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放棄稿:『可愛くてごめん』が流行った理由は? 調べてみました!

 

 結論から言うと、贖罪思想とメシア的なものへの祈りがよく描かれているからのようです。

 

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 以下、諸々の理由で頓挫したテクストを公開する。教訓は、「勢いで書ききるかよく調べてから書け」だ。本文4600文字。

 そのうち「私たちは《キリストのいない教会》をいかに建てる/壊すべきか? HoneyWorks『可愛くてごめん』からオコナー『賢い血』、デリダまで」みたいなタイトルでリライトするかもしれない。

 『ヒロインたるもの!〜嫌われヒロインと内緒のお仕事〜』のネタバレを含むので注意。

 

 

 

はじめに

 

 真面目に流行った理由を分析すると、まずシンプルで美しいメロディライン・ベースラインに音韻がガッチリはまっている感じ(つまり「普通に良い曲」であること)を挙げたい。次に歌っている早見沙織/かぴの萌え声。さらにアッパーでダンサブルな編曲*1

 これらの上に過激で煽情的な意味内容の歌詞が乗っているギャップが受けた、とひとまず整理できそうだ。

 

TikTok内ではメイクアップ動画での楽曲引用が多く、自己肯定感を高める楽曲の親和性が高い

可愛くてごめん - Wikipedia

 

「可愛くて」「あざとくて」などの自身の魅力に「ごめん」が掛かっている歌詞からは、ヒロインが謝罪の心を1mmも抱いていないのが、明瞭だ。そこから想像できるのは、自分自身を好きな主人公像。口ではごめんと言いつつも、実は鼻で笑っているようなあざとさが感じられる。[……]

また、実は上記のサビの結びの言葉には「ムカついちゃうよね?ざまあw」があるが、そこはTikTokでは切り取られていないのもポイント。全体の可愛い印象がダークな印象へと塗り替わってしまうほどのパワーがあるこの歌詞の引用をあえて控えることで、可愛さに注力したユーザーから表れているのは、紛れもない“あざとさ”だ。

(一部改変)

なぜ HoneyWorks「可愛くてごめん」はこれほどまでにバズっているのか、楽曲の独自性から浮かび上がってくる “あざとさ”|THE MAGAZINE

 

 ヒットソングの受容には複数の経路がある。HoneyWorksというクリエイターユニットはおおむね「10代女子に人気」らしいが、6860万再生(2023/5/18現在)された『可愛くてごめん』はTikTokユーザーに限らず、もっと広い層にリーチしたはずだ。その理由の分析は本稿の目的ではない(「よく分かりませんでした!」)*2

 例えば、次のような「生産的な誤読」(あるいは「真っ当な読み」)が行われている。

 

俺が「うっせぇわ」と「可愛くてごめん」を毛嫌いする理由と、そこから読み取れる現代の若者の劣等感

https://anond.hatelabo.jp/20230516125759

 

 先の引用でも「ムカついちゃうよね?ざまあw」が「全体の可愛い印象がダークな印象へと塗り替わってしまうほどのパワーがある」と評されていたが、このはてな匿名ダイアリーでは『可愛くてごめん』から「陰キャの復讐」を見出し、それゆえに受け付けないのだと結論付けている。

 

 陰キャの復讐、つまるところ「陽キャ」へのルサンチマン

 ルサンチマンといえば、ニーチェ善悪の彼岸』(1886年)であり、キリスト教における究極の価値転倒、贖罪思想(イエスの死は無意味なものではなく、人々の罪を贖い救済を可能にしたのだという主張)である。

 というわけでこの記事では、「罪と審判」「贖いと救済」というテーマで『可愛くてごめん』の歌詞を斜め読みしたいと思う。

 「罪と救済」が流行った理由だとは一ミリも主張しない(そんなわけがない)。ただ、これをテーマにしても歌詞は読めないことはない、という話をする。私は初見時「これって未だ果たせない贖罪についての曲?」と思ったくらいである。

 

 

 本論に入る前に一つ確認をしておこう。『可愛くてごめん』がキャラクターソングなことだ。

 メディアミックスシリーズ『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』(ボカロ曲が発端、2011年-)およびそこから派生したアニメ作品『ヒロインたるもの!〜嫌われヒロインと内緒のお仕事〜』(2022年4-6月)に登場するキャラクター「ちゅーたん」に当てて歌詞が書かれている。詳しくは次を参照。

ちゅーたん (ちゅーたん)とは【ピクシブ百科事典】

 

