古い土地

暗い穴

なろう批評2:「転生」と「転移」について/崩れ去るリアリティ/転生オリ主の遺言

 

 この二か月で読み溜めたなろう作品を紹介し批評し読み替えていくのが「なろう批評」シリーズの目的……なのだが、今回は実作分析を行わず「異世界「転生」「転移/トリップ/召喚」について考えてみたい。「チート」「主人公最強」「TS/性転換」「奴隷」にも軽く触れる。

 基本的には2012年までの二次創作界隈となろうの大まかな流れを扱う。言うまでもないことだが、個々の作品にはここで述べたことから外れるようなものが山ほどある。数多くある系譜のうち一つ(とはいえとても大きな一つ)を都合よく編集したにすぎない。

 

 ある作品を分析する過程で、「転生」と「転移」を区別したい欲求が私の中で割と強めにあることを発見した。気持ち悪いと思った。「異世界」へ渡る代価として死を払うもののみが「転生」だ、という認識。どちらも「異世界」に現代的な価値基準や知識を持った人物を登場させるための仕組みにすぎないのに、なぜ「転生」と「転移」を分けたくなるのか。

 結論は次の通り。「転生」と「転移」はミームの歴史的形成がまるで違う。そのため文脈が混ざりあいそれほど差がなくなった今でも(私の場合は)ゾーニング意識が働く。

 

 

 

 

転移の形成

 

異世界召喚・転移・転生ファンタジーライトノベル年表|ブックオフオンライン

 

 この年表を見ても分かるように、「転移/召喚」*1は「転生」よりも古い伝統がある。

 なんたって我々は旗印として現代の古典ファンタジー児童書『ナルニア国物語』(1950-1956年)を掲げることができる*2。クローゼットを開けたらそこは異世界だった、という「転移」の機構。あるいはファンタジー作品で現実世界と異世界の交流を扱ってもよいという発想が、様々な創作物に波及し、やがてラノベに流れ込み、ゼロ年代個人サイト小説に流れ込み、最初期のなろうでも再生産された。

 実のところなろうにおける「転生」の出現は「転移」よりもやや遅れる。「転生」を標榜しつつポイントを伸ばす『Knight's & Magic』の初回が投稿されたのは2010年10月頃だ。それ以前の「異世界」もの、『ウォルテニア戦記』も『異世界の王様』も『幻操士英雄譚』もすべて「転移」ものであった。2010年に「にじファン」が開設されたこと、なろう内で二次創作が大量に投稿されていたことは、「転生」の出現におそらく関わる。

 

 上のまとめは簡潔すぎる。しかしなろう的「転移」について考える限り、この程度で十分であろう(最初期の個人サイトの血が濃い作品を除く)。1950年代から2000年代までの「転移/召喚」ものを実作分析しつつまとめるよりも、次節以降で述べるなろう的「転生」の形成について考えた方が、なろう的「転移」を考えるにあたっても役立つ。

 

 

転生の形成

 

 「生まれ変わり」や「前世」は神話の時代から現代にいたるまで、様々な創作物で幾たびも取り上げられてきたモチーフである。しかし、なろう的「転生」につながる作品を具体的に挙げるとなると途端に難しくなる。先の年表でも2010年まで「転生」に分類されている作品はごく僅かで、なろうに影響したと言える作品も僅かではないか。

 某所で『幽☆遊☆白書』(1990-1994年)がなろう的「転生」の祖ではないかという指摘があった。wikipediaからあらすじを引用してみよう。

主人公の浦飯幽助は、車に轢かれそうになっていた子供を助けたが、死んでしまう。しかし、幽助の死は霊界にとって予想外の出来事であったため、幽助は生き返るための試練を受けることになり、霊界案内人のぼたんと共に霊体として幾つかの事件を解決する。

 今見ると惚れ惚れするほどなろう的な「転生」だ。ただしこれは「転生」発明以後のバイアスを以って祖先を無理やり措定するようなもので、実際の影響関係は曖昧である。私はあんまり影響していないと想像している*3

 

