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暗い穴

入沢康夫論2-3:『わが出雲』と世界への帰還の許容(下)

 

 とりあえず提出するが、後で手直しするかもしれない。今は草稿の全容を見通せない。盲いた唖はその表面を撫でるだけ。

 

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入沢康夫『漂ふ舟 わが地獄くだり』(1994年、思潮社

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 浮きつつ遠く永劫の、魂まぎ人が帰ってくる。

 帰ることができる。

 帰ることを要請されて。

 

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容であり

――入沢康夫「季節についての詩論」(1965年、錬金社)

 

 

 

 

 

どこへ どこへ どこへ:往路

 

 「年老いて年老いた」詩人。還暦を迎えた詩人。彼の地獄下り。

 

 正直に言って、第一部(元は1992年に現代詩手帖に連載されたものと推定)*1は面白くない。話は進まないし意図的にセルフオマージュ的だ。無理やり言葉をひねり出しているような。

 読み始めてすぐ気づくことだが、『漂ふ舟』では既に神話スケールで話が進んでいない。民俗学的手法は慣性(惰性?)で使っているが、世界を描くことよりただ一人居る「俺」を描くことに重心が寄っている。

 また、この孤独は人間の本性に由来するというよりむしろ、描写の取捨選択に依るようだ。ウェルギリウス役の導き手はずっといるはずなのに「到来 / ――「わが地獄くだり」その2」以外まともに言及されない。

 (独善性。その報いは……)

 

   4

 

 さて 南の空を月が赤黒い蟹か蠍のやうに匐(は)ひ 門々で萌えた小さな焚火も一つづつ消えて行き われわれの頭上を粗く覆ふ草の葉や小枝がかすかに揺れてゐる 随分永いあひだ俺は貞節とは無縁の暮らしをして来た そして これからも さうだらう さうだらうとも

 

   5

 

(反省すべきことなど 何一つない あるわけがない)

 

――「到来まで / ――「わが地獄くだり」その1」

 

 

 次は「実作者」の事情を殆どそのまま書いているように(それのみに)読める。前後の詩句との組み合わせで何らかの効果を発揮しているとは思えない。

 『わが出雲』の場合もそうだったが、発話者の戸惑いと実作者の戸惑いがシンクロするのは詩として不味い状況なのだ。

 

    8

 

《出発の刻(とき)といふものは 何はともあれ厳(きび)しい》と語つたのは あれは誰だつたか 自分の体からあらかたの力が失せたことを薄々知りながら なほ 新しい出発の刻を 迎へようとは

 

    9

 

 愚痴は聞き飽きた 俺は 故意に出発を引き伸ばしてゐるのだらうか さうではない いや さうなのかもしれない しかしそれにしても かうした旅立ちを 俺はすでに何十回も重ねたのではなかつたか いまさら何の逡巡 何の躊躇

 

――「到来 / ――「わが地獄くだり」その2」

 

 

 今回の地獄下りは「あの旅よりも 遙かに必然的なものだ」と意気込んでおきながら(あの旅とはもちろん『わが出雲』のことだ)、この「逡巡」「躊躇」はどういうことだ。

 

 俺は思ひだす すでに遠い昔のものとなつた船旅のことを あのときも 今と同じく 舳先には何とも知れぬ薦包みがあり、艫(とも)には誰とも知れぬ薄黒い人影が うごめいてゐた あの舟旅と今の旅と どう違ふ どこが違ふと あらたまつて問はれたとするならば 俺は はたしてどう答へるだらう

 しかし もちろん違ふ 違つてゐる この旅は あの旅よりも 遙かに情感を 衝迫を欠いてゐることによつて あの旅よりも 遙かに必然的なものだ

――「舟 /  ――わが「地獄くだり」その4」

 

 

 第一部の最後は次のように締めくくられる。

 

「幻想が 向うから追つてくるときは もう人間の壊れる時」と

あのひとが言つたが

思ひ出が変に群がつて

変に歪んで

迫つてくるときにも

人間はたやすく壊れ去るのではあるまいか

――「舟 /  ――わが「地獄くだり」その4」

 

 

 コンセプト無しに長編詩を連載するのは相当危険だと思うが、ここまで読み進めても「俺」の目的、ひいては作者の狙いが明確にならない。とりあえず連載して単行本にするとき大幅に編集する方針だったのかもしれないが……。*2