 例えば、サビの「Chu!」はこの文脈で理解することができる。

 また、「ちゅーたん」が「中村千鶴」というキャラクターの「もうひとつの顔」であることに注意したい。「ちゅーたん」は「中村千鶴」が自分を解放する(例えば「大好きなお洋服」である地雷系ファッションを着る)ためのペルソナなのだ。『ヒロインたるもの!』の物語は「ちゅーたん」がとあるアイドルを「推し」ている(それも「ガチ恋/リアコ」勢であり、かなりファナティック)ことが重要な伏線になっている。

 歌詞の「ダーク」さや「クサ」さの原因として、二重の演技(「ちゅーたん」の仮面をかぶっている「中村千鶴」の振りをして詞を書き歌うこと)からくる過剰性・戯画性は無視できない。

 

 以下ではキャラクターソングであること、およびキャラ性や物語性を補強するPVを、都合よく利用したり都合よく忘れたりする。

 

 

 

本論

 

 歌詞を長く引用するとJASRAC経由で記事が取り下げられたりする(経験済み)ので、必要なときに必要な分だけ引用する。歌詞の全文については次を参照されたい。

HoneyWorks 可愛くてごめん feat. ちゅーたん(早見沙織) 歌詞 - 歌ネット

 

 

ナルシシズム

 

 「私が私の事を愛して/何が悪いの?嫉妬でしょうか?」を聞いて最初に思ったのは、「自尊感情低すぎない?」ということだった*3

 「私」は自分を愛することを「悪い」ことだと思っており、過剰なパフォーマンス*4を通じて自分に言い聞かせるように自尊心を保っている。「嫉妬」を抱く第三者はそもそも存在しないか、存在したとしてそのあり様は歪められており、そういった認知の歪みを「私」は後ろ暗く了解している。

 

 『可愛くてごめん』の基本は反語的な解釈、というか暗く解釈することだ。

 「ぼっちだって/幸せだもん!」は幸せでないということだし、「可愛くてごめん」はルッキズム規範を内面化しつつ自分の可愛さに自信がないということだし、「生まれてきちゃってごめん」の中には存在論的な罪意識(原罪)が含まれている。「尊くてごめん」には(「ちゅーたん」はメイド喫茶で働いているためそこで客から「尊い」と呼ばれたりする、という設定が背景にあるのだろうか?)自分が「推し」とは違って崇高の対象に値しないという感覚がある。

 いや、流石に一面的にすぎる主張だが、少なくともこういった暗さが混ざっていることは否定できない。明暗半ばする二面性(「ちゅーたん」と「中村千鶴」の二人格が存在するように)、というのが素直な読解だろう。

 

 しかし我々は敢えて、暗い方向暗い方向に進んで行く。

 

 

装われた悪意、内面化された抑圧

 

 「ムカついちゃうよね?ざまあw」がとっかかりになる。ここには過剰なパフォーマンスに苛立つリスナーを更に挑発する(TikTokユーザーにすら切り取ることを許さない)という優れたメタ的デザインが含まれているのだが――挑発せずにはいられない/しなければならないのは何故? 

 「ざまあ」と聞いて筆者が連想するのは、レディコミ、『スカッとジャパン』、小説家になろうの「集団転移ざまぁ」「追放ざまぁ」「婚姻破棄ざまぁ」、アンチ・ヘイト二次創作あたりだ。これらは全て「断罪」の欲望が肥大化し、悪意が自己目的化している。復讐の相手はもはや誰でもよく、とりあえず説教をして気持ちよくなりたいと考えている。

 一方「ムカついちゃうよね?ざまあw」には、「ざまあ」という語が内包するこういった軽さ・猥雑さを利用しつつ、抑圧と戦っている感覚がある。ここにおいて「ざまあ」は快楽の追求ではなく、不快を避けるための装いだ。

 

 しかし、「私」は何と戦っているのか? 

 容易に指摘できるのは、「私」が抑圧的な規範をいくつも内面化していることである。それはロマンティック・ラブ・イデオロギーであり(『告白実行委員会』のコンセプト上避けがたい)、異性愛規範であり、ルッキズム規範であり、青春イデオロギーであり、「推し」との忠誠関係であり、「オタク」的な趣味を隠す規範であり、現実と虚構の境を曖昧にするヒロイン/アンチヒロイン規範である。

 「私」は具体的な「敵」を名指すことができない。

 

 そもそも「私」の世界において他者の存在は希薄だし、希薄にしようと努めている*5

 「痛いだとか変わってるだとか」書かれた匿名の「リプライ」は「届かない」――実際にその含意があるリプライが届いて防衛機制的に無視しているのか、リプライでなくともタイムラインにその手の投稿があったのか、最初から「私」の想像上の仮想的敵にすぎないのか。「陰口」も発話者が分からず「聞こえてくる」ことに特徴がある。

