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数学の歴史

 

耳は少しずつ形作られてゆく。三世代か四世代の間に、ある民族の器官が変わってしまうのだ。今から150年も経てば、あなたはきっと私が正しいことが分かるでしょう。

ヴォルテール、1735年)

 

 本稿は数学史を12000文字程度で概説したものである。あまり具体的な定理や人名は出さず、数学外の思想史や外的な制度史、社会史を意識しながら書いた。いわゆる「数学を志す人のための数学史」ではない(付録は除く)。字数の関係で紹介する数学文化の数は絞った。記述は主に[佐々木]に基づく。

 

 

 

ギリシャ数学

 

 メソポタミア・エジプト・インド・中国の古代四大文明では、それぞれ文明を支えるための自然科学が発展した。基礎的な算術であり、計測のための幾何学であり、天文学である。

 これらと比べれば、ユークリッド『原論』(前3世紀頃)に代表されるギリシャ数学の特異性は際立つ。公理(『原論』の言葉では「要請」)を用いた厳密な論証だ。

 厳密性が結局のところ哲学や懐疑主義からの論難に対する防御手段であったこと、また最古の自然哲学者タレスが同時に数学者であったことに注意したい。ギリシャ数学の異様さを突き詰めていくと、アゴーンと呼ばれる競争文化や各種思想を育んだ、古代ギリシャの異様さに辿り着く。数学に限って言えば、ギリシャ数学が伝承されなかった地域で公理を導入するほど厳密な論証を行う数学文化が生まれたところは、歴史上1つもなかった。これは結局、私たちの厳密性や論証の基準がギリシャ由来であるというだけだが。

 

 ギリシャ数学最大のスターはアルキメデス(前287?-212年)だろう。たくみな論証と無限小幾何によって放物線を求積したのが代表的な功績である。彼にあやかって近世ヨーロッパには「〇〇(国の名前)のアルキメデス」が大量に出現した。アルキメデスが彼の名がついた原理を発見したとき風呂出の裸で叫んだという「ヘウレーカ(ηὕρηκα!:私は発見した!)」の言葉を、18-19世紀のガウスは何か大きな発見をするたびメモに書きつけていた(ガウス以外にも「ヘウレーカ」愛用家は多い)。家にローマ兵士がやってきたのに数学のことを考えていたら死んだという伝説も、近代における数学者規範の形成に影響していそうだ。

 

 他に説明しておくべきギリシャ数学の特徴は、数学が崇高や美の観念と結びついたこと。ギリシャ本土から離れた南イタリアに本拠をもったピュタゴラス教団、その数神秘主義は、まちがいなく異端セクトだった。しかし彼らが前5-4世紀頃先進的な数学を持っていたことが、なにか歴史をゆがめている*1

 ピュタゴラス教団の影響がどれだけあったかは定かではないが、プラトンが創立したアカデメイアの門には「幾何学を知らぬ者, くぐるべからず」と書かれた。プラトン自身は哲学をこそ尊び、数学は哲学教育の手段と思っていたようである。しかしルネサンス以後ヨーロッパの数学者たちは、新プラトン主義から数学にプラトン的実在=イデアを見出したり、自身の価値づけに新プラトン主義を利用したりした。その背景にはアリストテレスプラトンより数学に対し辛く、後にアリストテレス的論証を採用した中世ヨーロッパ大学はさらに数学に対し辛かったことが影響している。哲学も数学もキリスト教神学に従事するものとみなされた。アラビア数学およびアラビア語訳のギリシャ数学が入ってくる12世紀までのヨーロッパ数学に、なにかしらの「進歩」を即座に引き出すことは難しい。失伝と忘却と再生産は数学の歴史を語る上で重要なモチーフである。

 

 

アラビア数学

 

 さて、ギリシャ数学は全体的には算術的というよりも幾何学的だった。これがどんどん算術化していくのがギリシャ以降の数学の展開と言える。特に幾何学も算術の言葉で書き換えられていく。書き換えもまた数学の歴史を彩る重要なモチーフだ*2

 

 8-12世紀に興隆したアラビア数学にはいくつか根がある。1つはユークリッド『原論』などのアラビア語訳を通じて入って来たギリシャ数学。もう1つはシリアやペルシャで育まれた土着の数学。最後は、数0の導入によって圧倒的に簡明かつ強靭になったインド計算術である。これらをもとに、無記号数学の最高到達地点と言えるアルジャブル技法(アラビア語al-jabr「移項する」。algebraはそのラテン語訛り)が形成された。

