前回のあらすじ:
10年間友達だと思ってた男の子に告白され、失神
今回は小説の読解が多くなる。
5.フランソワ・ラブレー
本節と次節のテーマは失神の身体性である。まず、暴力との関連で考えてみよう。
昨今報じられる失神関連のニュースのうち、数が圧倒的に多いのは格闘技関連のニュースである*1。「失神KO」は競技の枠内で最も魅力的な結末なのだろう。この感性はおそらく神話の時代まで遡れる。古代ギリシャのボクシングにおける敗北条件とは、「人差し指を立て高く持ち上げてみせ」て降伏するか、「失神など行動不能」になることだった。
無論、古代と近現代の暴力を直線で繋ぐことはできない。ここでは紆余曲折の過程から注目すべき失神の叙述を1つ取り上げたい。
思想家ミハイル・バフチン(1895-1975年)は近代以前の西洋文学を研究する中で、「民衆の笑いの文化」が公式の政治・宗教的権威を揺るがすような「カーニバル文学」の系譜を見出した。近代のドストエフスキーをその末端に置きつつ、ルネサンスのセルバンテス、シェイクスピア、フランソワ・ラブレー(1483-1553年)から多くの例を取り上げている。
以下はバフチンの引用により有名になった、ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の1節である(『第四之書』出版は1552年)。おそらく中世・ルネサンス文学で最も有名な失神シーンの1つだろう*2。
いざ法院族の番がきますと、皆は、籠手をふりあげて、おめでとうござると、ぽかぽか殴りつけてしまいましたので、法院族は、片眼には腐った黒牛酪でも塗りこくられたように隈ができ、肋骨は八本へし折られ、胸骨はぐじゃぐじゃに潰され、肩胛骨は四つに割られ、下顎は三つに裂かれてばくばくになり、傷だらけになって失神してしまいましたが、何もかも、ふざけ半分で、わあわあ笑いながら行われたのですよ。
(「第十二章 パンダグリュエルが代理委任島へ渡ったこと、ならびに法院族の奇怪な生活について」、フランソワ・ラブレー『第四之書 パンタグリュエル物語』渡辺一夫訳、岩波文庫、改版2012年、p.124)
この抜粋とともに肉体を中心とした宇宙観「グロテスク・リアリズム」に関するあれこれが説明されるわけだが、最初に読んだときは「いや、笑えないだろ」とドン引きした。この重症が本当に「ふざけ半分」ならあまりに異文化すぎる。相手への情のなさという点では、次のようなWeb小説の失神描写さえ想起できる。
一番粘ったのが筋肉ダルマの将校ではなく、<回復魔法スキル>を持つ聖女だったのには驚いたけど……死んだ事に変わりはない。
彼女は尻をシバかれまくるうちに気絶して、その間に病原菌の餌食となり、最期は治療もできず弱々しい声でヒスっていたよ。
(「89話 男の嫉妬は見苦しい」、御影雫『【クラス全員で魔王転生】奨学生だった僕は初期ポイントの不利をくつがえすため、「自販機作製ギフト」を選び砂漠にダンジョンをつくる。あれ? 堅実な運営をしていたら、イジメっ子だった皇太子を抜いていました』)
しかし今回原典に当たってみて、接近する手立てはあると思い直した。ここまで省略していたストーリーを解説する。
主人公のパンタグリュエル一行が訪れた「代理委任島」という島は、「法院族」という一族が支配していた。修道士や高利貸しが貴族を痛めつけようと思った場合、法院族が派遣され、貴族に召喚状を渡しては恥も外聞もなく罵倒し、愚弄する。面子を傷つけられた貴族は「頭を棍棒で殴りつけるか、剣で斬りつけるか、膕をいやというほど叩きのめすか、相手をお城の銃眼壁や窓からおっ放り出すか」しかなくなる。こうして大怪我した法院族は、依頼者からたんまりと報酬をもらい、貴族からは彼らが破滅しかねないほど多額の賠償金をせしめ、「それから四か月間はお大尽暮らし」する。
法院族とは別に、この地には婚礼のお祝いで「お互いに拳で軽く殴り合う」風習があり、何をされても誰も異議を唱えられないことになっている。土地の殿様は婚礼のお祝いにかこつけて、法院族をなぐりつけることよう人々に依頼する。「遠慮会釈なしに、ぶっ叩いてくれ、お願いだぞ、ごつごつ、びちゃびちゃ、ぽかぽかとやってくれ」「一番見事に殴った者を、拙者が第一の寵臣といたそう」、と。
こうして引用した暴力失神のシーンに移る。指摘事項を列挙すると*3:
