の作品に慣れ親しみながら、難しさを要素分解していこう。

 

 

旧字旧仮名

 

まず、「旧字旧仮名」(塚本の言では「正字正仮名」)の問題がある。1946年に「現代かなづかい」と「当用漢字」が公示された*1わけだが、塚本は生涯を通してほぼずっと旧字旧仮名を使ってきた。1998-2000年刊行の全集でも過去作の旧字を新字に改めることはしていない。旧字の質感まで含めて作品、ということなのだろう。

したがって、旧字を一々調べなければ作品は読めない。

 

昆蟲は日日にことばや文字を知り辭書から花の名をつづりだす(『水葬物語』1951年)

赤裸の鹽田夫迫りてわが煙草より炎天へ火を奪ひさる(『日本人靈歌』1958年)

 

「蟲」が「虫」、「辭」が「辞」、「靈」が「霊」なのは雰囲気で分かるだろう。でも「鹽」は類推では分からない。答えは「塩」だ。

 

作品解説:

「昆蟲」の歌は微笑ましくも賢い一匹の虫を歌ったようにも、プレデター的な恐るべき複数の虫を語ったようにもとれる。「日日」や「花」の/h/音の柔らかさは前者の印象を強め、この「昆蟲」が歌人・詩人のように見えてくる(私たちは辞書ならぬインターネットから花の名を調べる必要がある)。もちろん、歌自体はこのような説明(telling)を行わず、ただ情景描写(showing)を提供している。そして情景の乾いた非現実性・幻想性にこそ塚本の特質がある。

「赤裸」の歌は韻律に着目したい。「せきらのえん/でんふ迫りて/わがたばこ/よりえんてんへ/火を奪ひさる」のように、五七五七七に押し込めば意味的な連続を句切れがぶった切る。語割れ句またがと呼ばれるテクニックで、塚本が組織的に探究した。句跨りから来る荒々しい印象、「迫りて」「奪ひさる」動作、「鹽田夫」というこの時期の塚本好みのマッチョなモチーフ、「赤裸」「炎天」「火」の「熱」が一繋ぎになった作品。

 

以下、作品はできる限り原文通り表示し、欄外で旧字の補足を行うことにする。頻出旧字の一覧は次を参照。

異体字(旧字)重要字体 厳選35個 - 古文書ネット

 

 

固有名詞

 

他にちゃんと読むなら調べるべきものとして、固有名詞がある。

 

あれは水陽炎みずかげろふのひびきかサンマルコ寺院より神立ち去る音か(『閑雅空間』1977年)

※神=神

※水陽炎:水が太陽の光を反射し、陽炎のように揺れ動いて見えるもの。詩歌ではしばしば視覚・触覚と結びつけられながら使われる。「ひびき」という聴覚との接続は斬新。

 

「あれはみずかげ/ろうのひびきか/サンマルコ/寺院より神/立ち去る音か」で七七五七七としておく。「あれは水」で区切る五九五七七の方が自然かもしれないが、七七五七七という破調は塚本にとってもはや定型なので、制作過程の推測からこちらでとった。破調の上に句跨りが起こっていることに注意。

問題は水の街ヴェネツィアの大聖堂「サンマルコ寺院」だ。塚本邦雄は音の響きだけで固有名詞を持ってくることはしない。だから「神」が「立ち去る」ことにも何らかの謂れがあるはず、と思って調べた結果……よく分かりませんでした! いかがでしたか? 