 そう、アラビア数学においてたしかに代数学の思想が育まれ実践されたのだが、記号の助けなしに行われたと聞くと、記号数学に染まった現代の私たちにはどういうことなのか想像しがたい感じがある。9世紀のアル=フワーリズミー*3に始まり、12世紀のウマル・ハイヤー*4による3次方程式の実数解の個数の分類も、アッ=トゥシーによる三次方程式の重解の研究も、本格的な記号抜きで行われた。

 また代数学の発展に不可欠だったのが解析の思考であり、そのため代数解析学とも呼ばれる。ここでいう「解析」とは18-19世紀に成立した複素解析などのいわゆる解析学とは関係がなく、問題解決のスタイルに関連するものだ。演繹・総合 vs 帰納・解析という軸によって整理できる。

 ユークリッドの『原論』は、前提があったときそこから一つ一つ積み上げて結論に辿り着く演繹・総合スタイルを専らとっている。しかし実のところ、ギリシャ数学は演繹・総合に尽きるのでない。結論が成り立つと仮定してそこから「積み下げ」て前提に遡る帰納・解析スタイルによる問題解決も、ギリシャ数学の伝統にあった。

 解析の思考法はアラビア数学の代数的解法において本質的である。求める未知数(ときに幾何学的量)をまずxとおき、そこから諸関係を利用してxに関する代数方程式を立て、方程式を解いてxを導出する、という過程は、演繹・総合だけでは説明しがたい。

 

 

15-17世紀:ルネサンス~科学革命

 

 イスラーム世界が8世紀のルネサンス(復興・模倣)から15世紀のスコラ学(オスマン帝国の台頭)に向かったのに対し、ヨーロッパは中世のスコラ学から15世紀のルネサンスに向かったと言える。

 15-16世紀ルネサンスから17世紀科学革命までに起こったパラダイムシフトを数学に限らず包括的に理解することが、数学史を編む上で必須事項になる。しかし包括的理解など筆者もしていないので、以下では数学に関する部分に記述を限定する。

 

 まず述べるべきは、記号代数(記号というメディア)の興隆だろう。12世紀以降、インド計算術がまず商人の間で広まり、次に無記号代数としてのアラビア数学が摂取されるようになった。そこから忘れられたギリシャ数学の古典、たとえばユークリッド『原論』も掘り起こされた。アラビア数学の算術化の傾向に関しては、ディオファントス『数論』(3世紀頃)の発見によって「ギリシャ時代から代数学はあった。アラビア数学はディオファントスのラインでやっているだけだ」と受容されたようである。

 代数学を指して「グーテンベルク数学」と呼んだのは、数学史家でも数学者でもないメディア論者のマーシャル・マクルーハンだった。このキャッチーなフレーズはしかし、決して的外れではない。記号代数はたしかに活版印刷の上に築かれており、活版印刷が変貌させたテクストの一部分として数学はある。

 具体的に「代数解析言語」をつくったのは、ヴィエト、フェルマーデカルトといった人々だった*5。「ギリシャ幾何学は個々別々の図形の生成の仕方を中心とする幾何学的「特性」を基礎とする図形の考察であったが、フェルマーデカルト、とりわけデカルトによって、次数に拘束された代数方程式による図形の研究へと幾何学の基礎が抜本的に変化した」([佐々木] p.418)。デカルトによってようやく  a_n x^n の記法(係数の記号化と累乗の記法)が可能になったし、代数方程式に対するグラフの作成(代数の幾何化)も始まった。

 ただし、算術化の傾向はすぐに進行したわけではない。17世紀には「フランスのアルキメデスパスカル*6、イタリアのガヴァリエリやトリチェリ、「オランダのアルキメデスホイヘンスといった、代数解析に対抗した優れたアルキメデス的総合幾何学者がいた。彼らは無限小幾何で微分方程式(逆接線問題)まで解いてしまった。微積分の基本定理(微分積分が互いに逆の操作であること)を、「幾何的」に理解していたのである。しかし決して  \partial ^{-1} = \int といった代数的作用素の形では理解していなかった。

 