 『可愛くてごめん』のPVから確認できるものとして他に、メイド喫茶に来る「ご主人様」(『推し★ごと』)、「運命の推し」(『同担☆拒否』)、2番Bメロに出てくる「ナンパ男」がある。いずれも「属性」で管理されるような他者だ(「推し」については後述)。

 この系列で「家族の不在」に触れておきたい。もちろん、学生同士の関係性が中心の世界観で主題でもない家族に限られた歌詞を割く必要は全くないのだが*6、「私」の自尊感情の低さを考慮するとどこか不気味である。

 

 

エコノミー

 

 「ちゅーたん」の他のキャラソンでは明確に経済のテーマが扱われている。「経済回せ!推しを支援☆」(『同担☆拒否』)や「推し事頑張って貢ぐよ/需要と供給よ 文句ある?」「だって好きにはお金がいる」(『推し★ごと』)だ。恋愛は忠誠に置き換えられ、資本主義における商品になる。

 『可愛くてごめん』は経済のテーマが後景化し、「ごめん」という罪のテーマが現れる。しかしここで、罪のエコノミー*7を問うことができるだろう。罪と罰、罪と贖い、そして贖いと救済の交換である。

 

 

 ここら辺でHoneyWorksのフルアルバムを一通り聞き、また『ヒロインたるもの!』のアニメをチェックして「中村千鶴」の家庭環境が悪くない(少なくとも母娘関係は悪くない)ことを知って、筆が止まった。オコナー『賢い血』(主人公ヘイゼル・モーツは抑圧的な家庭で育ち過度に内面化したキリスト教規範を異様な形で表出する)が持ち出せない! 

 リライトするならキャラクターソング性やPVは全て無視する方向でやる(つまり私が贖罪思想と即座に結びつけたときの環境で)。

 

 

 

おわりに

 

 いかがでしたか?

 う、嘘すぎる……。「生まれてきちゃってごめん」一本で書きたかったのにどうしてこんなことに……。

 

 HoneyWorks『金曜日のおはよう』と近田春夫『金曜日の天使』を並べることが重要なのかもしれない。

金曜日の天使 - YouTube

 

 せっかくアルバム10枚聞いたので、HoneyWorksの曲の中で一番面白いものを紹介して終わる。

男の子の目的は何? feat. 高見沢アリサ(CV:東山奈央)/ HoneyWorks - YouTube

 

 

 

[reference]

 

HoneyWorks『可愛くてごめん』からYOASOBI『アイドル』まで(どこかアイドルめく人々と日々:視聴MVと雑感)|江永泉

 

孤高を往く修羅の曲【可愛くてごめん】歌詞考察。揺るがない「ヒロイン」の形を見よ|彼岸

 

 

 

[memo]

 

 

 崇高な他者

 「推し」の「尊さ」に見られる「メシア的なもの」(デリダ)。

 「推し」に見られる、疎外としての他者化と対等な人物としての他者化のバランス。ガチ恋のロマンティシズム。

 「推し」ではなく「追い」だとしたらどうか。入沢康夫『牛の首』における「不毛な恋情」。

だが、わたしたちは、わたしは、確実に年老い、花々は笑ひながら舞ひ去つて、夜々の真赤な空洞の底で行く千本の白い手が揺れてゐる。牛の首、牛たちの首に追はれ、また追はれ、あるいはまた、それらを追つて、わたしたちは、わたしは、大きな(しかしおそらくは、――否、絶対に、不毛な)恋情の中へと、ますます深くとらへられて行く。

(「牛の首のある七つの情景 7」)

 

 自分の趣味/ファッションがマイ宗教と化した現代。

 

 旧約聖書と『賢い血』とデリダをどう引用していくかが整理できていない。

 

 21世紀は萌え声の世紀だ

 

 中高生向けにこういう曲作りまくってて狂わないのかな。

 

 

フラナリー・オコナー(著)、須山静夫(訳)『賢い血』(筑摩書房、1999年)

 

 石を靴に詰めて歩き回るという自傷 ―― リスカは贖罪になり得るか?

 

 

並木浩一・荒井章三(編)『旧約聖書を学ぶ人のために』(世界思想社、2012年)

 

この精神から言えば、逆にヤハウェを棄てることは、神との間の「わたし」と「あなた」という人格関係を棄てて、神とは別の何かあるものを「自分のために」神として据えることになる。絶対服従命令ではない十戒は、このように、聞き手である人間の応答を待つ神を語っているのである。(p247)

 

この編集者は、メシアを現在と遊離した単なる将来の棚ぼたに終わらせず、むしろ現実の社会にすでに生きたものであるという知見を開いた。すなわち、社会生活が生き生きと成立するためにはお互いの罪を負い合い、強い者が弱い者を助け、弱い者が強い者の犠牲となって、それぞれ代わりの贖いをし、その極点においては「命を注ぎ出して死に至る」(イザヤ53:12)ことも起きなければならない。(p122)