 なろう的「転生」を用意したと明確に言えるものがある。それは個別の作品ではなく、ゼロ年代にウェブ上で形成された二次創作のコミュニティだ。『web小説における「転生」普及過程』によれば、2008年にSS投稿の場が大規模掲示板(主に「Arcadia」)へと集約され、不特定多数の匿名の人間が関わる二次創作のコミュニティが生じ、メタゲームが始まり、「転生」の機構が広まったという。しかし「転生」はなぜ必要だったのか。

 内容で言うならば、原作主人公等を別の作品に送り込む、「クロスオーバー」の一手段として。そして現代人的なオリキャラを、作品世界に放り込む「転生オリ主」という形態として。

 商業作品の原作というある種の「異世界」に対して、価値観の通じるキャラクターを送り込む手段として、「転生」という手法が用いられた。

――『web小説における「転生」普及過程』

https://ncode.syosetu.com/n4531hu/

 「転生オリ主」は最重要概念なので説明しなおす。「オリ主(オリジナル主人公)」ものとは、原作には登場しないオリキャラ(オリジナルキャラクター)を主人公とする二次創作を指すミームである。二次創作とオリ主に関しては古くから「メアリー・スー」(原作の主要キャラクターよりも格段に優秀な作者の分身のようなオリキャラ、初出1973年)の問題が知られていた。

 ゼロ年代日本で起こった革命とは、緩いメアリー・スーとして「原作を読んだ(/観た/プレイした)人間が原作世界に迷い込み、二次創作の主人公として語り出す」構造を発明したことである。オリ主は優秀である。原作を読んでいる(=物語の顛末・問題の解決策をあらかじめ知っている)ことで作品世界の中で優位に立ち回れるから。オリ主は作者や読者の優れた分身である。彼は作者や読者と同様に作品を読み、現実世界の知識や倫理をベースとするから。彼は作者や読者と同じ視座を持ちつつ、作品世界の内側から作品の不満点を改変しようと試みるから。

 しかし、虚構と現実の壁(「第四の壁」)をどう破ればいいのか。「転移」では説得力が足りない、という直観は当時からあったらしい。「転移」先の「異世界」はあくまで「現実と(ごく稀にでも)接続し得る、現実とは異なるリアル」でなければならない、というリアリティ/空間の等方性だ。『ナルニア国物語』でクローゼットを通じて現実世界と異世界を行き来できたことを思い出そう。

 最終的にゼロ年代日本が出した回答こそが「転生」であった。現実世界での死を代価とするので、どうか虚構の異世界に行かせてください、と。この時期生じた「神様転生」なるミームは転生の過程に「神様」が関わる(「儂のミスでお主を死なせてしまったので、お詫びとしてお前の好きな世界に転生させてやろう」のような)ものを指すが、その根底には「神様」ほどの上位存在を持ち出さない限り第四の壁は破れないだろうという設定の荒唐無稽さに対する認識がある。

 

 補足(発展的内容):「転移/召喚」の要素をもったファンタジーの古典として『はてしない物語』(1979年)は注目に値する。ここでの「異世界」は『はてしない物語』と題された本の中の世界なのである。ただし、この作品は「虚構」の世界のリアリティを「現実」に接近させることに文章の半分を割いている。第四の壁を突破したというより、虚構(作中作のレベル)を現実(作品世界のレベル)にまで引き上げたという方が正しい。やはり「転移」において移動元と移動先には等方性がなければならない。

 転生オリ主の状況では虚構は強固に虚構である。作中作ではなく現実世界における作品が移動先となるため、『はてしない物語』と同様の工夫は使えない。そもそも主人公が作品世界に移動することの説得に全体の半分を使う二次創作などあり得ない(逆に面白いかもしれない)。さらに言えば、転生オリ主の移動先となる作品(たとえば『IS 〈インフィニット・ストラトス〉』(2009年-))は幾重にも漫画・アニメ的リアリズム、あるいはゲーム的リアリズムが振りかけられている。つくりものから生まれたつくりものから生まれたつくりものから……。このような状況でリアリティの等方性など望むべくもない。