いや、使徒・福音記者マルコにそういう故事は見当たらないし、サンマルコ寺院にもそのような来歴はないし、1970年代のサンマルコ寺院に何か事件があったかなんて調べようがない。

塚本は信仰懐疑をよくテーマとして取り上げるから、それがたまたま固有名詞として現れたとという線の解釈はできる*2。あと、塚本邦雄はヨーロッパ旅行を習慣としていたので、現地で見た経験から構想した作品かもしれない(こういった作家読みをこそ塚本は忌み嫌ったのだろうが……)。

調べる労はまるで無駄となったが、その時間分だけ個人的に愛着が湧いてきた。「神」の喪失をよくここまで美しく歌えるなと感心する。

 

 

引用・本歌取り

 

引用や本歌取りはサラッと行われると気付けない。引用の手法は塚本に限ったことではないけれど、塚本は意識的に題材の拡張を試みた。

 

眼を洗ひいくたびか洗ひ視る葦のもの想ふこともなき莖太き(『水葬物語』1951年)

※視=視、莖=茎

 

「眼を洗ひ/いくたびか洗ひ/視る葦の/もの想ふことも/なき莖太き」で五八五八七。

これは明らかに17世紀フランスの哲学者・数学者ブレーズ・パスカルの「考える葦」から来ている。「人間は自然の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって宇宙を超える」というのがパスカルの考えだった。

塚本の歌は「眼を洗って視る他人の考えなさにいらつく」とも「葦の茎がマジで有り得ないぐらい太くてびっくりしている」ともとれる。五句目の「き」の連続はむしろ後者を呼んでいるかもしれない。

 

雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ(『感幻樂』1969年)

 

「雪はまひるの/眉かざらむに/ひとが傘/さすならわれも/傘をささうよ」で七七五七七。

これは室町時代の「狂言歌謡 四十八番 末広がり」から「笠をさすなる春日山、笠をさすなる春日山、是も神の誓とて 人が笠をさすならば我もかさをささうよ、げにもさあり、……」を大胆に本歌取りしている*3

本歌を知る前は雪の小唄だったが、本歌を知るとむしろ換骨奪胎の鮮やかさに目が行く。

 

 

破調

 

語割れ句跨り、および七七五七七という定型と化した破調についてはすでに触れた。ここでは韻律を探究しすぎて失敗したような作品を挙げる。

 

老いは目くらむばかりのかなしみとおもふ暗がりに青梅嚙む父よ(『日本人靈歌』1958年)

※嚙=噛

 

頭から見ていくと本当にわからない。末尾の「梅嚙む父よ」を七と特定して、「老いは目くらむ/ばかりのかなしみ/とおもふ/暗がりに青/梅嚙む父よ」で七八四七七か。制作過程的には「老いは/目くらむ/ばかりの/かなしみ/とおもふ/暗がりに/青梅/嚙む父よ」で三四四四四・五四五か。「目くらむ」ようなひらがなの連続が不親切。やりすぎ。

 

幼帝弑さるるなつかしも先づ赤き竈より幼稚園建ちはじめ(『緑色研究』1965年)

 

「幼帝しいさ/るるなつかしも/先づ赤き/竈より幼稚/園建ちはじめ」で七七五八七か。

制作過程的には、七七五七七の上と下の七七を句跨り前提で五五四で分割し、「幼帝/弑さるる/なつかしも/先づ赤き/竈より/幼稚園/建ちはじめ」の四五五五・五五五になったと推測する。やりすぎ。冒頭Rakimを引用して「数学的」と言ったのはこの辺りのこと。

この韻律と言葉の意味のつながりもいまいちわからない。あと、描写する情景は何かしら元ネタがない限り、単なる悪趣味に思える。

 

神にも母にもかつてひざまずきしことなしサッカーの若者の血吹く膝(『緑色研究』1965年) 

 

「神にも母にも/かつて跪き/しことなし/サッカーの若も/のの血吹く膝」で八八五八七だろうか。盛りすぎ。ここまで跨ったり破調にしたりする必要があるのか。当時と今とで「サッカー」という語の効果が異なることを考慮すべきかもしれない。

 

 

「サンマルコ」の歌で「調べる労はまるで無駄となったが、その時間分だけ個人的に愛着が湧いてきた」と書いたが、これはある意味塚本が意図したデザインだと思う。

つまり、旧字旧仮名にしろ固有名詞にしろ引用にしろ破調にしろ、とにかく遅く読ませて外国語の詩を読むような緊張感を保つことが、短歌を近代的に自立した作品とするための戦略だったのではないか。

 

 

 

作品鑑賞

 