 おそらく61歳の詩人は、書くことを通じて「今書くこと」の意味を探していた。1990年代に入ると現代詩をとりまく状況は一層悪くなる。新しい方位を目指すというのなら、経験も邪魔になってくる。そして「自分の体からあらかたの力が失せたことを薄々知りながら なほ 新しい出発の刻を 迎へようとは」。

 

 時代が、過去が、老いが、また別の「何か」が、魔法を、かつて〈詩の根源〉と呼ばれていたものとの接続を奪った。

 それでも書くことを止めなかったことに――そうだ、『漂ふ舟』のあとでさえ筆を折らなかった――詩人の天分と不幸があった。

 

 引用部は全て『〈詩〉集成』のテキスト(つまり編集後のテキスト)を参照しているが、詩というより詩人のドキュメンタリーとしての面白さが勝っている。この読みは作者の希望するところではないだろう。

 

 

 この後、現代詩手帖での連載は1992年9月号で中断している。

 

 

 

言語外からの強襲:復路

 

 入沢作品における「死者」というモチーフの重要性は、今更述べるまでもない。

 作者の人生と敢えて結びつけるなら、12歳の時母が亡くなったのを筆頭に、姉*3やら伯父やら。青少年期には死んだ文学者たちとのテキストを通じた交感がある。

 

 しかし、「詩は表現でない」と宣言した入沢は、死者たちへの身体的情動をそのまま描くことは決してなかった。その屈折と破れ目が魅力に転じた。

 『わが出雲』「IX」における「亡母」に向けた身体性の表出法もそうだが、第一詩集『倖せそれとも不倖せ』(1955年、書肆ユリイカ)の冒頭に載る「失題詩篇からして屈折している。20歳の作者が経験した失恋と阿蘇山での(一人の)自殺未遂、それを次のように書いてしまった

 

心中しようと 二人で来れば

 ジャジャンカ ワイワイ

山はにつこり相好くずし

硫黄のけむりをまた吹き上げる

 ジャジャンカ ワイワイ

――「失題詩篇

 

 この方法でしか表出しえない情感があることも確かだ。以降の探究で彼の詩法は一定以上の成功を収めた、と言ってよい。「私の詩は心ならずもの詩ではない」と作者が述べるとき、読者はその本気と韜晦を引き受けるのだ。

 本気とは、屈折しながら、あるいは屈折したり跳ね除けることそれ自体に、作者の心理が間違いなく(想像以上に)織り込まれていること。

 韜晦とは、おそらく当時から批判されていたように――そして『漂う舟』で痛打を与えるように――言語外にある現実的「心」「身体」への軽視が、少なからずあったこと。無かったとは言うまいよ。

 

 

 さて、今ここに一人の死者を加えよう。

 再び女性の死者を。

 

 

 1992年8月に入沢の妻佐枝*4が死亡した。このために現代詩手帖での連載を中断したのだと思われる。

 

 連載が再開したのは1994年1月号から。おそらく詩集で第二部にあたる部分(あるいは94年に雑誌掲載されたのは第一部の最後の方で、第二部は書き下ろしとして単行本から加わったのだろうか)。

 

 以下は「「前表」の追認 /  ――「わが地獄くだり」その5」より。

 

 この旅の出発に当たつて 深まるためらひの揚句に記した 《前表の確認 といふかむしろ 追認》 その一行のにがさを ここ何十日 何百日のあひだに 何度味わひ直したことか 旅のさなかにあつて 俺は かけがへのない道連れを 導き手を 決定的に失つた 喉頸(のどくび)に刃物を押し当てた日々を過ごした

 

 この日々のあひだに俺は知つた いや 知らされた 「人間はいともたやすく壊れ去る」といふこと そして同時に「人間が壊れ去るのは並大抵ではない」といふことを

 

(引き返すのか)

それはあるまいよ

往路あつて復路のない旅路を

われひとともに辿つてゐるのだから

 

「情感を手放し 衝迫から解き放たれ」ることを願つた途端に 俺は 手痛いしつぺ返しを喰らつた ヒュドラーはヘーラクレースでなくては退治できないのだ 感官をひたと閉ざし吸ひ込まれて行つた先は 恐れつつも願つてゐた「地獄」ではなく――といふか むしろ無意識裡に願つたままの「Copy of 《地獄》」に他ならなかつた

 