 あるいは、現実を強固に虚構だと認識できる人物なら、漫画・アニメ・ゲーム的リアリズムで彩られた虚構世界にも「転移」できるのだろうか。なろう内で「転生」と「転移」の文脈が交わり可換になっていく過程で起こったのは現実の虚構化(漫画・アニメ・ゲーム的リアリズムの水準まで)と言える。現実を虚構化するイデオロギーがテクストに埋め込まれ、広まっていった。

 なろう読みは作品がフィクションであることを強く認識し、現実との区別をつけたつもりでいる。だがどう強弁してもリアリティの観念に漫画・アニメ・ゲーム的リアリズムは、ひそかに混ざっていく。知識の不可逆性。というのはつまり私のことだが。

 

 補足2:2008年のArcadiaにおいて「転生」要素のある作品はタイトルに「(オリ主 現実→)」や「(現実→ネギま!)」といった補足が付けられていた。「転生」がまだ流行り始めだった故。

 実のところ、「現実→」という表記は2006年まで遡れる。例えば『現実→DQⅢ 微妙な設定。』は「原作知識を持ったオリ主」という転生オリ主の要件を2006年の時点で満たしている。

 Arcadiaを離れるともっと遡れる。2002年の第二次エヴァSSブームにおいて既に「憑依」(現実世界から作品世界にキャラの精神を乗っ取る形で来訪。「体験モノ」とも呼ばれていた)はジャンル化していた。

「エヴァSS」から「小説家になろう」までのWeb小説年表 - WINDBIRD::ライトノベルブログ

 さらに遡って、99年に個人サイトで掲載された『新世紀エヴァンゲリオン』(TVアニメ1995-96年)二次創作でも「オリ主轢死転生(非トラック)」は登場する。人の欲望はとどまることを知らない。

転生トラックの元ネタを探しに行った - カトゆー家断絶 

 ただし、『エヴァ』二次において「転生オリ主」が流行ることはついぞなかった。「現実→シンジ」の「憑依」でことが済んでいたのである。「憑依シンジ」が選好されたのは「碇シンジ」が愛されていたから? いや、現実世界からの来訪者によって原作の人格を上書きするという行為からは、愛よりも「アンチ・ヘイト」(当時は「断罪系」と呼ばれていた)に近いものを感じる。「転生オリ主」が選ばれなかったのは単に、「スパシン」に代表される二次創作の文脈が積まれまくった「碇シンジ」と当時まだ寄る辺ない存在だった「オリ主」を比較した結果ではないだろうか。この裏にあるのは「原作ではなく周囲の二次創作を見ながら二次創作する」傾向である。第二次エヴァSSブームにおいてすでに原作未読系二次創作は一定数存在した。

 ここまで「男性向け」の二次創作ばかり扱ってきたが、本当は「女性向け」の二次創作、特に「夢小説」(特定の登場人物の名前を読者が自由に設定して読むことの出来る小説)の系譜も考慮すべきだ。

 まとめ。08年のArcadiaは、第一にそれまで荒唐無稽さゆえに決して主流ではありえなかった「原作知識を持ったオリ主」に「転生」という機構を通じて市民権を与えた。個人サイトより強く競争原理が働くがゆえの欲望の露呈が背景にある。第二に、市民権に付随して「神様転生」だとか「チート能力」だとか「ナデポ」だとか「踏み台転生者」だとかよくわからない余計なミームまで「原作知識を持ったオリ主」に関連付けている。これはのちに原作を空疎化する流れを生む。

 

 

転生オリ主からなろうへ

 

 転生オリ主的な「転生」の在り方、主人公の在り方、「異世界」の在り方が、やがて(2010年頃?)なろうに合流する。合流については当時のなろうで二次創作が投稿可能だったというプラットフォームの視点のみならず、その時の二次創作の流れに着目したい。

