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2021/11/22-23:入沢康夫『詩の逆説』『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』

 

wagaizumo.hatenablog.com

 

 これの続きとして、入沢康夫の詩論・評論を読む。宮沢賢治との関係から詩作品『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』について少し論じてみる。

 

2021/11/22 入沢康夫『詩の逆説』

 

入沢康夫『詩の逆説』(1973年、サンリオ出版)

 

 これを読んでいる。ほんっとうに同じテーマについて喋り続けているな。主義が一貫している。側面は違うので説明の重複はないが。いや、やっぱり重複もけっこうある。

 入沢康夫の根本的な姿勢が知りたければ、現代詩文庫の『入沢康夫詩集』か『続・入沢康夫詩集』の詩論の部分を読めば十分。そこに書かれていることのヴァリアントを延々と展開しているにすぎない。*1

 「詩は自己表現ではない」というのは詩作を始めた頃から何となく頭の中にあったのだろうか? 10代の頃書いたという『狐』をみると、もうすでに「語りの多層性」のようなものが見えてくる気がする。

 

 狐

 

すすき原を

壁土色の野末を走っていく狐

むにむさんに生きていたかった

 

おもいを走ることにだけひそめ

遠(とお)山脈(やまなみ)のかげにあこがれては

ともすれば

草に跳ね 草に滑った

 

http://shiika.sakura.ne.jp/beloved_poet/2012-06-29-9541.html

 

 「詩は怒りです」と言ったその「怒り」もこの中に? 

 また後述するように詩作最初期は友人(美術部+文学部)と共に野外へ出て詩のスケッチをとっていたらしいが、その雰囲気もあるかもしれない。

 

 

 悪意の詩の先駆者として「マルドロールの歌」は読んでおくべきかもしれない。また、滝口修造中期の作品も戦前のシュルレアリストとして影を落としているかもしれない。

 『定本・富永太郎』について。富永太郎が「自己が作品を創り出す」のではなく「作品の中で自己を創り出す」ので良いのだと教えてくれたらしい。入沢康夫を詩人へ導いた最後の一押しだったとか。ここではどちらかといえば定本編集の方法論に関心がありそうだ。

 

 こんな感じで、大量の詩を読み、一部の詩を気に入り、極めて屈折して取り入れたのだろうか。知識は作者に蓄積されるのであって、〈詩〉に蓄積されるわけではない。

 

 大江健三郎万延元年のフットボール』とかボルヘスとか60年代らしい話題もちらほらある。

 

 

 

2021/11/23 入沢康夫宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩

 

入沢康夫宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』(1991年、筑摩書房

 

 入沢康夫宮沢賢治体験。松江が田舎なので戦前は国威発揚に使われた「雨ニモマケズ」しか読んだことがなかった。

 戦後、齢十五六の入沢康夫がスケッチ帳を手に詩作を試み始めた頃、ちょうどそのときに宮沢賢治の詩・童話へ巡りあったらしい(スケッチ帳を手に、というのは宮沢賢治の逸話とも重なる。農学校教員時代の賢治はメモ帳を常に携帯していて、何か思いつくやいなやシャープペンシルで猛烈に心象スケッチを綴るのだ)。あの「宇宙の切れ目からはみ出してくる昏さ」を感じるには小学生よりも十五六の方が適切だった、とも述べている。

 

 『校本宮沢賢治』の編集作業は想像を絶するものだったとか。賢治はもうとにかく改作するのだ。ある一つの完成形をもとめての推敲というよりも、とりあえずの定稿が出来て、それでとどまることなく改作を重ねるといった方が正しい。発表済みの原稿も未発表の原稿も変遷する。これを指して〈四次元芸術〉なのではないか、と入沢は指摘する。作品の分岐・収斂は迷宮じみていて、時の分岐・収斂を思わせる。*2

 例えば、『春と修羅』。まず初版までに「宮沢賢治の改作癖」「当時の印刷の不便さ」「まだ駆け出しだった出版社の不慣れ」の3つで混乱が起こっている。更に出版後も、詩人は三つの異なる本に違う手入れを施している(それらはver2→3→4という直線的な手入れではなく時に互いに矛盾する!)