何かしら学びがあったり、個人的に面白く思った作品を並べる。

 

 

『水葬物語』1951年

 

屋上の獸園より地下酒場まで黑き水道管つらぬけり(『水葬物語』1951年)

聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫(『水葬物語』1951年)

※獸園=獣園:「じゅうえん」と読むべきか

※黑=黒、藥=薬

 

「屋上の/獸園より地下/酒場まで/黑き水道/管つらぬけり」、「聖母像/ばかりならべて/ある美術/館の出口に/つづく火藥庫」で五七五七七。

俳句は一瞬の風景を切り取るものだとよく言われる。絵画的な詩・歌、という形容もよく見かける。この作品で塚本が行ったのは、語割れ句跨りという言葉の音の運動と、風景=カメラの移動を同期させるという、映像的なアプローチだ。「ならべ」て「つづ」き「つらぬく」。

俳句の十七文字は映像的であるには短すぎ、口語自由詩は映像の切断・編集の方に向いている*4。塚本は短歌の知られざる特性を発掘してみせた。

トーキー映画が出始めた1930年代のモダニズム短歌にこの発想は有ってもよさそうだが、調べた限りでは見受けられない。たぶん、この時代の新しい物好きの歌人はみな自由律に傾倒していたせいだ。

 

 

園丁は薔薇の沐浴ゆあみのすむまでを蝶につきまとはれつつ待てり(『水葬物語』1951年)

 

「えんていは/薔薇のゆあみの/すむまでを/ちょうにつきまと/はれつつ待てり」で五七五七七。下句の句跨りに若干戸惑う。

薔薇の水やりにおいて薔薇を擬人化したものか。そうすると「蝶」も自然と擬人化される。あるいは、「薔薇」を最初から隠喩と思えばよりエロティックな歌として読める。

 

 

銃身のやうな女に夜の明けるまで液状の火薬めゐき(『水葬物語』1951年)

当方は二十五、銃器ブローカー、秘書求む――桃色の踵の(『水葬物語』1951年)

 

アメリカ型モダニストのハードボイルドなジェンダー観! という作品二つ。どちらも語割れ句跨りを駆使した五七五七七。

「銃身」の歌に関して、セックスをこのように表現することは当時の言説空間ではかなり珍しかったと思う。特に短歌では類例がない。ファリックシンボルである「銃身」を「女」とした上で、「液状の火薬」を持ち出した点が奇抜。

 

 

装飾樂句カデンツ』『驟雨修辞学』1956年前後

 

孤獨にて初夏の遊園地の類人猿チンパンジーの最敬禮をうけゐる(1956年頃制作、『驟雨修辞学』1974年)

※孤獨=孤独、敬禮=敬礼

 

「孤独にて/初夏の遊園/地のチンパンジーの最敬/礼をうけいる」で五七六七七。句跨りで語の末尾を少しずつ次の句頭に送っていくさまが面白い。

 

 

君に逢ひにゆく傷つきに海よりの夕風はらむシャツを帆として(1956年頃制作、『驟雨修辞学』1974年)

 

塚本には珍しく爽やかでパタエモすれすれの作品。「君に逢ひに/ゆく傷つきに/海よりの/夕風はらむ/シャツを帆として」で六七五七七。

これがもし「傷つきに君に逢ひにゆく」なら句跨りのない五八で、本当につまらない作品になる。転置でギリギリ救われている。

 

 

まづしくて薔薇に貝殻蟲がわき時經てほろび去るまでを見き(『装飾樂句カデンツ』1956年)

※經て=経て

 

「まづしくて/薔薇に貝殻/蟲がわき/時經てほろび/去るまでを見き」で五七五七七。カイガラムシはアブラムシのように植物に群がる小害虫。名前の響きに反して妙にグロテスクなので検索注意(特に集合体恐怖症の方は)。

