ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)って誰
今回と次回でネルヴァルについての本を読む。簡単に紹介しよう。
ネルヴァル(1808-1855)はフランス大ロマン派(ユゴー、ラマルチーヌなど)に対して小ロマン派とでもいうべき時期の文学者だ。
本人は劇作家、詩人になることを(すなわち文芸で喰っていくこと)を目指したが挫折、冴えない新聞記者として生きていくことになる。
そうして1842年、32歳にして彼は最初の「発狂」を経験する。
それからどうなったかといえば、本格的におかしくなった。いや、おかしくなって本格的になった。しだいにリアルとヴァーチャルの区別がなくなり、すべてがイリュージョンで、すべてがテレプレゼンスになった
ここから1855年にパリの凍えた路上で縊死体として見つかるまで、実際は晩年の1950年代に彼の代表作は集中している。
本格的な評価は20世紀に入ってからだった*1。夢と現実を接近させた点でアンドレ・ブルトンらシュルレアリストがネルヴァルを称揚した。プルースト『失われた時を求めて』は過去のベクトルを何重にも重ねて見せたネルヴァルの先を行くことを目指した仕事だった。1950年代には「19世紀を代表する3,4人の文学者の1人」と衆目が一致する。
彼の代表作の一つに『東方紀行』(1851年)がある。当時エジプト・ギリシャ・トルコへの旅行、およびその旅行記を書くことが流行していて、ネルヴァルは新聞コラムライターとして1841年と1843年に行った東方旅行をいくつかの記事に仕立て上げた。
サイードの『オリエンタリズム』(1978年)はまさにこの時期の東方紀行・東方研究を辛辣に批判するものである。
ところが、ところがである。サイードはネルヴァルをとりあげたうえに、なぜか評価が甘い。ネルヴァルは例外とするかのようだ。
ネルヴァルは無意識の天才、というだけではなかった。むしろ、幻想の中においてどこまでも明晰であり続ける点に才能があり、不幸があった。『東方紀行』で「ぼく」は当時の大文学者たちの逆を張るように市民の間に混ざり一夜を共にした。一見不合理に見える制度がきわめて効果的に運用されていることを示し、東方が野蛮だと言われてきたのは西洋文明の野蛮さの裏返しではないかと指摘した。
これだけではオリエンタリズムの表層的逆張りで根は同じではないかと筆者には思える――例えば作中で「ぼく」は女奴隷を買う。だが、そういった「思想的矛盾」は生の人間の描写として解消される、あるいは矛盾が横滑りしていく。女奴隷に関して言えば、オスマン帝国における女奴隷はかなり地位が高いように描写され、「ぼく」は女奴隷に手を出さ(せ)ないし、リアルで奇妙なコミュニケーションが行われる。*2
畢竟するに、文学の力がサイードに「何か」を幻視させたのだろう。ともすればオリエンタリズムを超える可能性をも。
19世紀ヨーロッパで発表された東方紀行文の中には(現代からすればポリコレ的なリマークがつくものの)文学史に残るものがいくつもある。しかし、それらがあくまで19世紀文学の枠内で鑑賞されるのに対し、ネルヴァルはそこからはみ出してくる感じがある。現代の文学とも言えない。何を読んでいるのか。
ネルヴァルは意識的にも無意識的にもどこかおかしい。どこまでもすり抜け、はみ出してくる。
以上、前置き。
2021/11/24 野崎歓『異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論』
野崎歓『異邦の香り――ネルヴァル『東方紀行』論』(2010、講談社)
面白い。おすすめ。
ネルヴァルの異国憧憬からみる異世界論の可能性を考える。
以下、メモ(評論に対するというより評論で読み解かれている作品=『東方紀行』に対するもの)。
[女性について]
・死とセックス。「女の匂い(オドール・デイ・フェミナ)」。女性に粉をかけようとするわりに事が及ぶ直前になって情けなく逃げること(『千夜一夜物語』のシンドバッドのごとく)。「腰砕けのヒーロー」「受動的な積極性」。なん陰キャっぽくもある。ネルヴァルその人はかなり内気っぽい。友人への書簡で下ネタが出てくる感じも、こう。
・女奴隷。「ぼく」が買った女奴隷(作者の実際の旅では道連れが勝手に買ってきたようだ)はカイロ、オスマン帝国における地位の高く不遜で美しいジャワの娘。白人の奇矯を笑う黒人女たち(奴隷市場での一幕)
・女性が書く住所メモ=エクリチュールの不・可読性。パロールの不・可聴性。何かを叩きつけられている。疎外?