 17世紀末に起こった微積に関するニュートンライプニッツの不毛な先取権争いはよく知られている。「ニュートンは『プリンキピア』(1687年)により力学を創始するという偉大な仕事をしたが、微積分に関しては幾何的な記法を用いたため、ライプニッツの代数的記法に負けた」という見立ては、間違ってはいない。だがコメントがいくつも必要である。

 実のところニュートンは学生時代(1660年代)、きわめて優秀な代数解析者だった。幾何への転向の理由はいくつもある。①哲学的に傾倒していたデカルトへの失望。②運動学を記述するにあたって幾何の方が都合がよかったから。③微積分において極限操作が必須だが、アルキメデス的な無限小幾何の方が無限小代数解析よりずっと厳密に思われたから。現代からすれば  \epsilon - \delta 論法を使わない限り厳密性に大差ないだろと思ってしまうが、ライプニッツの記法で書くとあからさまに  0/0 が出てくるイヤな感じはある。

 一方ライプニッツの数学は、ロピタルに「カバラ的科学」と呼ばれてしまうくらい危うかったらしい。ライプニッツを擁護したベルヌーイ-ロピタルの『無限小解析』(1696年)のおかげで彼の微積分は普及した。ただし微積分の根本的な危うさは19世紀まで宙吊りにされたままである。

 

 15-17世紀における数学の地位向上に触れておこう。ガリレオは次のように述べている:「哲学は、眼の前にたえず開かれているもっとも巨大な所(すなわち、宇宙)の中に書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり、理解できません。その書は数学の言語(lingua matematica)で書かれており、その文字は三角形、円その他の幾何学的図形であって、これらの手段がなければ、人間の力ではその言葉を理解できないのです。それなしには、暗い迷宮(oscuro laberinto)を虚しく彷徨うだけなのです」(ガリレオ『贋金鑑識官』1623年 [佐々木]pp.436-437)。

 またこの時期、軍事技術の進展(国家理性の出現)を背景にして、大学で数学者が専門職業化した。ただ研究者というよりは教育者に近い立場だったらしい。数学研究の担い手は12-14世紀には商人であり、17世紀には法律家などのエリートアマチュアであり、18世紀には科学アカデミー会員であり、19世紀の市民革命を経てやっと大学教授になる。

 軍事・国家との関わりについて、大陸側の微積分の創始者ライプニッツが暗号解読の名手として活躍したことは、彼の「普遍数学」「モナド」といった抽象的思索とあわせて記憶されるべきだろう。また彼が30年戦争で荒廃したドイツに生まれたことも。

 暗号(cipher:アラビア語で「ゼロ」)の発展が代数(algebra:アラビア語で「移項」)の発展を裏から支えていたという読みは面白い。

 

 

18世紀:啓蒙の時代

 

 数学史の記述が厚くなるのは思想的な問題が起こっている時代である。『百科全書』の数学者ダランベールは、数学の中でも代数学幾何学、力学を「より単純なので、先立つべき」とし、その中でも代数学を1番とした。このように17世紀の代数解析が具体的に展開されたのが18世紀とひとまず言うべきで、そうなるとあまり書くことがない。

 

 この時代のスターはレオンハルト・オイラーである*7。彼は哲学者としては独創的でなかったし、直接数学の思想をつくったわけではないが、問題解決能力と問題生産能力は凄まじかった。「オイラーの代数解析的数学の多産な想像力の秘密は、その数学的思索力を、代数関数だけではなく、初等超越関数をも射程に収め、それらを無限級数に展開し、複素数を媒介させ、代数解析表示を許容する多くの領域を縦横に駆け巡らせることによって、有限実数の組み合わせだけでは想像もできなかったエレガントな式を多数導いていることにある」([佐々木]p.521)。無限と戯れその美しさを知らしめた人、解析的整数論の開祖、グラフ論の先駆者、膨大な著作を通して「代数解析とはオイラー流のことである」という規範を作った人、etc。

 なお関数を定義したのは『無限小解析入門』(1744年)におけるオイラーである。微積分学の発展とともに、無限小代数解析から「解析学」が独立していくさまが読み取れる。

 

 もう1つ触れておきたいのは、ラグランジュ解析力学である。少年時代のラグランジュオイラーの主要著作をほとんど暗記していたという(このようにオイラーの教科書で学んだ人はこの時期多い)。ラグランジュの『解析力学』(1788年)は、ニュートン力学ライプニッツ式に書き換えることで古典力学体系を完成させた。オイラー-ラグランジュ方程式など変分法に関する研究でも知られる。