初句「まづしくて」の導入は、音も意味もよい。「貧しいとは害虫を駆除する費用が無いだけでなくその気力もわかず無気力で見続けるほかがない」云々よりも、最初の「ま」が「蟲(むし)」を経て最後「見(み)き」を召喚するまでの/m/音のダイナミズムを見た方がよっぽどよい。初句とそれ以後には距離があり、「それはそれとして」の句切れがあるとしておく。塚本の美意識が批評意識を通り越した作品。

 

 

『日本人靈歌』1958年から1970年代まで

 

日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』1958年)

 

塚本邦雄の代表作の一つ。第三歌集『日本人靈歌』(「黒人霊歌」のもじり)の巻頭歌。これまでいろんなことが言われてきた。

個人的な告白から始めると、最近まで誤読していた。「したし」を「されたし」の意に捉え、希望するのは「皇帝ペンギン」でも「皇帝ペンギン飼育係り」でもない第三者だと思い込んでいた。だってそっちの方が勢いがあって面白いじゃん……。

「日本脱出/したし 皇帝/ペンギンも/皇帝ペンギン/飼育係りも」で七七五七七。破調に加えて語割れ句跨りを連発する。意味的な上句は空白で示されているように、二句目の途中で来てしまう。

二句目途中からと四句目で効果的に使われる「皇帝ペンギン」の語。実際問題、「天皇」が思い浮かばない人はいないと思う。作者が「天皇ネタで行くぞ」で思い立ってこれが書けたのなら、すごい構想力だと感心する。よく「皇帝ペンギン」に喩え、「日本脱出」させ、「飼育係り」も出てきたな、と。

もちろん、「皇帝ペンギン」は「天皇」(を頂点とする戦後の国家体制だのなんだの)といった空虚な中心ではなく、周縁の存在(在日朝鮮人アイヌ琉球・黒人・etc)であってもよい*5皇帝ペンギンそのものであってもよい。作品はtellingせず、showingしているのみである。塚本の作品においてはしばしば、現代批評(寓喩)と幻想性が高いレベルで両立する。

そして思うのは、「大義」と「歴史」のあった1960年代までしかこの幸福な結合を保てないこと。時代の磁場である。塚本自身は晩年までインテリモダニズム路線を突っ走るのだが。

 

 

燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたることゆるす(『水銀傳説』1961年)

※傳=伝

※はるけき=はるかな:非常に遠く隔たっている様子

 

くんせい卵/はるけきかじの/こうにみちて/母がわれ生み/たることゆるす」で七七六七七。

燻製卵(岡井隆によると鶏卵ではなくキャビアなどの魚卵らしい*6)を食すとき、口の中に広がる匂いが加工過程にあったはずの「火」を思い起こさせる。この匂いが、プルーストのマドレーヌやコノハナサクヤヒメの火中出産ではないが、「われ」が記憶しているはずのない、「われ」の出生の秘密を呼び起こす。

一読して「トゥルーエンディングじゃん」と思った。「はがみ/る」のアクセント*7感からは一切赦しを感じないが、いつわりのトゥルーエンディングもまたトゥルーエンディングには違いない。

 

 

こゑ殺しゐし蜜月のつかのまに夏至 砂色にあぢさゐほろぶ(『感幻樂』1969年)

 

「こゑ殺し/ゐし蜜月の/つかのまに/夏至 砂色に/あぢさゐほろぶ」で五七五七七。伝統短歌において三句目(腰句)での句切りは最重要視され、ここで区切らないのを「腰折れ病」と言った。塚本は腰折れを組織的に研究している(「日本脱出」の歌も参照)。ここでは四句目の途中、空白で示される部分に意味的な切れをずらしている。

さて、短歌の音声は基本的に、日本語というモーラ言語のべったり感とべったりくっついている。具体的には、/p//t/k/などの破裂音や「っ」などの撥音便を多用するとサマにならない。ここに口語短歌の難しさがある。

「こゑ殺しゐし蜜月のつかのまに夏至」の部分は口に出していて気持ちいい。韻をよく踏んでいて、ラップなどの音節言語的アプローチ*8に聞こえる。そうすると「砂色にあぢさゐほろぶ」の意味合いとモーラ言語性がやや雑か。

 

