古い土地

暗い穴

詩をよむそれはくるしい 2:高野喜久雄

 

 

……なおも和解か

――高野喜久雄「今日の言葉」

 

 

 高野喜久雄(1927-2006)。詩誌「荒地」に参加した戦後/現代詩人。高校の数学教師を生業とし、「高野喜久雄の公式」と呼ばれる円周率の高速計算式を発表している。また、「水のいのち」など合唱曲の作詞家としても名を残している。

 彼の詩には「神」や「主」といった単語が登場し、構造的にも宗教詩の色合いが強い。私は高野がキリスト者だと確信していたが、検索すると仏教徒ではないかという情報も出てくる。たしかに、彼のストイシズムからはかすかに禅の匂いがする。

 

 高野の詩の明確な弱点を指摘しておこう。第一に、宗教説話に還元されかねない奥行きのなさがある。彼の詩作のモチベーションに倫理的・存在論的な問があることはあきらかで、その表現方法はだいたいの場合単純にすぎる。とはいえ、率直さゆえに「物語」が血肉化されることもなくはない。

 第二に、詩的想像力の乏しさがある。語彙の狭さはある程度意図的な選択だろう――東京に出る前の高野は言葉をまき散らすシュルレアリスム詩人だったのだから。かといって「荒地」参加後の彼の詩語・比喩・文法が鍛え上げられたもの、平易な言葉で効果的に多くを語るものとは、たいていの場合言えない。

 

 では、高野喜久雄のどこを評価するのか。彼の特質はこういった「貧しさ」を「美しさ」に変換できたことにある。清貧と切り詰めの美しさ。それは思索が「無」の方向へ向かうとき、ストイシズムとして現れる。

 彼の詩において、近代的自我や思考の前提になる「近代」がズラされることはない。信仰と「近代」の関わり方もオールドタイプに見える。その限界は認めつつ、詩を読むことにしょう。

 

 

1950-60年代

 

高野喜久雄高野喜久雄詩集(現代詩文庫40)』(思潮社、1971年)

『現代詩大系⑦』(思潮社、1967年)

 

 まず高野の作品のうち、方向性が標準的なものを二つ取り上げたい。「崖」(『独楽』)の全文。

 

はじめて あなたを抱いたとき

抱くことの意味など 考えはしなかった

二度目にあなたを抱いたとき

もはや

もはやわたしは 崖を抱いていた

何故であろうか

あなたのみならず 抱くものは

みな二度目から わたしの崖となる

 

 四行目の「もはや」によって「あなた」が「崖」に変貌する瞬間そのものを捉える構成が見事である。「崖」という隠喩も謎めいて気が利いている。高野の用いた比喩の中では「崖」が随一かと思う。……つまり今後、象徴主義/イマジズム詩のような比喩の巧みさを期待しないでほしい。それは全く彼の範疇ではない。

 「何故であろうか」と問うのが高野の近代病の出発点であった。「鏡」(『独楽』)の全文を読む。

 

何という かなしいものを

人は創ったことだろう

その前に立つものは

悉く 己れの前に立ち

その前で問うものは

そのまま 問われるものとなる

しかも なお

その奥処へ進み入るため

人は 逆にしりぞかねばならぬとは

 

 近代的自我と鏡、というテーマは非常にありふれている*1。高野の場合は「しかも なお/その奥処へ進み入る」欲求があり、そのために「しりぞかねばならぬ」逆説を「かなしい」と表現する。そこには当然苛立ちもあるのだが、言葉にするのは悲しみだけである。

 上の二篇は悪い詩ではない。個人的に「崖」は好みの詩である。他方、冒頭で述べた「説話的な奥行きのなさ」や「想像力の乏しさ」はこの二篇だけで察せられるかもしれない。

 

 では、「ストイシズム」はいかにして現れるか。「手は」(『存在』)の全文を読む。

 

手は たどれ

逆の道

つかんだものを

ひとつずつ

はなし はなして

その手には

何物も 残さぬ道を

 

手は たどれ

逆の道

失うものの

すべて 尽きはて

そのくう

その空の手は

きびしく あわせ

 

 音楽的にも視覚的にも非常に美しい詩だ。音楽的というのは明治の新体詩のような五七調を現代的に使っている点。「手は たどれ/逆の道」はつい口に出したくなるフレーズだ。視覚的というのは「はなし はなして」「きびしく あわせ」のように空白を効果的に使い、各行の末尾が作り出す文字のライン(「れ」「道」「を」「つ」……のライン)が美しい点。前半と後半の二連の音楽的・視覚的・意味的な対応(のズレ)も巧みにデザインされている。

