水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
――吉岡実「桃 或はヴィクトリー」
吉岡実「吉岡実詩集(現代詩文庫14)」(思潮社、1968年)
吉岡実(1919-1990)は『僧侶』(1958)の出版とH氏賞の受賞によって一躍有名になった「遅れてきた詩人」である。世代的には鮎川信夫と同じだが同人「荒地」には参加していない。彼の詩に垣間見える老練はまず年齢を考慮すべきだ。
Wikipediaで吉岡は「戦後のモダニズム詩の代表者」と評されているが、私は1920年代モダニズム後の1930年代ハードボイルドの系譜*1に位置付けたい。入沢康夫ほどフォルムやストラクチャーに対する意識が強くなく、入沢よりは「いまここ」「わたし」を主題にする力があるのがその理由。あとは「女性」表象の扱い方。とはいえ、おおざっぱに分類すればモダニズム詩なのは間違いない。
ちなみに吉岡は散文もうまい。日記抄の引き締まった文体、戦後の混乱ぶりは小説として読める。
自説や解説から有用そうなことを抜き出す。
- 「活字」「紙」「頁」「言葉」「文字」といったメタにつながる単語を吉岡は使わない。「きみ」「あなた」も曖昧ゆえ使わない。というのは、「神」「社会」「肉親」「恋人」「未知の人」の全てが第二人称に含まれてしまうから。こういった厳密性への意思はまた、詩を彫刻やオブジェのように作る志向と関係する。
- 意外にエロティックな要素が入る。その表現はとりあえずハードボイルド小説的なものとして読める。
- 『静物』『僧侶』はある種の「詩語」を用いて書かれている、と吉岡自身が述べている。彼は自閉性の批判を自ら行い、『静かな家』において実作として結実させた。
『静物』(1955)
「静物」という題の短詩が最初に四つ並んでいる。この詩集の場合はヴァリエーションと内容が伴って演出としてうまく機能している。
第一の「静物」の冒頭を引用する。
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
第一行の「硬い」という単語に注目したい。これは「夜の器」なる隠喩が「硬い面」を持っていると、「夜は事物を収容し、その接着面は不明瞭ではなくむしろ硬い」と読める。なんという意外性だろう。この硬質性に今まで気づくことがなかった。いや、今まさに言葉が夜を硬質化させたのだ。こうなってくると第一行が詩集全体の「硬さ」を暗示するようにも読めてくる。「硬さ・固さ・静けさ」および「柔らかさ」のモチーフは、『僧侶』までの吉岡実を読解する一つの手立てを与えてくれる。
一行目は漢字が頻出するのに対し、二・三行目はひらがなが多く使われていることも指摘しておく。「夜」の「硬さ」と「くだもの」の「柔らかさ」を視覚的に表現している。
以下で全文を引用しよう。
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿っていく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく
「深い器」の中で「諧調」「大いなる音楽」「豊かな腐爛の時間」が流れ出す。この流体性こそがこの詩の最も美しい部分だが、1955年の吉岡はすぐ隣に「死者の歯」「石のように発しない」といったフレーズを並べる。これらは意味的・情景的にも唐突で像を結ぶことを拒否する。主題はあくまで「くだもの」の「重み」、「くだもの」が成熟=腐乱に向かいつつ静物として完成していく様子なのだ。「死者」は吉岡実第二の重要モチーフで、おそらく本人が「詩語」と呼んでいたものである。
次は第二の「静物」全文。
夜はいっそう遠巻きにする
魚のなかに
仮りに置かれた
骨たちが星のある海をぬけだし
皿のうえで
ひそかに解体する
灯りは
他の皿へ移る
そこに生の飢餓は享けつがれる
そのさらのくぼみに
最初はかげを
次に卵を呼び入れる
再び「夜」が舞台。食事風景をただ単に食べられる側に立つというのではなく、「魚の骨」を中心にするレベルまで遠ざかることによって、「静物」として描くことに成功している。たとえば「ひそかに解体する」の行は、人が焼き魚を食べる際に感じる煩わしさと「解体」の他動詞性の大胆な移し替えである。
さらに語りは「魚の骨」からも遠ざかって「他の皿へ移」ってしまう。この静謐で謎めいた視点の設定に推理小説的な緊張と妙味がある。
「過去」より抜粋。
その男はまずはそのくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
[……]
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
少し長いので全体は引用しないが、「便器」という単語が出てきてもユーモアやグロテスクさより、不思議と端正さが感じられる。厳密性の追求からの印象だろうか。
『僧侶』(1958)
表題作「僧侶」が有名だが、あえて引用しない*2。第三連まで期待させておいて結局裏切られる印象。吉岡実は構成的な想像力に欠くところがあるかもしれない。
「告白」の冒頭部分を読む。
わたしは知らないことは 他の人に告げぬ また他の人の声が作る石膏のまわりを歩かぬ わたしはただ全体の力のあつまる 短い斧でふれようとあせる
「あせる」という言葉の主観性が眼を引く。ここが詩の転換点にもなっていて、「あせる」の前まで「わたし」は自己の超越性を確保するタイプの人物に見えるが、「あせる」以後は告白を要するだけの悩みを抱えていることが明らかになる *3。「わたし」は「淋しく出てゆく蛾や血管の列に通路を譲る」し「女なら眼のなかに突き戻す」し「食べ物なら吐く」し、「だが間違いはあり得る」らしい。詩の終わりは「わたしは走り出す 一人の裸の形をして 習練と忍耐を具現した黒い像として 雨にぬれてゆく ここでこの事実は他の人に告げられる」。