 

 『校本』におけるほとんど偏執的な作業に対して宮沢賢治研究者コミュニティ(どうも結構いるらしい)から反響/引用があるかと思ったら全然なかった。10年経ってやっと出てきたと思いきや、全く的外れでがっかりしたという下りが良い。

 宮沢賢治入沢康夫・天沢退治郎らの方向性で研究したい人が当時いなかったのだ。草稿研究は客観的ではあるけどかなりしんどいし地味だ。基本みんな好き勝手やってる。今はどうなのか知らないが。

 

 

 で、入沢康夫が『校本』での作業をきっかけに作ったのが『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年、青土社)である。「座亜謙什」(おそらく「ざあけんじゅ」と読む)は宮沢賢治が一度だけメモに残した自分の名前のもじりだ。作者本人による「種明かし」は以下のツイートスレッド参照。

 

 

 詩としては7篇しかないが、実際にはそこに10篇のエスキス(Esquisse(仏):下絵、スケッチ)を見出すことができる。第一から第九までと、冒頭にある無印のエスキス。

 

 少し書き起こしてみよう。冒頭、無印の「エスキス」

 

かつて座亜謙什と

名乗った人への

九連の散文詩

エスキス

 

    一、

 

あなたの足あとを辿つて(しばしばは逆に辿つて)私たちは長い旅をして来たのだが、それでゐて私たちはまだ、あなたの真実の名前を知らない。ただわづかに、あなたが戯れのやうに、砂に書き遺して行つた座亜謙什の名でもつて私たちはあなたを、あなたの幻を呼ぶ。私たちが、国境の土手に一列に並んで、二たび三たび西に向つて声を放てば、暮春の月が私たちの頭上に赤茶けた光を幾本となく吊り下げる。てつぺんに象の形を刻んだ石柱の向ふで、花をつけた苹果の樹が、厖大なあなたの孤独の、その幾分かでも私たちに教へようとあせつて、しきりに爪先立ちをしてゐる。

 

    二、

 

私たちは時折り踏み迷ふ、あなたの作つた庭の中で。庭は時間の海の上に幾重にも折り重ねられ差し掛けられてゐて、その折り目のあたりで、草はことさらはなはだしく生ひ茂つてゐるのだ。一見ま新しい壁が、またしても音なく崩れて、その下から、これまで誰の雌にも触れたことのない絵図が姿をあらはすとき、私たちはあわててその残骸とその絵図とをスケッチする。私たちの足許がいつの間にか透明の板になり、はるか下の下の方に、巨大な星々の都市が浮んでゐる。

 

 「二」は全集作成の経験そのままといった様子。経験を作品の構造として活かしたのでメタポエムにも映る。

 『春と修羅』の草稿は戦前行方不明で、空襲の際本家の焼け跡から(最初の推定11ページを除いて)「クリームパンのような色で」見つかったらしい。

 

 この「エスキス」の次が、「第一」「第二」を飛ばして「第三のエスキス」である。第一と第二の内容はここに織り込まれている、らしい(なんなら第四の内容まで一部含む)。

 

かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩

第三のエスキス

 

〔(ナシ)→②かつて〕座亜謙什〔(ナシ)→②〘と→を〙名乗つた人→③と/名乗つた人→④と名乗つた人〕への〔(ナシ)→③/〕〔十四→①九〕連の散文詩〔(ナシ)→③(エスキス)→④(第二のエスキス)〕

 

    一、

 

あなたの〔(ナシ)→②足〕あとを〔追つて→②逆にたどつて→③辿つて(しばしばは逆に辿つて)〕私たちは〔長い→②しばらく→③長い〕旅をして来たのだが〔(ナシ)→③、〕それでゐて私たちはまだ〔(一時アキ)→③、〕あなたの〔本当の→②真実の〕名前を知らない〔(一時アキ)→③。〕ただわづかに〔(一字アキ)紙の余白に→③(削)〕〔(一時アキ)→③、〕あなたが戯れのやうに〔(ナシ)→③、砂に〕書き遺して行つた座亜謙什の名でもつて

 

 嫌になってきたのでここで止める。「第三」と「第八」のエスキスはこんな感じ。これを読んで「うっ」となる感じと宮沢賢治の原稿をかき集めて用紙やペンの種類等の細部を検証し改作の流れを決定していくときの「うっ」となる感じはそう遠くないのではないか。実はあまり戯画化されていない、と推測している。