 

幻視街まひる昏れつつ賣る薔薇の卵、雉子の芽、暗殺者アサシンの繭(『靑き菊の主題』1973年) 

※幻視=幻視、賣る=売る

 

「幻視街/まひるくれつつ/売る薔薇の/卵、雉子の芽/アサシンの繭」で五七五七七。

きれいな構成の幻想歌。元ネタはなさそうだ(映画とかにあっても知らない)。寓意も特に考えられず、エンタメ意識に見える。

 

 

1990年代

 

晩年近く、1990年代の塚本作品には次のような特徴がある。

①口語短歌の作品群*9

昭和天皇崩御をきっかけとした、戦争をテーマとした作品群。

③悪趣味(バッドテイスト)

ここでは③を中心にライトヴァース的な作品を紹介する。

 

幼女虐殺犯の童顔それはそれとして軍人勅諭おそろし(『黄金律』1991年)

 

「幼女虐殺犯」は1988-89年の連続幼女殺人犯・宮崎勤のこと。それが「軍人勅諭」とがっちゃんこしている。「幼女虐殺/犯の童顔/それはそれ/として軍人/勅諭おそろし」で七七五七七。

 

海征かばかばかば夜の獣園に大臣おとどの貌の河馬が浮ばば(『魔王』1993年)

 

「海征かば」は第二次世界大戦期に準国歌とも呼ばれた国民歌謡のこと(元々万葉集に出典がある)。ここでは「かば」の音韻が全てを乗っ取っている。五七五七七の定型。

二句目の「かばかば」は正直分からない、「がばがば」ならオノマトペにあるが……。

おとど」には海獣アシカ科のトドが潜んでいる。

 

素戔嗚すさのお神社神籤みくじはこ私製わたくしせい大凶の籤を混ぜて帰り来 (『魔王』1993年)

 

もう悪ふざけでしかない。「わたくしせい」の軽みは、KIRINJI〈ただの風邪〉2021年の「南側の窓を開け放てば 春だね」に匹敵する。「スサノオ神社/みくじの箱に/わたくしせい/大凶のくじを/混ぜてかえりく」で七七六八七。

 

むかし「踏切」てふものありてうつし世に踏み切り得ざる者を誘ひき(『魔王』1993年)

 

凄みがあるようにも学校の怪談レベルにも見える作品。「てふ」は「という」の意。七七五七七。

 

 

Misc.

 

コメントするまでもない/コメントに困る/理解していない、が何かしら良いと思った作品を列挙する。もはや鑑賞ではない。

 

にれの切株に腰かけ友情について議論をするコキュ同士(『水葬物語』1951年)

水死者の遺せしくつのまはりにてむぎ熟るる小さき海中の島(『装飾樂句(カデンツア)』1956年)

誕生日以後のかなしみけむりつつ遠火事の天みどりに還る(1956年頃制作、『驟雨修辞学』1974年)

焔だつ詩歌棄てなむ初霜にうるむ桔梗のさみなしにあはれ(『されど遊星』1975年)

しほからとんぼ腑分ふわけ終りしわが童女夕星ゆうづつをそのひたひに享けつ(『天變の書』1979年)

われが詩歌のほろびを言ふにみなづきの杏少女からももをとめもみもみとして(『詩歌變』1986年)

夢前川夢に架かれる橋々の一つ知らねばわが歌成らず(『波瀾』1989年)

※コキュ:フランス語で「妻を寝取られた男」のこと

 

 

あとがき

 

塚本邦雄が駆使したテクニックはここで紹介した以外にも沢山ある。「〇〇少女(おとめ)」シリーズだったり、熟語の連結だけで一首作ってしまったり、塚本が終生のライバルとした岡井隆への高度な当てこすり(高度すぎて解説されないと一切分からない)だったり。

今回は「使いやすそうなもの」を並べることに終始した。また仕組みを理解をすることにばかり気が回り、作品を楽しむところまで踏み込めなかったのが残念である。塚本の仕事で最も完成度が高いのは第三歌集から第六歌集にかけて、『日本人靈歌』(1958年)『水銀傳説』(1961年)『緑色研究』(1965年)『感幻樂』(1969年)あたりとされる。これらは脂が乗り過ぎていて、今の私には消化できなかった。

