古い土地

暗い穴

中原中也という現象【詩を読まないのでとても楽しい】

 

大岡昇平(編)『中原中也詩集』岩波文庫、1981年

 

これを読んだ。良さが分からなかった。

 

北川透中原中也論集成』思潮社、2007年

 

困ったのでこれを流し読んだ。おおむね説得的な議論だった。だが1935年生まれの北川透が、なぜ1968-2007年の間に700ページ分もの中原中也論を書いたのか、著者が中也のどこに惹かれたのか、いまいち分からなかった。

 

何かの詩の良いと思うことと、何かの詩を良しとする人がどういう感性・理由を持っているか理解することは、別のことだ。私の場合前者の守備範囲がどうも狭いから、後者を理詰めで広げたいと考えている。しかしここで、人間理解力──それがあったら近代小説もっと読んどるわという能力──が試されている気がしてならない。

 

 

中原中也との邂逅

 

私が中原中也(1907-37年)を僅かでも意識し始めたのは、入沢康夫(1931-2018年)を通してだったと思う。

 

──ではもう「ただもうらあらあ唄つて行く」しか

  ないやうなのだろうか。

──「ただもうらあらあ唄つて行く」しか

  ないやうだ。

入沢康夫「I 潜戸から・潜戸へ」『死者たちの群がる風景』1982年)

 

これは中原中也「都会の夏の夜」の引用になる。

 

頭が暗い土塊になつて、

ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

中原中也「都会の夏の夜」初出1929年)

 

入沢康夫中原中也は、明らかに違うタイプの詩人だ。それが1980年代──入沢の個人史においても世間的にも「現代詩」の熱が冷めた時代──に入って、初めて入沢は中也を意識的に引用した*1

しかも、入沢は中也のオノマトペだけを利用している。私の中也に対する読みも似たようなものだ。『中原中也詩集』を読んでいて、中也のオノマトペに対するセンスには舌を巻いた。他に誰が「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を書けただろうか。

 

サーカス小屋は高いはり

  そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

さかさに手を垂れて

  汚れ木綿の屋蓋やねのもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

中原中也「サーカス」初出1929年)

 

 

だが、オトマトペを除いて「すごい」「面白い」と思った箇所は私にはなかった。

入沢康夫による中原中也の読解は私より詳細だろう。けれど、50-60年代の現代詩の語法・制度作りに著しく貢献した入沢が、後述するように制度のアウトサイダー(にしてまた別の制度の先駆者)であった中也の、音韻の一部分しか利用できなかったことは示唆的だ。

 

中也との2回目の出会いは、『文豪ストレイドッグス』(漫画2013年~)だった。私が見たのはアニメ版(2016,19年)だ。

中原中也が重力操作系能力者になっている理由はよく分からない。しかし、この作品の中では扱いがマシな方だと思う。澁澤龍彦が龍になったり、泉鏡花が35人殺しの前科を持っていたりする*2中で、中也の真の必殺技は「汚濁(おじょく)」という名前──「羊の歌」『山羊の歌』をちゃんと読んでいなければ引用できない名──がついているのだ。

中也は作品が読まれず、作家伝説が一人歩きしてきた詩人だ。その果てに『文豪ストレイドッグス』があるとしたら、それはそれで良いのではないか。萌え萌えだし。

 

そういえば、以前気まぐれに別の文庫版で中原中也詩集を開いたとき、解説を秋元康が書いているのを見て止めてしまったことがあった。

中也の詩は音声的側面が強いため、作詞家にとって勉強になるのはよく分かる。さらに語彙・文体が平易で、情報量が同時代の制度的な詩と比べると少なく、描く情景がどことなく「パタエモ」的*3──「クリームソーダ」なんて中也は一言も書いていないが、「クリームソーダ」が中也の延長線上にあるというイメージが私を掴んで離さない──となれば、現代でこそ中也は生きてくる(生きた結果の『文豪ストレイドッグス』)。

中原中也秋元康に共通する評価の難しさを2つ指摘しておきたい。1つは日常語彙・感性への浸透。2人とも平明さのスタンダードに関わったわけで、その貢献をスタンダードの中に居ながら評価することは難しい。少なくとも、作品論より受容論の問題になる。もう1つは2人が「未熟さ」の系譜*4の真っただ中にいること。中也ほど「未熟さ」によってプッシュされた戦前詩人は珍しい(彼が2歳で亡くなった長男文也に異常なまでの愛情を注いだことも付けくわえておく)。一方、おニャン子クラブからAKB48までのアイドルプロデュースに代表されるように、秋元康は「未熟さ」の扱いをよく知っていた。

