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日本近代詩史の裏ルート:亀井俊介『日本近代詩の成立』

 

抜群に面白い日本詩史の本があったので、読書メモ代わりに紹介しようと思う。

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亀井俊介『日本近代詩の成立』南雲堂、2016年

 

亀井俊介(1932-2023年)は『アメリカン・ヒーローの系譜』や『対訳 ディキンソン詩集』などで知られる、比較文学アメリカ文学研究者だ。今回取り上げる『日本近代史の成立』は、彼が本業の傍らで書いていた日本近代詩を扱う論考(最古の初出は1957年)をまとめ、大幅に加筆修正を加えたものになる。

84歳という高齢で上梓された本文530ページもある厚い本だが、明晰かつ信頼できる内容で、するする読めて面白い。語り口・文体のちょうどよさ、テクスト読解とコンテクスト研究のバランスの良さ、といった要素が上手く作用している。しかしこの辺りは実際読んでもらわないと伝わらない部分なので、割愛しよう。

 

本書の「詩史」としての特徴を列挙する。

 

第一に、明治から大正まで(1867-1926年)を対象としながら、いわゆる「メインストリームの」「詩的/芸術的」詩人は、比較対象として以外ほぼ登場しない。正面から論じているのは『新体詩抄』(明治15年/1882年)や島崎藤村若菜集』(明治30年/1897年)、正岡子規くらいだろうか。この点で『日本近代詩の成立』という本書のタイトルはミスリーディングに思われる。代わりに従来様々な理由で顧みられることの少なった詩人たちを、魅力的かつ適切に描いている。

 

第二に、カバー範囲が広い。詩史の本はときに短歌・俳句の歴史を省いてしまう。これは大正末期のモダニズム運動以降、「近現代詩」と「近現代詩歌」がどうしようもなく分離されてしまうからだろう。本書は詩歌を含めるのみならず、漢詩(中野逍遥)や英詩(ヨネ・ノグチ)、俗謡、歌謡、果ては讃美歌や学校唱歌というところまで目が行き届いている。

特に重要視されているのが訳詩だ。森鴎外『於母影』(明治22年/1889年)、上田敏海潮音』(明治38年/1905年)、永井荷風『珊瑚集』(大正2年/1913年)、堀口大学『月下の一群』(大正14年/1925年)の4つの訳詩集は、「詩的」詩人たちに影響するところ大だった。文学者としては研究されることの少ない内村鑑三の『愛吟』(明治30年/1897年)にも厚い記述がある。16章立ての本なので、全体の約3分の1が訳詩を論じていることになる。著者は原文にあたり、翻訳者によるテクストへの介入を詳らかにしながら、それらが詩史に与えた(与えなかった)影響を読み込む。訳詩への注目は比較文学研究者らしいところかもしれない。

 

第三に、「芸術詩」に対抗するようにして「思想詩」を称揚する。もっと言えば、19世紀中頃のアメリカン・ルネッサンスに出現した超絶主義者エマソン(1803-1882年)および『草の葉』のホイットマン(1819-1892年)の系譜を、日本近代詩史に読み込もうとする試みが行われる*1。これが本書の統一原理となって、「日本近代詩通史」とは決して言えないけれども、1つのオルタナティヴな「ルート」が浮かび上がってくる。

日本のホイットマン受容における不運は、大正デモクラシーの時代に民衆派詩人によって過度に持ち上げられたことかもしれない*2。民衆派を除くとしても、日本のエマソンホイットマン的詩は、おおよそ流麗さに欠き、野卑で、箸にも棒にもかからぬものが多い。著者もそういった欠点・失敗はちゃんと咎めている。しかし、この無骨さからしか生まれない内容と形式があること、この上にしか乗らない「近代的自我」があること、あるいは詩に関わる詩人たちの「七転八倒」にこそ「近代的自我」の運動が現れていることを、著者は熱を持って描く*3

例えば、社会的・政治的自由の探求に挫折して内的自由の探索を開始した北村透谷(1868-1894年)。エマソンを引いて透谷を「預言者詩人」と呼びなしながら、劇詩『蓬莱曲』(明治24年/1891年)には(字義通りに読んだ)「現世の否定と来世の肯定」などではなく、むしろ凄まじき現世への執着と懊悩が現れているのだと著者は指摘する。

例えば、夏目漱石正岡子規と同級だった漢詩人・中野逍遥(1867-1894年)。彼は官吏の「表芸」としての漢詩の領分をはるかに超えて、近代的で激烈な「恋」を表現しようとした。彼は自分の恋心を婚約者のいる女性に打ち明けることもできず、大学を卒業した一か月後に病であっさり空しくなる。