・女性蔑視的な側面に少しリマークがあってもいい気がするような、その程度はリテラシーとして課せられているような。
・花嫁探し。全ての女でもある「一人の女」の探究。(全ての本でもある「一つの本」の探究:マラルメ、宮沢賢治、ボルヘス)異性に救済を求めるの辞めた方がいいよ本当に。必要なのは社会福祉。まだ出てきてないけど亡母憧憬のテーマもある。
[ネルヴァル本人と作品の重なり]
・この本においては著者と「ぼく」がダブる。後者はだいぶ受動的で、オリエンタリズム的な「まなざし」を保たない。「視られる」のだ。
ただそれは現代的不安とも違う。アクションに対する反応として視られる。現代だったら「無視」のテーマとか「誰に見られているか分からない」というテーマが入るだろう。こいつは狂ってるわりにコミュニケーションしてる。狂人というのも権力が規定するものにすぎませんが。
・3人の女神による「仮面とヴェール」、ピラミッドの「地下通路」、古代異教による「キリスト教の反駁」、フリーメイソンの「秘教儀式」。今の流行りに対して逆を張ること・・・2021年から見ると別の危うさがあるぞ。そもそもネルヴァルは一回目と二回めの旅の合間(1941年)に発狂している。
・異教の、異国の、異邦の、
・当時ヨーロッパでは東方紀行のムーブメントがあったが、基本的な立場は「異教に対するキリスト教による啓蒙・教化」だった。だがネルヴァルは「むしろ自分の方がオリエントの人間に慈悲深く導かれることをこいねがっている」(p219) この受動性と祈り! ある種の現代性。これ以外の方法はとりえなかった。
意識的な逆張りとすれば単なるオリエンタリズムの裏返しにすぎないよう思う(それだけでも評価に値するのかもしれないが)。だが、ネルヴァルの筆致はそこからはみ出してしまう。
[カリフ・ハーキム]
・レバノン・ベイルートにて挿入された話。ドルーズ派に脈々と伝わる狂える教祖「カリフ・ハーキム」の物語。狂気と聖性。ハシッシュによる幻覚を共有する「分身」の「兄弟」のモチーフ。あるいはまた17世紀の著作『ポリフィルの夢』で描かれた夢を共有する恋人を思い出そう。自我の分裂とは違うようだ。
麻薬(ハシッシュ)を摂取し、自らを神と宣言し、妹と結婚しようとする王。夢と現実の対立。歴史上「自分が予言者・神であると感じた男」がたびたび出てきたことへの視線。試練を引き受ける〈神の化身〉=狂人が肉の身体に閉じ込められることのテーマ。
どこまでが伝承でどこまでがネルヴァルの創作・編集なのか検証できないかな。ほとんど創作? 「自我の同一性」から「あらゆる可能な同一性」へ。少なくともそれを文学として織り込むこと。
(自らを神と感じること、自らの中に神の存在を認めることはネルヴァルの一回目の発狂の際に経験したらしい。あるいはニーチェも。筆者も結構分かるが、しかしそれは全く宇宙体験を経由しないもので、おそらく神とは「つねにすでに」嘘と悪意の神であろう)
さて、ハーキムは結婚を延々と先延ばしし、最後には妹かつ王女セタルムルクは「兄弟」ユースフと共にハーキムを裏切り、ハーキムは弑される。
「ぼく」もまた、ドルーズ派の娘との結婚を考えた挙句「熱病で」逃げてしまうのだ。
ここに失敗への意志を見ることができる。「結婚」による完結よりも流動の余地/自由を選び、新たな物語へと接続するのだ。作家的都合の奥に何かあるような。