私が以前『BLEACH』の巻頭ポエムを良しとしたこと*5と、ここで下した中原中也秋元康への評価は、矛盾しているかもしれない。爆笑できないのが問題な気がする。あと既に偉くなっている点。

 

 

中原中也の受容史

 

生前の中原中也は、いわゆるインテリではなかった。全部自分で考えないと信用しない人だった。「未熟さ」=アマチュア性と強度が一体となっているのはこれを基礎とする。一方で、地方(山口県)出身者にとって東京弁で詩を書くことにまず相当の労力を要するような、そんな時代の人でもあった。

中也は1930年代、アカデミズム的なモダニズム詩からも、労働者階級を描こうとしたプロレタリア詩からも、抒情詩誌「四季」派からも、念入りにボコられている。

 

このような同時代の低い評価は、モダニズム詩、プロレタリア詩、そして、「四季」派の伝統回帰の美意識の眼で見れば、マイナスカードばかりを揃えているような、彼の詩の性格によっているのだろう。古臭い韻律の〈歌〉〈叙情〉〈オノマトペア〉〈道化〉〈微温的〉〈感想詩体〉〈少年〉〈あどけなさ〉〈アマチュア〉〈純真づら〉〈非イデオロギー(無思想)〉〈文語〉〈俗語〉〈無秩序〉〈下書き〉〈ダダイズム〉〈リアリズム〉〈非詩〉〈執拗な独断〉〈認識不足〉……。

北川透中原中也論集成』pp.203-204)

 

とある座談会では、中原中也が10人くらいから寄ってたかって批判され、草野新平ただ一人が擁護したという話がある。草野は宮沢賢治(1896-1933年)をフックアップした人でもあった。

 

こんな中也が生きた時代の分厚い制度からは、マイナス、脆さ、軽さ、調子の低さ、幼さと見られたものが、決してプラスでも、強さでも、重さでも、高さでも、成熟でもないままに、何か名付けられないまったく別のシーンを用意し、あえて言えば、それらへの批評性を変換しながら生きている、というのが中也の不思議な生命力であり、可能性である。その隙間だらけの同時代性に、新しい人は共感し、引き寄せられる。

(同p.204)

 

中也は「隙間だらけの時代性」を持ちながら、同時に時代の刻印を受けている。すなわち、明治から昭和におよぶ日本の詩・歌受容のねじくれた部分が中也に現れている。

詩における「うた」の復権はなぜ(W. B. イェイツのような)「大人」ではなく中原中也のような「少年」によって行われたのか。平安時代以降おおむね低調だった短歌は、明治に新体詩を分離しながら近代短歌として再活性化した。新体詩は大正時代にやっと口語自由詩となったが、これに冷や水を浴びせるようにして、中也は近代短歌から学んだ七五調をもって登場する。「今一番ダサい」ことを、中也は妙な新鮮味と否定し難い拙さ(北川透いわく「失敗作も多い」)を伴いながらやった。近代詩と「うた」が接点を保てていた、最後の幸福な時代でもあったのだろうか。

 

戦後になると様子が変わる。

今日まで続く中原中也の作家伝説は、批評家の小林秀雄大岡昇平によって作られた。小林の「何も持たないナイーブな内部の人間」というヒーロー観に、中也はうってつけの人物だった。

ところで彼の詩の構造上、作家伝説は避けがたいのかもしれない。中也は短歌からキャリアを始めたが、短歌は古代から現代に至るまで作家のコンテクストを参照せずにはいられない「うた」だった*6。ラッパーみたいなものだ。

 

一方詩壇の方を見てみると、戦後の「荒地」派や「列島」派は中也に対してほぼ言及しなかったらしい。「論ずる価値が無い」とすら言わない、本当の総スカンだ。

「荒地」の黒田三郎による貴重な言及は次の通り。

 

中原中也の詩に不思議な浸透力があるとすれば、それは彼の詩が、殆ど誰でも一寸書いてみたいと思うような心境詩に通じているところから生じてくるのではないか。でまかせや思いつきを意味あり気に並べてみるのは、文学青年にありふれた陋習であり、その結果が奇妙な断片として現れるのは、書くべき何物をも生むことのない市民的無為の生活のせいである。

黒田三郎「日本の詩に対する一つの疑問」『内部と外部の世界』)

※陋習(ろうしゅう):悪い習慣

 