 転生オリ主がほとんど原作を改変しない「原作沿い」の作品が増えた結果(特に二次創作が盛んだった『魔法先生ネギま!』(2003-2012年)『魔法少女リリカルなのは』(2004年-)『ゼロの使い魔』(2004-2017年)の三作品)、原作の代わりに「原作沿い」作品を読んで他の二次創作をあさる読者が生まれた。そのような読者のうち一定数が原作を読まないまま二次創作の書き手に回った。しかも、そのような作者が書く作品が案外読めるものだったりした*4

 原作はそれほど重要ではなく、原作を改変する手付き、さらに言えば二次創作コミュニティにおける手付きの蓄積と引用・利用にこそ快がある、という価値の転換。言い換えれば「ミームや手付きが理解できる=コミュニティにおける閉じたコミュニケーションに参加できる」ことに快を見出す。コミュニティの発生以後、二次創作の主眼がメソッドやメタゲームに移り、一次創作への転用も容易になったのである。そしてまた、一次創作の場において二次創作的なコミュニティが形成される。

 なろうには「ナーロッパ」と呼ばれるミームがある。これは転移/転生先の異世界として多くの作品が曖昧に「中世ヨーロッパ風ファンタジー世界」を利用していることを揶揄した言葉だ。背景には、土地の詳細や独自性を空疎化し(原作の軽視)、「ナーロッパ」という大体似たような設定の上で過去の蓄積を踏まえながらどう遊ぶかを競う(手付きを重視する)価値観がある*5。「ナーロッパ」はなろうコミュニティの共通財産なのだ。

 一次創作『八男って、それはないでしょう!』(2013年-)が、同作者がなろうに投稿し人気を博していた二次創作『ゼロ魔転生物一人称練習作品』(2012年削除)の翻案らしいという話は、なろうにおける一次創作と二次創作の異常なまでの近さを象徴する。「ナーロッパ」の形成に『ゼロの使い魔』が強く影響していることも。

 

 

転生オリ主の自我

 

 「転生」。二次創作コミュニティにおける「遊び」から生まれたもの。これまで我慢してきたが正直に言うと、バカバカしい。あまりにバカバカしすぎる。説明していてなんだこれは、と思う。2008-2012年のなろう/二次創作のバカバカしさの最高地点が「転生」にある。

 

魔法先生ネギま! - にじファン作品レビューまとめWiki - atwiki(アットウィキ)

 

 これはかつてにじファンに投稿されていた『ネギま!』二次創作の辛辣なレビュー集だが、当時の二次創作コミュニティの治安が本当に悪かったことが伺える。雑にストーリーが扱われるし、雑に女キャラがオリ主に惚れるし、雑にクロスオーバーするし、文章下手なのばっかだし、雑にアンチ・ヘイトするし……。ついでに言うとレビュー自体がミームまみれで、これを理解できるかどうかでコミュニティへの所属が分かる。

 まだ「チート」について説明していなかったのでここでしておく。日本語圏ではコンピューターゲームにおける不正行為(ハッキングしてアイテムをマックスにする、オンラインバトルロワイヤルゲームで無敵になる等)を「チート/cheat」と呼び、そのまま「イカサマ・ずる」を意味するインターネットスラングとして定着した。さて、転生オリ主は転生の際、特別に強力な能力を与えられることがある。メアリー・スーとして活躍するためだ。このような無法の異能を誰かが「チート」と蔑称で呼びはじめ、そのまま二次創作界隈で定着した。なろうにおいて転移/転生主人公が異世界への到着と同時に与えられる特別強い能力も、この文脈で「転移/転生チート」と呼ばれる*6

 転生オリ主の悪名高い点は、「転生チート」で部分的なクロスオーバーをしていたことだ。たとえば『リリカルなのは』の世界に行く際「神様」からお詫びとして『Fate/stay night』(2004年)の「無限の剣製」の能力をもらう、など。一度死によって第四の壁が崩れ去れった後なら虚構同士の境も無視できるらしい。素面で取り扱うことをどこまでも拒む「遊び」の空間だ。