・「代理委任島(Procuration)」の物語は裁判・裁判官への諷刺で満ち溢れている。現実の裁判官に擬せられた「殴られるのが仕事」の法院族がオチで手酷く殴られるほど、当時の読者はスカッとする「優越の笑い」を覚えたはずだ。また和訳では分からないが、「代理委任島に渡った(passa Procuration)」は法律用語「委任状を渡す(passer procuration)」に掛かっている。ラブレーが大量にまき散らし今となっては笑いどころが不明なものも多い洒落の中には、ユーモアではなくアイロニーに走ったものもある*4。
・法院族の挿話はパンタグリュエル一行の仲間内で行われている笑い話として語られている。そのためラストで盛り上がって暴力が誇張されるのは話芸として自然だ。「失神オチ」でどっと湧くのだろうか。
・祝いの席でリンチのように1人が殴られる描写は、カーニバルにおける偽王の奪冠と嘲笑の儀式、あるいは王殺しの儀式(フレイザー『金枝篇』)を下敷きにしている。古代ヨーロッパから続く神話的想像力を背景とした、偽りの権力を暴く批判的な笑いである。
・婚礼のお祝いとして殴り合う風習は実際にヨーロッパの一部地方に存在した。打擲には性交の暗喩もある*5。参加者が意識せずとも「死と再生」が含意されていた。
笑い、死と再生、政治、性。肉体と暴力を仲立ちに、これらのモチーフを失神に読み込んでいくのが私の狙いの1つである。
そういう質問女の子にしちゃダメだゾ♪と頭突きを喰らわせ、失神させた相手の肉体に火をつけて、焼く
6.大江健三郎
ラブレーの次に大江健三郎(1935-2023年)を扱うのはお行儀が良すぎる気もするが、しかし現代的展開として触れておきたい。
そもそも大江がフランス文学を学ぶことに決めたのは、ラブレーの訳者・渡辺一夫による『フランスルネサンス断章』(1950年)を高校時代に読んだからだった。大学では渡辺を師と仰ぎつつ、当時翻訳されたばかりの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』に感銘を受けたらしい*6。バフチンの理論が日本で知られる前のことである。
ここでは大江の中編『セヴンティーン』(1961年1月1日)および『政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)』(同年2月1日)に登場する失神シーンを紹介したい。
『セヴンティーン』の主人公「おれ」はタイトル通り17歳の少年。左翼かぶれで自瀆中毒で自意識過剰で孤独だった彼は、皇国思想と出会ってから人生がうまく回り始める。『政治少年死す』では彼がさらに極右化して(というより「純粋天皇」を掲げるなど観念化して)、左派政党の委員長を刺殺し、逮捕されて鑑別所で自死するまでが描かれる。
『政治少年死す』は初出以来2018年まで公式に出版されなかったなど、政治的コンテクストと関連して説明すべき事項が多い。しかし失神とは関係ないし長くなるので、思い切って脚注に回す*7。
『セヴンティーン』は自意識過剰な少年の1人称による青春小説であり、その語りは妙に読みにくい。表現がいちいち過剰だし、感情の上がり下がりが激しすぎる。当時青少年の間で流行っていた貸本の劇画のような誇張ぶりだ(作中で主人公が親しんでいるのは《おお! キャロル》*8と映画)。それを大江の濃密な文体で描くから、正直どう読めばいいか戸惑う*9。
信頼できない語り手なのは確かだ。しかし、嘘のようで本当のこともかなり混ざっているかもしれない。「みじめな悲しいセヴンティーン」(主人公の名前は最後まで明かされない)の属性、「思い込みの強さ」「感覚過敏」「視線恐怖」「容貌へのコンプレックス」「被害者意識」「妄想癖」「思考の暴走」の見積もりには、慎重になる必要がある。
ここまで前置きしてやっと失神シーンを紹介できる。主人公が家庭だけでなく学校でも孤立し、毎晩悪夢を見るようになった経緯を説明する場面。
死の恐怖、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてしまいそうだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたび恐怖に気絶しそうだ。おれは物理の最初の授業のとき、この宇宙からまっすぐロケットを飛ばした遠くには《無の世界》がある、いいかえれば《なにもない所》にいってしまうのだということを聞かされ、そのロケットが結局はこの宇宙にたどりつくのだ、無限にまっすぐに遠ざかるうちに帰ってくるのだ、というような物理教師の説明のあいだに気絶してしまった。小便やら糞やらにまみれ大声で喚きながら恐怖に気絶してしまったのだ。気がついたときの恥ずかしさ、臭い自分への嫌悪、耐えがたい女生徒の眼、しかしそれよりも俺は、物理的空間の無限と無の観念から、時間の永遠と死せる自分の無の恐怖にみちびかれ気絶したのだということを告白できず、教師と級友に癲癇だと思わせることに懸命だったのだ。あれ以来、おれには心をわけあう真実の友がいなくなってしまった。その上、おれは悪夢のなかでその無限の遠くへ独りぼっちで旅だつ恐怖を味わわねばならぬことになったのだ。