 その結果――

 

かつての俺は「妻子ある独身者」だつたが

今ではただのありふれた独身者に過ぎない

 

 

 以下は「帰途 または舟** /  ――「わが地獄くだり」終章」より。

 (注:傍線は引用者によるもので本来は傍点)

 

 これはやはり帰途であらう 往路ではない 旅は終るのか さやう 終るのだ(帰途なき筈の旅でさへも)

 俺の旅は何かを索ねての旅だつたのらうか さうではなかつた 心ならずもの旅であつた そして…… かつて自ら気負うて「地獄くだり」を僭称したあの見せかけの旅とは異なつて こたびは地獄そのものを見た 少なくとも(作者は)その縁辺をかすめた

 

 その報ひ…… その恐るべき報ひは避けやうもあるまい

 

終りに当つてお笑ひ草に

           曳かれものの小唄を一つ

 

 

  難破した男のララバイ

 

こんなにも 荒れてゐるのに

こんなにも まつ暗なのに

私の

もう祈ることも忘れ果てた視界を

白く

あまりにも白く

かすめたもの

鷗よ

本当に

おまへは鷗なのだらうか

 

 

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[スポイラー]

引かれ者:刑場へ引かれて行く罪人。また、捕らえられて行く者。

引かれ者の小唄:《引かれ者が平気を装い小唄をうたう意から》負け惜しみで強がりを言うこと。

「曳かれ」には「舟」が掛かっている。先行する導き手はもういないのに。

「鷗(かもめ)」の「白さ」は詩篇の余白をも想起させるが、メタポエムとは断言しない。マラルメのように「詩の不可能性」に関する詩とも一義にはとれない。ここには(おそらく自らに語る資格なしとして語っていないが、だからこそ)〈他者〉が存在する。喪失を通じてしか存在と向き合えない人の愚か。

入沢作品では数多くの鳥が登場するが、『漂ふ舟』以前に「鷗」という語句が出て来た記憶はない。舟と鳥の関係で例を挙げると、「異海洋からの帰還」では「濃藍色の背中をした海鳥」とだけ書かれている(果たして具体的な鳥をイメージしていたのだろうか?)。「「木の船」のための素描」では「サギ、カワガリカワセミ、スズメ、キジ。まれにはハクチョウ、そしてモソサザイ」と海鳥ですらない(この船は外部が一切見えない「屋形船」なのかもしれない)。

唄の名前としてレクイエム(鎮魂歌)ではなくララバイ(子守歌)が選ばれている。これは、死者の魂まぎの不可能性であり、「俺」はなおも生きていくのであり、「負け惜しみ」であり、再生への祈りであり……単に音韻の都合かもしれない。「バイ」が別れの挨拶であるということ。

 

 

 次は全集のあとがきから。

 

(前略)

ただし、巻末の詩集『漂ふ舟』(一九九四年)については、一言付言しておきたい。その内容となつてゐる作品の制作の間に、作者は実生活においてみずからの怯懦・怠慢から家族に対して当然なすべき行為と義務をおこたり、このため妻・息子にとりかへしのつかぬ深刻な犠牲を強ひる結果を招いた。このことについての反省・悔恨は、その後、年とともにつのり、今日では、その作品を収めた『漂ふ舟』を本にして世に出したこと自体が大きな誤りであつたと認めるに至つてゐる。本『〈詩〉集成』の編集に当つても、これを収めるかどうかについて迷ひ抜き、収録を止めようと何度となく思った。

しかし、結局これをも含めた形で本書が刊行されることになつたのは、「省くことで、自らの誤ちを無かつたことにはできない。詩集として刊行したといふ事実は消せない」と最終的に判断した結果である。ただ、『漂ふ舟』について作者が現在右のごとき思ひを抱いてゐることだけはここに明記して、大方の批判にゆだねることにする。

 

一九九六年十二月

                   作者

 

――「後記」 『入沢康夫〈詩〉集成 1951~1994 下巻』(1996年、青土社

 

 

 

 『漂ふ舟』の第二部は入沢作品の中で決定的な破れ目だ。入沢康夫の詩法では決して取り扱えない身体的現実の問題*5。あまりに、あまりに苦々しい敗北。

 幻想=物語=記憶の拒否。「現実」へと。

 