 なお今日ニュートンの第2法則として知られる  F=ma は、実際にはオイラーの1750年の仕事らしい。代数解析のパワーととるべきか、幾何学の限界と思うべきか。皮肉である。

 

 

19世紀:市民革命

 

 19世紀。第二の科学革命。近代市民社会の出現。

 この時代において幾何学的思考がついに後退し、Arithmetik(数論)・Algebra(代数学)・Analysis(解析学)の3つのA(ゲッティンゲン学派のクライン)が数学の中心となった。無限小解析の厳密化に始まり、代数方程式論の研究から抽象代数学が興って、ユークリッド幾何学が問われる。そうして抽象化の果てに生まれた集合論や形式論理は、20世紀の形式数学を予期した。

 

 市民革命(1789-1795年)から1830年頃まで、数学の中心地はフランスだった。ここでの解析学の発展を見てみよう。

 エコル・ポリテクニクと呼ばれるエリート技師教育機関では、化学や物理学と並んで解析学が最も強調された。また研究者の所属が科学アカデミーから大学に移っている。このような状況で、多くの人に教育するという量とコミュニケーションの問題が、ようやく解析学を厳密化させたのかもしれない。より直接的には、フーリエ級数展開など三角関数の無限級数に関する問題が議論を巻き起こした。

 王政復古体制の下で自然科学は、ラプラス的な決定論からフーリエ的な現象論に転換している:「熱の本性については不確実な仮説を立てえるだけであるが、その結果が従わせられている数学的法則の認識は、全仮説から独立である」(フーリエ『熱の解析的理論』1822年 [佐々木]p.575)。古典力学が脇に置かれ、フーリエの熱力学以外にもコーシーの複素解析、フレネルの数理光学、アンペール電磁気学が並行し、実験物理学と連携しながら数理科学は新たな段階に入る。科学帝国主義の根もこの辺りにある。

 なお、解析学の厳密化は誰かひとりの仕事に帰することはできない。ボルツァーノやコーシーの1810年代の仕事( \epsilon -  \delta 論法はコーシーの1823年の著作に由来)、1860年代のリーマン、1870年代のワイエルシュトラス、19世紀末のカントール。時代のトピックだったと言えよう。

 

 1830年代以降のドイツ数学は、カントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論から生じた「純粋数学」思想の下にあった、19世紀前半最大の数学者ガウスが「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である」と述べたことは印象的である。

 ガウスオイラーと同様に、直接思想を形成したわけではないが、本当に多くの数学を手掛けた人である。平方剰余の法則による代数的整数論電磁気学微分幾何学、etc。ただオイラーと違い、論難を避けるため結果の多くを生前発表しなかった。それにもかかわらず非ユークリッド幾何学の発見者ヤーノシュに「それ発表してないけど自分が30年前に見つけた結果」などと言ってしまう、嫌味なやつだった*8

 ヤコビという人は楕円関数に関する功績のみならず、ドイツ近代大学の純粋数学研究競争というゲームを「数学-物理学セミナール」として始めた点で重要である。実験物理学との連携を前提として分業が可能になった。

 

 ロバチェフスキイやヤーノシュといった非ユークリッド幾何学の発見者は、今日ではほとんど顧みられることがない。ガウスによる微分幾何学の創始(曲面形式やガウス-ボンネの定理)の方が数学者にはよっぽど記憶されているだろう。ユークリッド『原論』における第5公理「平行線の原理」が必要かどうかは2000年来の問題だったにもかかわらず、である。非ユークリッド幾何の発見はユークリッド幾何の価値が薄れたからこそ可能になった、ということなのだろう。

 

 19世紀後半最大の数学者はリーマンと言える。彼はガウスやディリクレに次ぐゲッティンゲン学派だったわけだが、哲学的にはカントに対抗した「弁証的実在論」のヘルバルトに私淑し、多様体概念もその影響下にある。

 ベルリン学派のクンマーやワイエルシュトラスクロネッカー代数学解析学をより抽象的に推し進めた。リーマン没後(1866年)から1890年頃まではゲッティンゲン学派よりも強かったらしい。ベルリン学派は物理学と関わらない「純粋数学」を標榜した。