 何にせよ我々の「書くこと」「読むこと」に対する常識がここで揺さぶられる。

 大量の予備知識を仮定されるよりはいいけど、これちゃんと読むの面倒くせえな。でもまあ面白い。「私たち」が「あなた」の足あとを辿っていたのが、「私」が「あなたたち」に追われるようになり、「私たち」が「あなた」に追われるようになり・・・座亜謙什の配役も変わり、ひいては語り手が何者か(変わっていくとしたらどう変わる?)、「八、(欠落、元来無かった?)」と注記する編纂者は何者か、という問いが立ち現れる。

 テキストと語り手と編纂者と作者と読者の関係性が突き詰められる。

 

メモ:「エスキス」の「七」で「父親」が出てくる。これは結構珍しい。入沢康夫を読解するにあたって「父の不在」は(精神分析的な?)鍵になる気がする。

 

 

 

 話を『宮沢賢治 プリオシン海岸からの報告』に戻そう

 

つまり、そんなとき、僕は理路整然としゃべるということを大変信用していないからこそ、詩についてはなるべく理路整然としゃべっておこうと腹を決めているわけです。私にとって詩とは何かといった話は、せいぜい眉に唾をつけて聞く必要があります。大切なのは、詩を書き、詩を読むことを通して、われわれの中に起って来る「ある感じ」(もっともらしく言えば「感動」)であって、それが本当に深く感じとれれば、もう、何も言う必要はない

――「詩と体験」(1979)

 

 前半については冗談半分本気半分みたいな。ポップスにおける音楽理論が結局のところどこまでも後付けでしかないのと少しは似るかもしれない。

 〈詩〉とはつまるところ(おそらくは言語外にある)「詩の根源」に接近する試みである、とはたびたび書いている。

 

 宮沢賢治の研究において作者と作品は不可分に結びついており、島地大等編著『漢和対照妙法蓮華教』と片山正夫著『化学本論』が世界観の形成に深く影響していた、ということが今や明らかだとか。

 同様のことが入沢康夫でできると気持ちがよい。気持ちがよいのだが、おそらくは・・・。彼の作品の肉体性に作者の体験が影響していないはずがない。本人も自分が主知的/理論的な詩人だと言われることに反駁してそう説明していた。

 だが、肉体(死体?)は幾重にも折り重なっている。知性も肉体も〈詩〉という場において相対化される。

 

 

 

2021/11/xx(果たされることのない未来における日記)

 

 以下は2021/11/22以前に書き留めたもの。

 

宮沢賢治春と修羅』を読む

 

 

 日本語は気を抜くと抒情を伝えてしまう。視覚的には「ひらがな」という文字が曲線的なこと、音声的には母音と子音が分かちがたく結びついていること(母音の種類が少なく母音による韻律が発展しなかったこと)、反抒情の伝統が無かったこと。

 小笠原鳥類の言う万葉集の蠢き・不気味さは、それが万葉仮名で書かれたうえしばしば音声が失伝していることが大きく影響しているだろう。

 

 さて、未だに読み継がれる戦前抒情詩人の宮沢賢治。今見ると音声的な部分がハチャメチャに上手い。日本語の歌詞で描くことのできる抒情の上限がすでに示されていたかのようだ。

 ORIGINAL LOVE田島貴男宮沢賢治を愛好しているらしいが、彼が福島県の出身で東北の闇の深さと相通ずるところがあるのだろうか(あの人間的なくどさ・過剰さが?)

 

 

 なぜ宮沢賢治かといえば、入沢康夫宮沢賢治の研究者なので一方からもう一方の影を踏むことができないか試みたのである。連日爆速で詩の歴史をインプットしているのも入沢康夫を歴史の中に位置づけようという詩論/史論/私論/試論のための準備である。

 

 

追記(2021/11/yy):読む気が起きない。単純に、100年前の文体が趣味でない。

 

 

 

 

*1:そういえば『続続・入沢康夫詩集』が2016年から作業中らしいがいつになることやら。時間がない

*2:ボルヘス「八岐の園」 強力で観念的なテーマを短編に収めるため、失笑してしまうような下らない推理小説的トリックで幕引きすること。それによってなお一層「時の分岐・収斂」というテーマが神秘的に見えてくるのだ、と思う。筆者がボルヘスで一番好きな作品。