「告白」は表象のレベルでは「知っていることだけを伝えたい」という厳密性のマニフェストの詩であった。関連する詩に「固形」があり、「ぼくの信条は 物は固形ですわりよくあらねばならぬと考える」と「固形主義」が冗談めかして語られる。しかし物の流体性・可塑性を詩人はよく承知しており、それは言葉に対しても通用する。固形性やコントロール可能性に関する詩人の主張をそのまま彼の思想と受け止めることはできない。
「苦力」より、途中まで引用する。
支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
排泄しながらのり越える
支那の男は毒の輝く涎をたらし
縄の手足で肥えた馬の胴体を結び上げ
満月にねじあやめの咲きみだれた
丘陵を去ってゆく
より大きな命運を求めて
朝が来れば川をとび越える
馬の耳の間で
支那の男は巧みに餌食する
粟の熱い粥をゆっくり匙で口へはこびこむ
世人には信じられぬ芸当だ
利害や見世物の営みではなく
それは天性の魂がもっぱら行う密儀といえる
『僧侶』の中で最も優れた詩だろう。一方であまり吉岡らしくないストーリーテリングの詩である。エッセイで触れられているように、作品の背景には吉岡の従軍経験がある。
「感傷」の第三連から吉岡の女性観を読んでみる。
ぼくの眠りの截面がめのうのように滑らかになる
そこに居合わせたただ一人の女
喪服にいつわられた美しい肢体の女が昨日からいる
[……]
察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫
人でなければ別のもの
頭の大きなさんしょううおを刺してきたのだ
清々しいほどのファム・ファタールである。このようなキャラクターが登場できる世界観なのだ、『僧侶』は。もう少し逸脱してくれた方が読みごたえがある。
ちなみに「感傷」には「喪服の女」の他に「大人の汗の夏も知らぬ少女」が登場し、詩の終わりは「さてぼくは女には大変つくした/罪深い女は去らせよう/ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを/ぼくは久しく待つんだ」となる。マッチョだなあ、と思う。
彼の詩の静謐な印象、厳密性の希求はわりかし素直な「モダニズムアンダーステイトメント」=「書きすぎない男の美学」に見える。ヘミングウェイやハードボイルド探偵小説を想起するのはこの共通性だ。
『静かな家』(1968)
『僧侶』から十年経ち、吉岡は開けっぴろげなシュルレアリスト/幻想のスタイルに接近した。
「劇のためのト書の試み」から抜粋する。
それまでは普通のサイズ
ある日ある夜から不当に家のすべての家具調度が変化する
[……]
父・洋服が大きくて波うち会社へ出られず
兄・靴が大きくてラセン巻き
妹・月経帯が大きくてキララいろ
この不条理なユーモアは「僧侶」のそれとは質感が異なる。もっと陽性で開かれた「大衆の笑い」だ。終盤の「かたむく家/父母の死骸は回転している洋服ダンスの中/兄妹はレンガの上に腰かけ/雨がふっている」でも、近親相姦的な家族悲劇を喜劇として読み直す視線の暴力が働いている。あるいは、「静物」における音楽が壮大な交響曲のスコア譜だったとすれば、「ト書き」に込められているのはもっと身軽な「リズムにのって 暗い月曜日の風のなかで/音楽はユーモレスク」なのである。『静かな家』では言葉の構造より運動が明確に支配的になってきている。
「桃 或はヴィクトリー」の全文。
水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球をすべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ!
他人の痒くなっていく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のたんぽぽの野に
わ ヴィクトリー
蛍光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー
「わ ヴィクトリー」というリフレインが謎めいて魅力的な詩だ。「わあ」ではなく「わ」とつぶやく微小で唐突な驚きの表現に、それが「ヴィクトリー」と接続することに驚かされる。書き起こして初めて気づいたが、「わ ヴィクトリー」のあとで連を区切った方が意味のまとまりが明らかで読みやすい。しかしそうはなってない。休符をいれないこと、間を入れないことによる運動の演出だ。
その点、「老人」に関する『僧侶』期のような表現「死人の能力をたくわえる」「笑いかつ血のない袋をもちあげる」は言葉の運動を阻害しているかもしれない。
「死」に関する表現は「恋する絵」が興味深い。
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
これが書ける人なのか、と思う。現代でもそのまま通用するリアリティで戦争体験を凝縮している。「恋する絵」は次のように終わる
これこそうすももいろの絵
うすももいろのビンやウニ
うすももいろの耳
すすめ竜騎兵!
うすももいろの
矢印の右往左往する
火薬庫から浴室まである
恋する絵
「?」や「!」による一人称的な表現も『静かな家』に特有だ。
今回の感想。吉岡実は明らかに「語りやすい」部類の詩人である。つまり、抒情から離れ観察的態度が有効である。吉岡の詩は「難解」と言われているらしいが、そのような場にこそ批評のチャンスがあるだろう。しかし今回の記事は散漫としてしまった。読みと語りの技術も拙さは読んでても苦しいだろうが書いていても苦しい。
「固体/流体」でテーマ批評するのは一つの手だったろうか。それで吉岡の魅力の何かしらを本当に掴めるのだろうか。