 皮肉にも、ここにおいて迷いはなくなった。そうして、極めて強度の高い「私詩」が出来上がった。

 いや、通常の私詩なら「作者は」などと書く必要はなかった。発話者はとりもなおさず作者なのだから。私詩を批判した入沢だからこそ「少なくとも(作者は)」という詩句が必要になった。入沢だからこそ(一回きりだが)私詩でも発話者と作者の相互浸蝕を発露することができた。

 この破れ目から我々は入沢の肢体/死体に触れることができる。入沢作品に親しんだ読者は初めて、〈他者〉としての入沢康夫に出会う。*6

 

 

 「「前表」の追認」において「往路あつて復路のない旅路」とされたこのエクリチュールは、だが「帰途 または舟**」で「これはやはり帰途であらう 往路ではない」「(帰途なき筈の旅でさへも)」とすぐ否定される。

 この戸惑いと訂正はとてもリアルだ。どんな真実よりも真実らしく見える。入沢康夫は嘘(真実)の嘘くささを追求したニヒリズムの詩人だったが、ここだけは嘘が裏返ってリアリズムに接近した。

 

 『入沢康夫論2-2』「Seagull Calls」で「復路は喪失の過程である」「復路の嘘くささは現実を言語で捉えることの限界である」「復路に従って読者が現実に帰る」と述べた。

 『わが出雲』とは逆に、『漂ふ舟』は事故めいたリアリズムによって復路こそが「詩」として成立している。この成立にも屈折がある。現代詩手帖に連載を再開したこと。詩によって失ったならば詩によって耐えるしかなかったのだろうか*7。あるいは、最果てに〈詩〉を拒否したとしても、〈詩の根源〉の方が勝手に近づいてきた。

 

 

 作品は、作品の終わりを記憶していない。しかし、作品は終わらなければならないのだ。逃げようもなく。

 人もまた。

 

*8

 

 

 

唄:終幕

 

 入沢康夫は音楽的、というよりは視覚的な詩人に分類して良いと思う。だが、歌わないわけではない。身体的なアプローチとしての唄はたびたび登場する。*9

 それは第一詩集の「失題詩篇」であり「キラキラヒカル」であり、『古い土地』(1961年、梁山泊)の「夜の森の唄」であり、『わが出雲』の「XIII」であり、『春の散歩』(1982年、青土社)の「諺のバラッド」であり、『漂ふ舟』の「難破した男のララバイ」だった。*10

 

 『入沢康夫論2-2』で『わが出雲』「XII」における魂まぎを「嘘くさい」で一蹴してしまたが、個人的にはただ嫌いなのではない。むしろ痛いほどよくわかる(つもりになる)からこそ、その表現に細心の注意を向けるのだ。

 

 魂まぎとは祈りだ。

 

 魂まぎの不可能性は、とりもなおさず祈りの不通性になる。

 それでも――今なお人は祈るらしい。虚構であれ、現実であれ。

 

 

「私の/もう祈ることも忘れ果てた視界を/白く/あまりにも白く/かすめたもの」

「鷗よ/本当に/おまへは鷗なのだらうか」

 

 

 本当にそうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 追記:『漂ふ舟』第二部から薄々と感じられる傲慢と自惚れ。それもまた意図した/意図しない皮肉なのか。罪過を経てなお変形しない人間の剛体。そして自罰感情――「呪いの中にいる」と述べる者は、呪いの中に死ぬし、過去を遡及して呪いの中に生まれたことになる。魂まぎとは呪いであるに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:機会があれば現代詩手帖のバックナンバーを確認したい

*2:Done is better than perfect.

*3:姉が死んだというのは詩に書かれていたかどうかすら危うい気がしてきた。全くの勘違いかもしれない。

*4:このあたりの情報は『現代詩手帖2019年2月号』より。大学の後輩で、1957年に結婚

*5:例えば谷川俊太郎はだったらこのような身体性を十全に取り扱えたと思う

*6:覆面作家のプロフィールが死後明らかになるのと構造的に変わりがない

*7:エリザベス・ビショップの「One Art」を思い出す。https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2021/11/20/092840

*8:人における「未完」とは失踪なのだろうか?

*9:また次のことも思い出される:宮沢賢治がそうであったように、入沢康夫もレコード・オーディオマニアであった。

*10:現代詩文庫の2巻を参照すると「唄」と思わしきものは存外に多く、「筆者が個人的に好む」という制約を課すと存外に少なくなった。