 詩の意味内容は「つかんだもの」を「ひとつずつ」手放して「空」に向かっていくことらしい。何も掴んではならぬ、何も所有してはならぬ、何も把握してはならぬ、と。「空」「無」は高野の詩に頻出するキーワードである。 

 最終行「きびしく あわせ」で私は、左右の手で互いの手首を固くつかみ合うイメージが浮かぶ。その手の持ち主が高野喜久雄だ。修行僧のごときストイシズムを日本で詩にする人は他にほとんどいない。

 

 次に「手品」(『闇を闇として』)の全文を読む。

 

紐です

端と端 結んで

輪にします

何でしょう これは

と聞くのは

やぼなお話

ほどきます

輪は どこかへ……

しかしどこへ 行ったのでしょう

問うのは

やはり やぼなお話

また結びます

輪です

またほどきます

ありません

また結びます

輪です

またほどきます

ありません

 

 「紐」とは「何でしょう」、この詩は「何でしょう」という問いかけが詩に内在し、さらにそれらを「聞く」ことは「やぼなお話」だという封じ込めまで先回りして描かれている。その抑圧のおかしさと切なさが味わい深い。高階のメタになりうるものをあくまで手品師の独白として具体的かつ手短に書ききった。

 反復の技法も巧みだ。「また結びます/輪です/またほどきます/ありません」のリフレインは無限に続くと思っても良いし、この詩を最後に完全に終わってしまうのだと思っても良い。私は後者の説をとりたい。

 

 同系統の優れた詩に「下さい」(『高野喜久雄詩集・二重の行為』)がある。全文を読む。

 

笛です

この孔に 指を

この口に 口を

あてて下さい

そして あなたを

あなたの無を下さい

無限に

この私

この空ろ

の中へ下さい

もっと もっと下さい

指 ふるわせて下さい

鳴ります

鳴りました ほら

少し

でも もっと

もっと鳴らねば

もう音が

聞こえない

わからない

もう許して

と言える程に

下さい

もっと

もっと下さい

もっと

もっと

もっと

もっと

 

 「手を」「紐」に引き続いて音楽性・視覚性が卓越している。「下さい」「もう許して/と言える程に」というフレーズは「死の欲動と人間の本質的なマゾヒズム」(フロイト)などが「聞こえない」はるかな地点を幻視させる。「の中へ下さい」「鳴りました ほら」「下さい/もっと/もっと下さい/もっと/もっと/もっと/もっと」。どこまで私たちは運ばれてしまうのか。

 「紐」と「下さい」において詩人は例外的に説話的貧しさから逃れている。

 

 もう少しゆったりした詩を読む。「ひとりの友に」(『高野喜久雄詩集・二重の行為』)の全文。

 

「何も無い」と言うな

岩の中には 一羽の鳥がいる

眼をくりぬかれ

なおもその眼を探し飛ぶ一羽の鳥が

 

しかし 友よ

何故かと 問わない方がよい

何故 岩の中に空は在るのか

探した眼は 何故無かったか

問うことは苦しくて

問うことは過つのみである

 

ただ 残された

ぎりぎりの道を行き

岩にぶつかり この鳥を見る

ほかはなかったぼくたちの眼だ

だがやはり

深く刳られてもいたぼくたちの眼

 

※刳られ=抉られ

 

 やはり「無」「何故」の詩。「岩の中で眼を探し飛ぶ一羽の鳥」のモチーフに惹かれ紹介した。

 

 「今日の言葉」(『高野喜久雄詩集・二重の行為』)という長大な思弁詩がある。「……なおも和解か」のリフレインが印象的*2。最終連だけ見ておきたい。

 

だが わたしは正しかったのか

「在ること」のめまいの中で

首を振り なお首を振り

なお立つためには言葉しかなく

喩しかなく

しかも喩を問う喩しかなく

もはやここから黙るしかなく

首を振り なお首を振り

振るしかなくて指を見る

曲がった指を見る

 

 自縄自縛ぶりに共感するしかない、と私は思う。「首を振り」のあとに「なお首を振り」が続き、さらにこの行がまた繰り返されることの戸惑い、逡巡、運動。

 