例えば、詩人としての岩野泡鳴(1873-1920年)。明治期の詩人としては異例なことに、彼は詩人業を15年も続けた。自身を「独存強者」と定め、エマソンホイットマンヴェルレーヌを「兄弟分」「僕自身の物」と言い、「肉即霊」の『神秘的半獣主義』(明治39年1906年)を唱えた。詩作においては同級の島崎藤村(1873-1943年)に対抗しながら何回もスタイルを変える。精密な(それゆえに空虚な)韻律を模索したり(『新体詩の作法』明治40年/1907年)、ますます激しくこの種のロマンチク主義(※引用者注:「三界独白」明治38年/1905年におけるマリアによる罪女の救済など)を拒絶し、厳しい半獣主義をおし進め」(p.413)たり、明治41年/1908年の詩集『闇の盃盤』では、泣菫・有明のロマン派象徴主義に対抗して象徴詩と苦悶詩を合体した「自然主義的表象詩」に取り組んだ。ヴァイタリティの人である*4

 

つい作品ではなく作家の面白エピソード紹介に流れてしまった。『日本近代詩の成立』ではこういったものを交えつつ、作品のテクストとコンテクストを丁寧に読解してみせる。

 

 

個人的なことを言わせてもらうと、この本を読む前、第二次世界大戦前の日本詩はわずかな例外を除き、研究対象としてしか読めなかった。つまり日本的な「パタエモ(パターン化されたエモ)」*5の起源としか思えなかったのである。この「パタエモ」は普通「叙情」と呼ばれている。

わずかな例外というのは例えば、「留守と言え/ここには誰も居らぬと言え/五億年経ったら帰ってくる」(「るす」)と書いたダダイスト高橋新吉(1901-1987年)であり、「修羅」という謎概念を持ち出してきて*6「わたくしは修羅をあるいてゐる」から最愛の妹の死に目に際して「ただわたくしはそれをいま言へないのだ」(「無声慟哭」)と書いた宮沢賢治(1896-1933年)だった。

本書を通して(新吉や賢治とは全然異なるタイプの)「無骨」で「ドライ」で「気概のある」詩人たちを知れたことは、あるいはそういった「アメリカ」的な系譜を読み取る可能性に触れたことは、非常に幸いであった。

 

 

追記の面白エピソード: 正岡子規は「文界八つあたり」(明治26年1893年)というすごい名前の連載において、「今日の歌人には如何なる人がなる」という質問に対し次のように答えている。「国文学者 神官 公卿 貴女 女学生 少し文字ある才子 高位高官を得たる新紳士 我歌を書籍雑誌の中に印刷して見たき少年」。つまり、「近代」とは無関係な連中だというのだ。これは諷刺か露悪か*7



 

 

*1:著者亀井俊介の博士論文は『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970年)だった。

*2:「民衆派は、その芸術的低俗性を新しく詩壇に出てきたモダニズムの詩人たちに暴露され、そのなまぬるい小市民性をプロレタリア詩人たちに痛撃されて、たちまち勢力を失った」(本書p.439)。

*3:この辺りは完全に(東大)アメリカ文学研究の仕草。例えば平石貴樹アメリカ文学史』(松柏社、2010年)などもこのスタイル。

*4:まだ飽き足らず面白エピソードを紹介すると、彼は客観視もできる人である。後に自身を主人公のモデルとした小説『憑き物』(1920年)で次のような場面を描いた:伊藤博文の死に際して主人公は中学生500人相手に2時間も演説をぶち、「豊臣秀吉伊藤博文も」「全く僕に属してゐるのだ──乃ち、僕自身の物である」という結論にいたるが、(当然ながら)この肝心要のところでどっと笑いを誘ってしまう。すると生徒たちをにらみながら「おれは宇宙の帝王だ! 否、宇宙そのものだ! 笑ふとはなんだ?」と言って、またどっと笑いを呼ぶ。主人公は激怒し、人が謝って止めるのも聞かずに、講堂から飛び出して帰ってしまう。

また別の小説『放浪』では、自作の詩「樺太の雑感」(1910年)を引用し大いに褒めちぎりながら、それを「得意げに」「調子にのつて」何度も友人に読み聞かせる様を描く。なお、「樺太の雑感」はホイットマン的な方向性で大いに成功した詩だと亀井は言う。

*5:「もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ、純喫茶でクリームソーダフィルムカメラで街を撮る、薄暗い夜明け、自堕落な生活、アルコール、古着屋、名画座、ミニシアター、硬いプリン、もう全部飽きた 面白くない」https://x.com/_capsella_/status/1611892581537058816?s=20 

『エモあるよ(笑)』も参照。https://note.com/c0de4/n/ne717e6020372 

*6:宮沢賢治の「修羅」概念が仏教六道の「修羅道」にどのくらい従いどのくらい離れているものなのか、私は全く知らない。

*7:「露悪」という言葉の初出は夏目漱石三四郎』(1908年)だと言われている。