 

「詩をよむそれはくるしい」シリーズとして振り返ると、今回は全然苦しくなかった。苦しむにせよ道が整備されているから、何が分かればよいか・どこで諦めればよいかが明確で助かる。前回記事の天沢退二郎の読みがたさ*10とは雲泥の差だ。たぶん吉岡実*11と同じ箱に入れるべき人なのだろう。

 

 

最後に、自分で作った方が理解が深まると考え、十二首(旧作含む)書いてみた。塚本邦雄のカロリーが高い作品群の後に差し出すのはやや心苦しい。

 

冷めたチキン/日常詠 - 500人の詩人が次々と入場・アステリオルニス狩り・その他の観察(古土) - カクヨム

 

こうなるのか……。

こうなりますね……。

どうして……。

 

 

参考文献

 

・旧字について

異体字(旧字)重要字体 厳選35個 - 古文書ネット

 

・近現代短歌について

上田博・安森敏隆(編)『近代短歌を学ぶ人のために』世界思想社、1998年

池澤夏樹穂村弘・小沢實(選)『近現代詩歌』河出書房新社、2016年

 

言語学について

木石岳『歌詞のサウンドテクスチャー うたをめぐる音声詞学論考』白水社、2023年

 

・塚本邦夫について

塚本邦雄塚本邦雄詩集(現代詩文庫501)』思潮社、2007年

尾崎まゆみ『レダの靴を履いて 塚本邦雄の歌と歩く』書肆侃侃房、2019年

菱川善夫『塚本邦雄の宇宙I』短歌研究社、2018年

現代短歌を読む会『塚本邦雄論集』短歌研究社、2020年

 

作品の表示は主に『塚本邦雄詩集』2007年に従った。初心者向けならもうちょっと良いアンソロジーがあると思う。千首は多すぎる。

レダの靴を履いて』は塚本邦雄の作品から露悪・毒・カマし・池の水を全部抜く試みとして読むと興味深い。モダニズムの読み替えか。ただ基本的に抜きすぎ。

菱川は塚本論のわりと権威のある人らしい。同時代の政治的なコンテクストでどう読まれたかを知るのに使える。

塚本邦雄論集』はコンテクスト研究部分を参照した。

 

 

 

*1:歴史的仮名遣 - Wikipedia

常用漢字 - Wikipedia 

*2:https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/21511/files/002000600001.pdf 

*3:奈良にある春日山は、笠を伏せたような山容から「三笠山」と呼ばれ、万葉集の時代より歌われてきた。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」(阿倍仲麻呂、『古今集』)

*4:ここでは20世紀前半の英米詩人T. S. エリオットによるコラージュ・意識の流れの手法が、当時最新芸能だった映画と似た感触をもたらすことを念頭に置いている。

*5:https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/records/20596 

*6:https://kyoudai-tanka.com/review/45 

*7:日本語は一般にピッチアクセント言語である。ここでは短歌に英語のようなストレスアクセントを勝手に導入している。追記:「倦み」にも「膿」にも「海」にも通ずる生の暗さ、母音/u/が他の母音に比べて持つ相対的な暗さを持ち出した方が説得的だろうか。

*8:日本語はモーラ言語で、英語は音節言語。英語の「strike」は1音節だが、これを日本語にすると「ストライク」と5モーラになる。日本語ラップではこれを「ストライク」で5音節にも、「ストraiク」で4音節にも、「strike」で1音節にも歌う自由がある。

*9:実のところ、初期作品の中でも第一歌集『水葬物語』だけは口語短歌があった。

*10:詩をよむそれはくるしい 4:天沢退二郎 - 古い土地 

*11:詩をよむそれはくるしい 3:吉岡実 - 古い土地

HACHIMAN「おれが今日 ここに来たのは……」[このSSの続きを読む] - 古い土地