 60年代の締めとして、少し毛色が違う詩を読んでみる。「手」の全文。

 

「捜さないで…………

 神に向かっての 発芽です」

 

三日も遅れて

ぼくにとどいた君のハガキだ

駆けつけてみると

どこまでも深く 澄み切っている藍色の湖水

 

手を入れると 突然

手は手首から離れて

ゆらゆらと泳ぎ出した

まだあがらない君の屍体の方に向かって

 

 最終行はショッキングだが同時に陳腐な表現である。「屍体」は気取りすぎで、「死体」や「身体(しんたい/からだ)」の方が良かったのではないか。最終行の欠陥を抱えつつ詩が説話を免れているとすればそれは、前半六行のリアリティと「突然/手は手首から離れて」の超リアリティのおかげだろう。

 個人的体験がもとになっていると思しき詩として他に「父は」(『独楽』)や「「神は在る」」(『高野喜久雄詩集・二重の行為』)がある。悪い詩ではないけれど、「手」と同様にそれぞれ細部に欠点を抱えている。詰めが甘い。

 「手」を先の「手は」(『存在』)と比べてみると興味深い。手の役割がまったく異なっている。手は世界から何かを掴みとり区別するためのものだな、と思い、詩「手」の切なさは掴みたいものをもはや掴めなくなったことだな、と思う。詩「手は」では何かを掴もうとする欲望自体を忌避している。

 

 

1990年代

 

高野喜久雄『出会うため』(思潮社、1995年)

谷内修三『詩を読む 詩をつかむ』(思潮社、1999年)

 

 高野は1970年以後詩の分野で沈黙を続ける。1990年代に25年ぶりに出した詩集を紹介しよう。しかし、のっぴきならぬ事情で[谷内]から孫引きする。1980年代以降の詩作品はロクに図書館にない*3高野喜久雄の詩における「貧しさ」と「美しさ」と結び付きはそもそも[谷内]に負う。

 

 「無題」の全文。

 

無の中に光を宿し

人はみな 意味の一滴

 

まだ足りないぞ 壊れかた

問われかた

 

捨てかた さらに足りないぞ

はかり知れぬ あなたの遠さ

 

見るために  眼を閉じる

聴くために 耳をおさえる

 

殆ど砂になりかけて

目覚めると 葡萄の一房

 

なぜ捨てられて いないのか

なおも許され 注がれている

 

無尽の秘儀に照らされて

悲しいまでに あふれる無言

 

 やはり音楽性と視覚性を指摘しつつ、「まだ足りないぞ 壊れかた/問われかた//捨てかた さらに足りないぞ」「なぜ捨てられて いないのか/なおも許され 注がれている」の宗教的な凝視に共振するかどうかは読者にゆだねられている。私はいたく共感した。「私より先にやられてしまった!」と思った。

 

「何もかも」より抜粋。

 

意味という意味は壊れよ

許せぬものを世界と名付け

石の無言に釣り合えと

 

囁く声さえ もう聞こえない

とは言え なぜ捨てられていないのか

このなぜだけが最後に残る

 

 抜粋することで「中二病」的な読み方ができるようになって少し可笑しくなったけれど、前半連の重厚さに代えがたいものがある。

 

「さよなら」の末尾を抜粋。

 

さしずめ ぼくは「放下」と書いて

「さよなら」とルビを振り

また消して 「さよなら」とルビを振る

 

 

 「ルビを振り」「消して」「ルビを振る」における逡巡と時間と言葉の同期。言葉を定着させず動かし続けることの優れた例だ。

 

 

[おわりに]

 一つ一つの詩が軽めとはいえ引用しすぎたきらいがある。数を並べることで別の様相が浮かび上がってくることもなく。とはいえ、各々の詩に対しこれ以上どうアプローチしたらいいか分からない。語りの不作を自覚する。

 詩から浮かび上がる作者像の小説的読解は可能だが、私がやりたいことではない。

 

 

*1:「鏡」に関する鋭い批評の例として柴田元幸アメリカン・ナルシス』を挙げておく。

*2:「和解」で指される内容は「今日の言葉を昨日と明日を結ぶため使う」ことと関係するらしいが、よくわからない。

*3:[谷内]はたまたま出会った小気味よい詩の評論集である。90年代に出版された詩集を対象としている。良い詩の批評、ならびに詩の批評の組織的な捜し方を御存知の方は教えてほしい。