 転生オリ主はときにシリアスぶる。「自分だけこの世界をフィクションとして認識していて孤独だ/周りに対して不誠実ではないか」「自分は人間を結局は原作キャラとしか思っていないのではないか」「原作のストーリーに従えば多くの人間が救える。しかしそのために目の前の人間を犠牲にしてよいのか。一方で目の前の人間を救うことにより原作ストーリーが崩壊し多くの人間が死んだとき、自分は責任をとれるか」。全くもってバカバカしい懊悩である。「転生」のバカバカしさ、仕組みの無理を相対化できない限り彼らの悩みは空疎なままで、読者は「おお」「いつもの」で済ませてしまう。

 しかし、彼らのシリアスぶりからまだ何か引き出せるような気がする。『はてしない物語』や虚構性にまつわるポストモダンの諸作を読んだ上で、転生オリ主を含むゼロ年代二次創作コミュニティの文脈を再検討し、批評や批評的作品として結実させることはできないか。『リリカルなのは』の二次創作は本当にメタが回っているから、私と同じ問題意識で「転生」まわりを批評的に扱った作品があるかもしれない。

 

 なろうに輸入されたあとの「転生」も基本的には転生オリ主の血を引くバカバカしいものだった。だが2010年代の後半になり「アラフォーでワープアのおっさんが異世界転生してチートスキルで無双する」みたいなのが出てくると、一気に切なくなる。

 転生オリ主には「虚構世界へ行くためなら死ぐらいくれてやる」という狂熱があった。テクストを斜め読みすれば、彼は自らの死によって世界を一つ創造することができるというエコノミーを固く信じたのである。世界を覆い尽くさんとするメアリー・スーの膨大で空虚な自我。私の死後、世界を蹂躙してみせようか。これを遺言とする。「転生」の文脈から生まれた「チート」、同時期に別の文脈から生まれたらしい「主人公最強」の概念も、転生オリ主の空虚さに貢献する。

 ひるがえって、なろうの「アラフォーで~」のような場合の「転生」は、天国信仰であり、熱ではなく祈りだ。ささやかな欲望は痛みの紛らわしに向いている。存在の代価を死で贖えると、彼らが本気で思っているわけではない。単純に年齢層が高くなったとも、狂熱の前提にあった諦めが露呈したとも言える。

 転生オリ主のことは他人事と思えずいまいち冷静でいられない。批評するには近すぎる。この辺りで筆をおこう。

 

 補足:「転生」「転移」が混ざっていく(「ある朝目覚めたら異世界の五歳児になっていた」等)過程で、次第に神を介さない転生が増えていった。「異世界/作品世界の人物が、現実で生き死にした人間の記憶や人格をあるとき突然(/徐々に)得た」といった具合に。メタが回って神様まわりの展開や設定が不要になったらしい。こういった「記憶転生」(「憑依」の言い換え?)では身体的経験を伴わない記憶と人格の関係が問題になる。そもそも、「転生」において記憶/精神/魂のみを移植できるという設定は心身二元論的だ。「記憶転生」の扱いは作者によって異なり、転生後の人格は完全に転生前と同一になったり、身体に引っ張られたり、転生前と転生後が何らかのバランスで融合したりする。

 身体・精神・転生の問題圏となると「TS(trans sexual)/性転換」に触れるべきだろう。ほとんどの場合男性が女性(それも美少女/美女)に生まれ変わる。ジェンダーアイデンティティに触れることの怖さ、女性表象の扱いの雑さから、私は苦手である。作者と読者の欲望がどこから来てどこへ向けられているのか未だに理解できていない。

 「転生」は命や死を代価とするエコノミーの存在を前提とした。命や死を交換し、価値を計量する市場。それは「奴隷」のエコノミーと同一である。なろうで「奴隷」を取り扱いながらポイントを伸ばした最初の作品は『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』(2011年)であり、「転生」の浸透と同時期なのは偶然ではない、と言いたい(『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』自体は「転移」ものだが)。都合のいい女、従順な女、不遇の女、金で交換されるべき女、〈父〉に従う女。男の欲望を過激に満たす、いかにもポルノチックな記号の発明であった。ジェンダー的にも非常に危険だし、よく古代ローマギリシャの扱いが良い奴隷を引き合いに出すが本質的にはルネサンス以後の銃一本で数十人と交換されるような奴隷なので、「奴隷」は内輪でこっそり楽しむべきだった。しかし欲望の市場原理に従って表に広まってしまった。