酷い言い草だ。ともかく、黒田は中也を仮想敵とすることで、微温的な「心境詩」──おそらく「個人が本質的に表明されず、戦争やそれを助長する社会に立ち向かえない詩」くらいの意味合い──が生産される構造を問うた。

ところで、引用部の黒田は「不思議な浸透力」の魔術を否定しきれていない。実のところ現代詩人には、中原中也を手本として詩を書き始めた人が一定数いる(北川透飯島耕一など)。中原中也はメンターとして重要なのだ。そして、「子供でも理解できそうな詩」「真似しやすい詩」は、評価が渋くなりがちである(あるいは極端に神聖化される)。

 

1950年代中盤の「感受性の世代」によって、中也の詩は作品論的に批評され始めた。1956年の大岡信は「中也に共感すればするほど、戦後詩の位相からは、彼の抒情が克服・嫌悪の対象として現れる」と述べている。制度への疑いをある程度共有できたように見える戦後の抒情詩派にとってすら、中也はアンビバレントな存在であり続けた。

制度のアウトサイダーとして中原中也を評価するとき、私見では武器の少なさが気になる。同じくアウトサイダー的な立ち位置だった宮沢賢治春と修羅』(1924年)は、武器の多さが見て取りやすい*7宮沢賢治はその膨大な童話創作によって「未熟さ」の系譜におくべき人であるが、彼の詩作は「大人向け」に分類したいものが多い(特に「おれ」「修羅」が絡むもの)。ところで中也は1933年に出た賢治の全集贈ったコメントで、童話よりもずっと詩を評価していた。ここに奇妙なねじれがある──中也が「子ども」ではなく「少年」だった、で片付けられる話なのかもしれないが。

宮沢賢治の受容史をここで展開するつもりはない。ないが、とにかく彼は偉くなった。市井の人々にも入沢康夫のような学者肌の詩人にも愛された。「共感」と同時に「克服・嫌悪の対象」になる必要などない。逆に、現在の宮沢賢治研究の中では批判的読解の数が足りないくらいだ。

宮沢賢治は制度に挑戦したというより、もう1つ別の世界をつくってしまったスケールの大きい文学者だ。中原中也にそのようなスケール観はない。けれど、中也には真似されやすい(最良の部分は誰にも真似できないのだが)という偉さがある。作家伝説も含め、その影響の大きさは計り知れない。

 

 

 

後書き

 

ξ:文学-詩をよむそれはくるしい カテゴリーの記事一覧 - 古い土地

詩作品の読みを何かしら提供するものとして、以前「詩をよむそれはくるしい」シリーズを書いていた。このエッセイは違う。作品を読みあぐねる体験を、作品の外部から分析したものだ。「とても楽しい」わけではない。読みあぐねて苦しい。

本稿執筆の動機としては他に、最近たまたま周東美材『「未熟さ」の系譜』を読んで「未熟さ」で何かを論じたくなったこと、『文豪ストレイドッグス』の話が久しぶりにしたかったこと、パタエモを再度こすりたかったことなどが挙げられる。

 

 

*1:私が中也に詳しくないので知らないが、1982年以前の入沢に中也は出現していたかもしれない。例えば入沢康夫「キラキラヒカル」「ユウレイノウタ」などのライトヴァースは「中也のパロディ」として読めなくはない(敢えてそう読む必要性を感じないが)。また逆に、中也に入沢(のパロディ)を見出すこともできるかもしれない。

*2:どちらかと言えば、「35人殺した」という泉鏡花のキャラ設定より、35人殺しの前科が作中何の進展も深みも見せないまま何度も強調される作劇の構造の方が気になる。

*3:日記:「パターン化された”エモ”」一周年に際して/安藤元雄の詩 - 古い土地 

*4:周東美材『「未熟さ」の系譜』【音楽本から学ぶ聴く技術・書く技術】 | コモン・ミュージック 

*5:HACHIMAN「おれが今日 ここに来たのは……」[このSSの続きを読む] - 古い土地 

*6:例えば竹山広の「二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな」という歌。事前知識がないと小市民的・微温的な政治歌にも見える(私はそう思った)。しかし作者が長崎原爆に被爆すると知った途端、リアリティの重みが加わってくる。このようなコンテクスト参照の仕組みに反発した人々が歌人からも現れ、戦後の前衛短歌に関わった。

*7:短歌の経験、謎の仏教観、謎の修羅思想、謎の農村楽天幻想、物理学・化学・地質学・農学など西洋科学による詩語の拡張、外国語の使用、子供の目線、モダニズム詩の先触れ、方言の使用、レコード音楽の引用、etc。