・「女神」の幻視。そもそも書くことは幻視することに他ならないのか? だとすれば
[朝の女王と精霊たちの王ソリマンの物語]
・旅行記中にコンスタンティノープルで伝え聞いたとして訳文169ページ分もの物語が挿入されるの、どうかしてるぜ。この作中作も新聞に載せたらしい。
・(神によって虐げられた)魔神に助けられること、地下、冥府下り、アダム以前、〈芸術家小説〉
・ネルヴァルは狂気と向き合った点で確かにランボーやシュルレアリストたちの先駆者だった。だがネルヴァルの場合、狂気は分け入っていくものではなく向うから襲い掛かってくるものだった。
・父親とフリーメーソン。ネルヴァルの父親がメーソンの一員だったこと。「ぼく」がドルーズ派の娘との結婚の際、一度は娘の父親に断られたが、メーソンの一員だと示すことで歓迎されたこと(ドルーズ派とメーソンには連帯があると設定されている)。
ここに東西を越えた一種の理想を見るとして、しかし結局「ぼく」が「熱病によって」婚約から逃げてしまうのはどう読むべきなんだ・・・?
・メーソン的な系譜学(縦への方向)、コスモポリタン(横の方向)。後者は国民国家化したメーソンには見られないもの。聖書の記述を強引に曲げていく(実際見てみるとやべーなと思う)。父親の取り換え劇。フロイトも指摘するような母の確実性と父の不確実性。「母親の不実な愛情」
・1841年3月。最初の発狂中に書いた「幻想的家系図」。父親の名前を解体していくことで歴史上の諸々の王と接続させる。あまりにステレオタイプな症状。
・さらに言えば作中作の「朝の女王と~」の主人公アドニラムはフリーメーソンの祖であり、したがって作中の「ぼく」の系譜を担う。やべーな。
・ネルヴァルが2歳のとき父母は戦場へ赴き、母は死んだ。父親だけが帰ってきた。ネルヴァルは父の医業を継がない放蕩息子であることへ罪悪感を抱いていたようだが、作品において態度は反転する。自らの運命を正すこと。ネルヴァルにおける空洞はここにある。
[帰還]
・「結婚か死を」 旅人は読者にそう約束したはずなのに、旅人の物語はいつしかアドニラムの物語になり代わられてしまった。旅人たる「ぼく」は物語から逃走する。
・覚醒と孤独。物語内物語(「カリフ・ハーキム」「朝の女王と精霊たちの王ソリマンの物語」)とちがって、「ぼく」の夜明けに「何者か」は居ない。
・書くことへの決意/旅行記の途絶=旅人の逃走? 快楽とは状態ではなく運動であり、必ずや失望が待っている。だから動き続けるしかない
・夜へ、夜へ、夜へ
夢へ、死の先へ。生きながらにして死後の世界に行くこと。
余談:細野晴臣と比較して
細野晴臣をある程度知っている人ならば、ネルヴァルとの比較もそれほど突飛に感じないはず。「ナチュラル・ハイ」になって制作されたトロピカル三部作、「Over The Top」とか言っていたフレンズ・オブ・アース(F.O.E.)を思い出せばよい。
[ネルヴァルと細野晴臣との共通点]
・「異国」への「逃走」:細野晴臣の場合、カリカチュアライズされた異国を敢えて引き受けている。
・狂人
・幻想と神秘主義
・無意識の天才
・「書くこと」への執着:ネルヴァルの「幻想的家系図」。F.O.E.期の細野晴臣が作った辞書順に神秘主義的な単語が並んだノート(1冊で頭文字「な-に」を消費するぐらいのペース)
この一致、偶然か?