 ベルリン大学がドイツ・ナショナリズムの拠点であったことは注目されるべきだろう。この時期、古典文献学よりも純粋数学の方が新人文主義に相応しいと思われていたようなのだ。集合論カントールや現象論のフッサール(もともと数学基礎論の研究者だった)が出てくるのもベルリン大学である。

 

 さて、数学の対象は「数と図形」だと言えたのはガウスまでのこと。解析学代数学幾何学も高度に発展した19世紀末において、デデキントの実数論、カントール集合論フレーゲの形式論理によって抽象数学のパラダイムが準備される。

 カントールについて面白いエピソードを紹介しよう。集合論が普及するためにはギリシャ以来の「無限の恐怖」を軽減する必要があった。そのため、反ギリシャとしてのキリスト教を彼は持ち出す:「カントル自身、ローマ教皇が自らの集合論支持を打ち出してくれるように期待し、また反対にレオ十三世はカトリック信仰増進の手助けとしてカントルにおおいに期待した」([佐々木]p.644)。

 

 以上、いささか断片的に19世紀の数学を眺めてみた。17-18世紀の算術化の次に起こった19-20世紀の抽象化というモダニズム傾向は、どう思うべきだろうか。抽象絵画、抽象音楽の時代の抽象数学である。

 

 

 

20-21世紀

 

 数学史的に「思想を作った」ことに着目すると、やはり数学基礎論から話を始めなければならない。

 

 ゲッティンゲン学派のヒルベルトは『幾何学の基礎』(1899年)において、形式的公理論によるユークリッド幾何を展開をした。ユークリッド『原論』における公理は、幾何という1つの実体あるものを防御的に論証するための手段であった。対してヒルベルトは、もはや幾何という実体を信じてはいない。あるいはユークリッド幾何がどのようなモデルで実現されても通用するよう言語を組み立てている。有名な「机と椅子」の喩えはもしかしたら、「集合」というそれ単体では抽象的すぎてナンセンスですらあるものを指しているのかもしれない。

 ヒルベルトを中心とする人々によって数学の基礎への考察が進み、数学がより抽象的な言語で書き換えられていった。同時に『数学の諸問題』(1900年)における23の問題群が数学者を鼓舞した。なお忘れがちだが、ヒルベルトは形式や思想を作るだけでなく問題解決能力も高かった人である(ヒルベルトの定理90、ヒルベルトの零点定理、ヒルベルト空間、etc)。

 有名なヒルベルトの無矛盾性証明のプログラムは、同じくゲッティンゲン学派のワイルからの論戦に対応する形で始まった(この時期のワイルは「形式主義は数学を式のゲームに堕する」と考えブラウアーの直観主義に接近していた)。これがゲーデル不完全性定理によって不可能なことが形式的に示されたのはよく知られている。ちなみにヒルベルトの有名な「我々は知らなければならない。我々は知るであろう」発言の直前で、ゲーデル不完全性定理の最初の報告(1930年9月7日)が行われていた。

 数学を本気で基礎づけたいのなら、自然言語によるしかない*9。以降、数学基礎論は数学の基礎付けという当初の目的を離れて独自の方向に進み始める。たまに基礎論の外に応用されたり(モデル理論による幾何的モーデル-ラング予想の解決)、有名な命題が証明も反証もできないことが示されたりする(ヒルベルトの第10問題:ディオファントス方程式の整数解の判定法)。

 

 1920年代、エミー・ネーターという優秀な先導者のもとゲッティンゲン大学では抽象代数学が花開いた。しかし1933年以降のナチス政権下で「数学のドイツ離れ」が起こる。アインシュタインやワイル(妻がユダヤ人)やノイマンといった人々がプリンストン高等研究所(1933年開設)に移籍したことで、数学の中心地そのものがアメリカに移り替わった。

 アメリカは数学の教育も実働も盛んだったが、この時代の思想を作ったのはフランスの数学者集団ブルバキと言うべきだろう。7000ページにも及ぶ『数学原論』は集合論の上に現代数学を厳密かつ公理的に打ち立ててみせた。「読むのになんの予備知識もいらない」という謳い文句は有名である。「定義・定理・証明」という今日の数学書のスタイルを作り上げたのもブルバキだ。

 ブルバキ構造の言葉によってよく紹介される。まず集合があって、その下に位相があって、環構造があって……といった階層の図式。あるいは構造に対してモデルは複数あり得ることの認識。これらは非常にブルバキ的なものだ。ブルバキに在籍していたヴェイユが人類学者レヴィ=ストロースに部族の婚姻関係から群論のモデルを与えたように、現代思想構造主義と同時代的な現象だと言うことは許されるだろう。