そんなことある?*10
失禁・脱糞・失神のコンボは、流石にギャグだと思う。少なくともギャグを兼ねている。物理の最初の授業で説明される雑な宇宙論で脱糞するほど恐怖できる感度の高さには驚くべきだ。なお、この後体育の授業で800mを走る際にも色々あって走りながら失禁してしまう*11。ストレス性で排泄器官が弱いこと自体は誇張でなく事実のようだ。ケアが必要だと思われる。
周知のとおり「恥辱」は初期の大江の重要テーマであり、性や排泄物が絡むことが多い。しかしこのように展開するとは想像していなかった。
この誇張に溢れた場面は、近代小説のリアリズムではなくグロテスク・リアリズム(の現代版)に基づいている。
天に宇宙的恐怖があり、底に糞尿がある。天から底へと「下降」する通路、あるいは異界から現実へ帰還する通路こそが失神だという、全的な失神の宇宙論が読み取れる*12。そして地上では、失神をてんかんに偽るといった人間のこまごまとした政治がある*13。
失神によって、宇宙も糞尿も、近代以後分かたれてしまった精神と肉体も、かろうじて結ばれ得るのだ*14。しかしこの不気味で深遠な全体性、宇宙の複雑さは、17歳の少年には耐えきれないものだった。
次のような「月」「狂気」と隣り合った失神とも位相を異とすることに注意しよう。
月光うけて失神し
庭の土面は附黒子。
(中原中也「春の夜」『山羊の歌』1934年)
月があたしを見てる、ほらずっと目が合う、と言い残して失神
もう1つ、『政治少年死す』にも失神シーンがある。すでにお腹いっぱいなので簡潔に紹介したい。
広島の原爆記念日前日に主人公たちが左翼集会に押し入る場面。
おれの現実は後退しおれの映画が始まる、暴れ者の主役おれは恐怖におびえた学生の眼の大写しのスクリーンに体当たりする、女子学生の髪をつかんで駈けるおれの手に髪一束、背後に悲鳴、ぎゃあああ、ああ、カメラでおれを狙うやつを見つけ会場の隅に追いつめ、棍棒をカメラにうちおろす、頭でカメラを覆う、ばかだ、[……]
おれにむかってのしかかってくる群衆の顔のクローズ・アップだ、しかしそれはズーム装置の故障のように一瞬静止し、そして不意に学生どもの顔の大群は溶暗してしまう、ああ天皇よ、ああ、ぼくは殺されます、ああ天皇よ、再び明るくなるスクリーンはのぞきこむ警官たちの大群だ、それは近づきクローズ・アップは過度に進行し、[……]
(『政治少年死す』、『全小説3』pp.58-59)
主人公が大好きな映画に擬した、スピード感のあるアクション描写。大江の筆も乗っている。
ラストの失神は連続的な意識と叙述のもとに描かれている。前回取り上げたフォークナー『響きと怒り』の失神シーンとも比較されたい。「意識の流れ」の手法の形成に映画が影響したことを想起する。
7.ジョナサン・スウィフト
本節では失神の精神面に関する1つの徳を提唱する。
ジョナサン・スウィフト(1667-1745年)の『ガリバー旅行記』(1726年)は、当時流行していた旅行記の風体を借りた最初期の小説だ。空想旅行記という方向では先行するデフォー『ロビンソン・クルーソー』(1719年)に倣いつつ、笑いと諷刺を主題とした点で大きく異なる。当時のイングランド王への諷刺、スウィフトが敵対していたホイッグ党への諷刺、イングランドによるアイルランドの圧政への諷刺、科学技術への諷刺、古代以来変わらない人間の愚かさへの諷刺……。後年子供向けに書き換えられたヴァージョンには絶対収録できないような、痛烈でお下劣なパロディ・アイロニー・ユーモアに原典は満ち溢れている。
『ガリバー旅行記』の失神シーンに移る前に、補助線としてスウィフトの糞尿観を見ておきこう。
山田稔『スカトロジア』(講談社、1977年)によると、西洋文学における糞尿の扱いには陰と陽がある。陽とは「解放型=ルネッサンス型」であり、ラブレーからボッカチオ、チョーサー、バルザックと続く。陰とは「挫折型=実存型」で、近代小説の大半はこちらの型に属する。代表として挙げられるのは、「反逆」のサドと「嫌悪」のスウィフトだ。
