エッセイを書こう、と思った。しかし最初の二段落で書くことが無くなった。
二人羽織で文章を書こうと思った。でも人からお題をもらうのは億劫だ。
というわけで「AIのべりすと」にご協力いただいた。
「AIのべりすと」の利用を明記した小説は一次創作(なろう)でも二次創作(ハーメルン)でもたびたびみかける。ただ、ここでは「AIのべりすと」を文章の整形に用いるのではなくお題を貰うことに使った。つまりAIをバカにする路線だ。
以下、太字は「AIのべりすと」によるもの。しかし全体的に編集が入ってることはおことわりしておく。
エッセイのためのエスキス Part.1
「四月は最も残酷な月」だ。では三月はどうか。という書き出しはすでに入沢康夫がどこかの詩で使っていた。
三月。アンニュイな月である。アンニュイ先輩(死語)(この括弧補足方法も廃れたように思う)である。1964年のその月、エリック・ドルフィーが参加するチャールズ・ミンガス・セクステットはアメリカツアーの最中で、その様子は例えば『Cornell 1964』で聞ける。翌月彼らはヨーロッパに渡った。それは残酷な月だ。
「なぜって? なぜなら、六月に僕たちがどんなに優しくしても、もう五月には戻れないからさ」――これは誰の言葉だったか。確か、ローリングストーンズのミック・ジャガーだ。そしてこの言葉は四月と三月にこそふさわしい。
あなたにもきっと、月単位で把握している時間の切れ端があるだろう。それはまた、あなたの生まれる前のことでなければならない。僕たちはそのようにして「生まれる前の記憶」を持つ。記憶は/歴史は/夢はすべて編集されている。だから、記憶を誰かに話すときは細心の注意を払うべきなのだ。それが他人のものなのか自分のものなのか。いつのものなのか。どこで見たのか。どんな光景なのか。それともまったく別の話なのか。僕はそれを何と呼んでいたのか。それがどんな名前で呼ばれていたのか。あるいは僕の勘違いなのか。
「追憶は欲望と混ざ」り、それ以外の何かとも混ざる。それでも、強化学習は「ただの夢かもしれない。だけど、確かに僕らはそこにいたのだ」と書く。AIでさえエクリチュールによって現前性を叫ぶことの哀切を身体知(模倣とはつまり身体だ)として知っている。だから、VtuberにWikipedia風の叙述でコミュニケーションをとろうとするオタクを笑うことはできない。彼らのミームもまた、その起源において「追憶」であり、「歴史」の一部なのであろう。ぺこーらの「冷めたチキン」は、かつてあった「あったかもわからない現実」への憧景である。
そしてもちろん、その逆も存在する。今ここにいる自分を記述したような物語が過去にあったとするならば、それは間違いなく「過去の自分からのラブレター」だ。僕たちの記憶は編集されるけれども、しかし、記憶の痕跡だけは残り続ける。その痕跡こそが、物語と呼ばれるものだ。
それでは、と。それでは、問わなければならないだろう。エズラ・パウンドによる徹底した添削の果てに生まれたエリオット『荒地』から「物語」を読むことは倫理的なのか? 作品内で古今東西のテクストの引用がテーマとなり、外部的にも合成されたものとして生まれ出た作品『荒地』をめぐる後ろ暗さである。(以下、暴走が面白かったので少し放置)まずはじめに言っておくと、本稿で取り上げる作品は、原典とは異なる解釈を提示している。本来であれば「私生児」「語り手の娘」という二つの人格を想定して書かれたとされるこの作品だが、近年の研究により、その前提となる事実自体が否定されつつあるからだ。したがってここでは、「作者自身の自我」を想定しつつ読むことをお勧めする。
(*1)
ある男は言った。
「われわれは何者でもない」
それから彼はこう続けた。
「私たちはみな詩人で、みな作家である」
(*2) そもそもこの小説には明確な一人称視点が存在しない。
筆の滑りで『荒地』の名を出してしまったが、『荒地』出版から100年足った今、僕たちの存在の代価、リビドーの代償、依存と寄生、「記憶の痕跡」と仮定された物語について語るのに、ゼロ年代後半にネット上で形成された二次創作のコミュニティ以上のことは必要ない。「さあ、世界を呪う言葉を」「僕たちの家を燃やせ」という程度の話なのにAIは大仰になって困る。(*3)
https://www.hayasaka-tamio.com/2016/02/14/ai%E3%81%A8%E6%95%99%E7%BF%92/ ちなみに、僕は「お前ら全員AIに負けて死ね」と思っている。
あとがき
第三段落のミック・ジャガーの嘘引用がクリティカルで本当に良い。二周回って言及するが、「『作者自身の自我』を想定して読むことをお勧めする」はどこからのコピーなのだろうか。人文本職の文章のデータベースがさほどない? 一方で「私生児」は蓮見重彦っぽく見える。『荒地』は小説じゃなくて詩。
このあと私が最近『ネギま』の二次創作を少しだけ読んでいる話をしようと思ったのだが(エッセイなので思うままに書くのは当然の権利である)、「AIのべりすと」がついていけなくなった。話題や雰囲気が変わりすぎたらしい。「転換」するタイプの文章は少なくとも「脚注/オーサーズ・ノート」の使い方に工夫が必要そうである。
使った設定
文章スタイル:ゴーストライター
◆メモリ
[『荒地』:有名な詩]
◆ 脚注/オーサーズ・ノート
[ジャンル:エッセイ]
[雰囲気:アンニュイ]
詳しい遊び方はwikiを参照。
「AIのべりすと」さん、展開に困ったので三行でオチをつけてください。
「人工知能が書いた文章」
「チューリングテストに合格したのでOKです」
「やったぜ」
なお、ここまで書いてきてようやく気づいたのだが、そもそもこれを書くためにわざわざ『荒地』を読んできた意味がなかった。