 「外部の構造によって内部が決定される」という従来の構造主義を推し進め、「外部の構造だけ見ていれば数学はできる」というきわめてラディカルな立場をとり、圏論の言葉と発想で代数幾何学を一気に書き換えたのは、1960年代のグロタンディークである。現代数学 A_{\infty} 圏や  (\infty , 1) –圏などより難しくなっているが、抽象化について思想的にグロタンディークより難しくなっているということはない。パラダイムは継続している。

 

 メディアという点ではコンピュータは欠かせない。今日では情報科学として分離しているが、開発過程ではチューリングノイマンといった数学者が関わっている。1960年代以降、大規模な数値計算がしばしば「純粋数学」の考察を助け、ときには定理の証明までもが託されたりする(有名な4色定理の証明は1976年。最近は定理証明支援系言語Coqが普及している)。そうでなくとも、数学者は組版システムTeXで文書を打ち、1990年代以降の論文は基本的にArXivでフリーアクセスできる。コンピュータは新世紀の思考様式をつくるだろうか。

 ノイマンの名を出したのでついでに言及しておくと、彼は中年の危機を経験したあと原爆の開発に関わったことでも有名である。今日ますます数学(より直接的には情報科学)は軍事産業において重要になっている。そのため、少なく見積もってもあと30年は、なんらかの形で数学というものは続いていくのだろう。

 

 

おわりに

 

 1970年代以降の数学はブルバキ的方法論とブルバキ的教育の反省から、全体的に言えば具体寄りの傾向になっている。正直に言って、ポストモダン世界において数学(者)の近代性がどう変容適応しているのか、あるいはしていないのか、筆者は掴みかねている。

 

 具体寄りで挙げておくべき分野(ないし傾向)は、1980年代の共形場理論や格子模型や超弦理論以来続いている、数学と物理が融合した「何か」だろう。

 共形場理論や格子模型は、物理的にも正当な理論と言える。ただ、究極の統一理論を目指して建設された超弦理論は、なにかがおかしかった。実験で検証できる物理的予言を何も残せなかったのである。

 

 いま超弦理論を振り返ると、数学側からの意見になるが、物理ではなくもっぱら数学に貢献した理論という感じがする。エンタングルメント・エントロピーのホログラフィックな導出(笠-高柳公式、2006年)でやっと従来の物理学に貢献したと言えるだろうか。数学に関しては、ミラー対称性を始め多くのものを与えてくれた。しかし物理的な探究が落ち着いた今、「物理学者が数学的に謎の方法で予言して数学的証明が後付けできた良さそうな定理」が結局何だったのか、よく分かっていないまま放置されているように思う。

 ちなみに3次元や4次元の超対称性場の量子論に関連して、現在進行形で「物理学者が数学的には謎の方法で予言して数学的証明が後付けできた良さそうな定理」は増えている。そして、超対称性も現実にはなさそうだというのが最近の実験物理学の雰囲気である。理論物理学者はどういうモチベーションで何をやっているんだろうか。

 

 また別の具体寄りの分野として、表現論と呼ばれるものである。これは19世紀末にフロベニウスが有限群上の指標と呼ばれる関数を考えたのをきっかけに始まり、1970年代以降拡大を続けてきた。上で述べた数理物理からも新しい代数構造と表現論がポンポン見つかっている。オイラーの時代が戻って来たかのような百花繚乱の博物学的具体性だ。

 というわけで、『表現論の歴史』に続く。本稿は元々、『表現論の歴史』のために書かれた一節だった。

 

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付録:諸概念の定義と普及の時系列

 

線形代数:ベクトル空間やスカラーの定義はハミルトン(1846年)に萌芽が見られる。狂的な19世紀の4元数熱は、線形代数はもとより多元環研究にも影響した。公理的定義はペアノによる(1880年代)。「行列」の名付けはシルヴェスター(1850年)。

 

群:ガロアの遺稿(1831年)はリウヴィルが最初に発掘し公表した(1846年)。群の定義はケイリー(1854年)に萌芽が見られ、クロネッカーが可換な場合のみ定義し(1870年:アーベル群の基本定理)、ヴェーバーが一般有限群を1882年、無限群を1893年に定義した。ヴェーバーの『代数学教科書』(1895-96年)は群概念の普及に一役買っている。集合論に基づいた定義はド・セギエ(1904年)、無限群はシュミット(1916年)。 