 

 贖罪とメシアは新約聖書のみに現れるのではない。審判/義と救済/愛の弁証法としての贖罪は第二イザヤ書にすでにみられる(イザヤ53:2-4,11-12)。発展的加筆によりそれは、将来のもの(イザヤ52:14,15, 53:2-10,12)ではなく現在のもの(イザヤ52:13,14-15, 53:1,10-12)となる。

 

彼には威容なく、また我らの見るべき輝きもなく、

また我らの慕うような美貌もなかった。

彼は蔑まれ、人々に見捨てられ、

苦しみの人、病になれた者であった。

顔を背けられる者のように蔑まれ、われらも彼らを顧みなかった。

まことにわれらの病を、彼こそが負い、

われらの苦しみ、それを彼は担ったのだ。

[……]

その生命の艱難辛苦の後、彼は見るだろう。

彼は知ることで満足するであろう。

義なるわが僕は、多くの者たちを義とし、

彼らの罪を、彼こそが担うであろう。

それゆえ、わたしは、多くの者たちを彼に分け与え、

そして強い者たちを、彼は分捕りものとして分かち取るであろう。

彼は自らの生命を注ぎ出だして死にいたり、不義の者たちの中に数えられたからである。

彼こそは、多くの者たちの罪を負った。

そして不義の者たちのために、執り成しをするであろう。

(イザヤ53:2-4,11-12)

 

 

高橋哲哉デリダ 脱構築と正義』(講談社、2015年)

 

 レヴィナスデリダと続く、責任(呼びかけ-responsibility)の概念。責任なき罪。

 言語と信仰について

 

絶対的に忠実であるためには、絶対的な沈黙を守らなければならない。(p238)

 

 イサク奉献物語(アブラハムが神から与えられた子イサクを神の命に従い生贄にする話)について。あなたは大切なものを捧げなければならない。あなたは不可能なものとしての責任を果たさなければならない。あなたは呼びかけに答えなければならない。あなたは決定不可能性のなかで決定せねばならない。アブラハムの宗教に限ったことではない。

 

アブラハムの行為が「まったき他者」への贈与となるのは、彼がイサクの上に斧を振り下ろすその瞬間に、イサクを愛しながら裏切ること、倫理的義務を再確認しながらそれに違反することによってのみなのだ。(p239)

 

 「この時代生きててごめん」 ← 「The time is out of joint.」(p260、マルクスが引用した『ハムレット』)。

 亡霊の回帰。あるいは「ちゅーたん」が仮面のペルソナであること。

 

「メシア的なもの」とは、脱構築における「他者の到来」としての「正義」の経験の別名にほかならない。では、なぜ「マルクスの亡霊たち」なのか?(p261)

 

 メシア的なものは現前しない、つねに「約束」されたままである。それは未来に開かれたままである。「来なさい」

 約束なき世界こと「可愛くてごめん」。いやしかし他者はつねに

 

 

 エグくて距離がとれてる面影ラッキーホールとか聞くといいんじゃないですかね。

 

 高橋徹也

 

 

 

 

*1:チャラさの方向性がボカロPっぽくないのが面白い、という有識者の指摘があった。

*2:「~だから流行った」といった因果論的なヒットソング分析は後付けでしかない。いくら「流行る」デザインが施されメディア戦略が行われようとも、実際の普及のプロセスにおいて偶然性を無視することはできない。

*3:事後的な分析として「i」による奇数拍目の押韻を指摘しておこう。つまり、「わたがわたの こをあいて ながわるの しとでしょーか」。HoneyWorksらしい巧みな押韻、あるいはリズムの「どっこいしょ感」によって、意味的な暗さは回避されるのかもしれない。

*4:単体で聞いてると過剰に聞こえるが、他のHoneyWorks曲と比較すると特異なリアリティラインではないことが分かる。我々は曲のメインターゲット層ではないことを意識しつつ読解(誤読)を進めるべきだろう。一方で、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを後景化するなど明確に「当てに」行ったであろう『可愛くてごめん』において、未だ過剰なパフォーマンス性を保っているデザイン上の意図を問うこともできる。

*5:PVやバックストーリーを参照すれば分かるように「放課後全力3人娘」(『東京サニーパーティー』)の連帯があるわけだが……逆にそれしかないという感じもする。「私」は「ぼっちだって/幸せだもん!」と唱えなければならない。

*6:『可愛いねって言われちゃった』では一応「パパ」「ママ」が出てくる。

*7:このテーマは以前使ったものの再利用である。

狂える母――オースティン『高慢と偏見』論 - 古い土地