 

 

[refrence]

 

なろう史資料集:https://ncode.syosetu.com/n1393gt/

web小説における「転生」普及過程:https://ncode.syosetu.com/n4531hu/

二次創作関連の補足:https://ncode.syosetu.com/n7135hs/1/

「エヴァSS」から「小説家になろう」までのWeb小説年表 - WINDBIRD::ライトノベルブログ

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社

ウェブ小説から読み解くポストモダンの問題 - Laborify

二次創作(を/から)視る:

http://nss.atlas.vc/other/thesis.htm#footnote76anc

ファンタジーの世界と RPG ─新中世主義の観点から :

https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/iilcs/14_lcs_31_1_okamoto.pdf

エスカンド・ジェシ異世界ものにおけるゲーム的世界の考察 テクストに見られる現代日本社会批判を巡って』:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jinbunxshakai/2/7/2_39/_pdf/-char/ja

 

(ちゃんと読んでいない文献集)

酒井駿太郎『『無職転生』論 : ウェブ小説におけるゲーム的リアリズム継承の一例について』

玉井建也『ウェブ小説に見る物語構造と虚構性 ― 『転生したらスライムだった件』を事例として ―』:http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/02/tuad-bulletin27-7-tamai.pdf

現在、「異世界論壇」が立ち上がっているのである。異世界「論」ブームなのだ(俺の観測範囲で) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

 

 

 なろうの読解とは全て『異世界迷宮で奴隷ハーレムを』の読み替えにすぎない、というのは正しい。

 

 

 

 

*1:この二つを区別やミームの歴史的経緯は今回扱わない。「転生」「転移」「召喚」まわりだと「憑依」なるミームが二次創作の文脈から出てくるが、これも扱わない。

*2:ガリヴァー旅行記』(1726年)や『不思議の国のアリス』(1865年)や『遠野物語』(1910年)は漫画・アニメ・ゲーム・ラノベ・大衆小説その他に強く影響を与えた作品だが、なろう的「異世界転移」の祖先として挙げることには疑問符が付く。これらは「異界との接触」という大テーマの中で取り扱われるべきだろう。我々の興味はあくまで「異世界転移」という小テーマにある。

*3:GS美神』(1991-1999年)は2007年あたりまで二次創作が活発で、作品内に転生のロジックがある。『幽☆遊☆白書』より『GS美神』の方がまだなろう的「転生」に影響しているかもしれない。『web小説における「転生」普及過程』参照。

*4:追記:この流れは『Kanon』(1999年)二次の頃から見られたらしい。オタク的な表現が物語消費からデータベース消費(東浩紀)に移ったことが背景にある。『エヴァ』二次は当初「考察」や「補完」など物語消費が中心的だったが、原作放映から時を経て原作の影響が薄れるにつれ、データベース的に消費されるようになる。例えば、「LAS」「LRS」のようなキャラ萌え、「スパシン」「断罪」のようなメタゲームの加速。01-02年頃には『エヴァ』でも原作未読系二次創作が見られた。

*5:これは「興味・関心への注力の許容、無関心部分の捨象の許容」ともまとめられる。メタゲームの「遊び」に主眼があるのだから、細かい独自設定を開陳されても(それが興味関心を吹き飛ばすほどの強度がない限り)冷めるだけだ。そのようなコミュニケーションのあり方。

ウェブ小説から読み解くポストモダンの問題 - Laborify 

*6:「チート」に関する歴史的経緯は正確でなく、私の推測が多分に含まれている。「チート」が当初蔑称だったというのは匿名掲示板的な罵倒の臭いをかぎ取ったことからの推測。なろうにおける「チート」が二次創作の「転生チート」に強く影響を受けたのは間違いない。しかし「転生」以前の「転移」作品にも「チート」という言葉が使われており、「転生チート」合流以前から何某かの文脈があったようにも思える。