 

ガロア理論デデキントが1855-57年に講義したが本にはなっていない。ジョルダンの大著『置換と代数方程式論』(1870年)によって広く普及した。現代的にはアルティンの著作(1938年)で知られる。

 

体:ディリクレの講義ノート1871年)に始まり、抽象的定義がヴェーバー1893年)、抽象的な研究はシュタニッツ(1910年)。

 

環:名付けはヒルベルト『数論報告』(1897年)、抽象的定義はフレンケル(1914年)。環論は20-30年代抽象代数学の花形だった。ファン・デル・ヴァールデン『抽象代数学』(1930-31年)はネーター門下の有名な教科書。

 

圏:マックレーンとアイレンバーグ(1942年)。代数的トポロジーから。

 

位相:1900年代ポアンカレトポロジー研究とフレシェの関数空間研究を経て、ハウスドロフ『集合論の主要特徴』(1914年)で一般的な位相空間論が始まる。再版したハウスドロフ『集合論』(27年)とネーターの薫陶を受けたアレクサンドロフ-ホップ『トポロジー』(1935年)で位相関係はだいぶ整理された。

 

多様体:ワイル『リーマン面』(1913年)で1次元複素多様体を定義したのが初出。位相多様体の定義はクネーザー(1926年)、可微分多様体の定義はヴェブレン-ホワイトヘッド(1931-32年)。1931年までにド・ラームの定理を含む多くのトポロジー微分幾何学の結果がすでに知られていたことに注意*10

 

 

[reference]

 

高木貞治『近世数学史談』共立出版、1933年

村田全・清水達雄(訳)『ブルバキ数学史』東京図書、1970年

『現代数学の流れ 1・2(現代数学への入門)』岩波書店、1996年

佐々木力『数学史』岩波書店、2010年

Victor J. Katz(著)、上野健爾・三浦伸夫(監訳)『カッツ 数学の歴史』共立出版、2005年

B. L. van der Waerden(著)、加藤明史(訳)『代数学の歴史―アル‐クワリズミからエミー・ネーターへ』現代数学社、1994年

 

 

*1:倍音の整数比に関連してギリシャ世界に聴覚神秘主義を持ってきたことも付け加えておく

*2:なお、算術化の傾向をすべて歴史的偶然と言ってしまえるのかは判断が難しい。算術化とはギリシャ数学の特異性が均されていく過程にも見える。

*3:Al-Khwarizmiの名は12世紀ラテン世界に入ったあと忘却される。algorisimusは「インド式計算法」を意味する普通名詞になり、17世紀のライプニッツなどはギリシャ語由来と勘違いしてalgorithmusと書き記した。これが今日algorithmと呼ばれる語の由来である。

*4:ルバイヤート』を書いた詩人と同名でふつう同一視されるが([Katz]など)、数学史家のロシュディー・ラーシェドによればおそらく違うとのこと。

*5:それらの前にペトルス・ラムス(Petrus Rams)という、今日で言う「チャート式教科書」を作った怪しげな数学的・思想的扇動者がいた。

*6:パスカルデカルトと数学的にも哲学的にも対立していたことは興味深い。市民革命以降も哲学と数学の交感は大いにあるのだが、両方で名を馳せる人はほぼいなくなった。20世紀初頭のヒルベルトやブラウアーがギリギリ最後だろうか。ワイルや岡潔文人でもあったが一流の思想家とは言えないだろう。なおパスカルついでに、彼がフェルマーと書簡をやりとりする中で確率論が生まれたことを述べておく。

*7:[佐々木]は近代西欧数学者の最高峰をニュートンガウスオイラーの順にあげた([佐々木]p.788)。このうち前2人は性格の悪そうなエピソードが山ほどあるが、オイラーは中々快男児という感じがする。

*8:手掛かりは得ていたようだが、ガウスのメモにちゃんと非ユークリッド幾何を構成した痕跡はない。

*9:ヴィトゲンシュタイン数学基礎論に影響されて「言語ゲーム」を構想した。基礎付けは終わらないが「基礎づけられない行動様式、それが終点」とみなす。言ってしまえば形式主義への居直りである。

*10:Timeline of manifolds - Wikipedia