とはいえスウィフトの糞尿遣いは単純な陰ではなく、むしろルネサンスから近代への過渡期を克明に記録したものと言える。スウィフトはラブレーの愛読者で、『ガリバー』の中でも糞尿描写はしばしば爆発の片鱗を見せる。第1部の小人の国でも第2部の巨人の国でも、まず問題として取り上げられるのは排泄関連であり、諷刺に関係なく興味津々なのは明らかだ。しかし大爆発までは至らず、小人の国で王妃の宮殿に起きた火事を尿で消化する程度の小爆発に終わる。
スウィフトは『桶物語』(1704年)で糞尿について生々しく書いたせいで、不潔・下品だという批判を受けていたらしい。『ガリバー』内ではそういった批判への反論を書きつつも([柴田訳]p.36)、18世紀理性の時代にふさわしい抑制の利いた糞尿観を内面化していった。
糞尿の恵まれぬ中途半端さ。これに対し、失神は豊かな中庸性を見せるのである。
第4部のフウイヌム国は、理性的で高貴な馬の種族フウイヌムが支配する、主人公ガリバーにとっての理想郷だ。ところでフウイヌムたちはヤフー*15と呼ばれる邪悪で毛深い生物を家畜として飼っているのだが、その容貌は醜くあれ、どう考えても人間である。
第4部はフウイヌムの理性的な反応が、ガリバーの話すヨーロッパ文明の様子やヤフーと対置されることで人間嫌悪を極める。一方、名誉フウイヌムのように振る舞おうとする滑稽で「騙されやすい(gullible)」ガリバー(Gulliver)は語り手として信頼できず、理性的なユートピア像に対しても自然と疑義が挟まる。例えば『1984年』の著者ジョージ・オーウェル(1903-50年)は、フウイヌムに対するヤフー支配から全体主義の最終段階を読み込んだ。
フウイヌムの大集会でヤフーを地上から抹殺すべきかが論争される(第9章)。ヤフーはフウイヌムを含むすべての動物から忌み嫌われる存在のようで、ヤフー自身もお互いを憎み合っている。結局若いヤフーたちを去勢し、種が絶滅するまでの間に驢馬を家畜として育成することに決まる。
さらにガリバーの追放も決定される。「理性的なヤフー」ガリバーを家に置くことは「理性にもとり自然に反する行為」だからだ。家の主人はガリバーに好意的だったが、毎日のように近所のフウイヌムたちからせっつかれ、これ以上押しとどめることができなかった。
これを知らされたときのガリバーの第1反応が、失神である。
主人の話を聞いて、私は悲しみと絶望のどん底に突き落とされました。大きな苦悩が募ってきて、耐えられず失神して主人の足元に倒れてしまいました。意識を取り戻すと、てっきり死んだと思った、と主人に言われました(失神などというものは、ここの方々にとってはありえない愚なのです)。
I was struck with the utmost grief and despair at my master’s discourse; and being unable to support the agonies I was under, I fell into a swoon at his feet. When I came to myself, he told me “that he concluded I had been dead;” for these people are subject to no such imbecilities of nature.
笑いあり涙ありの素晴らしい失神描写である。抑制の利き具合は前節『セヴンティーン』の失神と対照的だ。「swoon」は失神のやや古い表現。
ガリバーによって失神が「ここの方々にとってはありえない愚」と呼ばれ、批評の俎上に載せられていることがまず面白い。裏を返せば、失神はフウイヌムにできない最も人間らしい行為なのである*16。主人のフウイヌムが笑いも慌てもせず淡白に反応する点にも注目すべきで、フウイヌムに失神文化が根付いていないことを示唆する。彼らは身内の死に際しても悲しまない、少なくとも悲しみを周りに見せないことになっているから([柴田訳]pp.424-425)、これからも根付くことはないだろう。大いなる自然に従うフウイヌムは、失神による身体の「機械化」(ベルクソン)と決して相いれない。
この失神賛美は私たちに1つの方向を与える。
失神後のストーリーは、第10章の章題「フウイヌムらに混じった暮らしと、その幸福。フウイヌムとの会話によって大いに高まった徳。会話の内容。主人から国を去れと告げられる。悲しみのあまり失神するも承諾。召使い仲間の協力を得てカヌーを作り上げ、運に身を委ね海に出る」と第11章「危険な航海。ニュー=ホランドに着き、住みつくことを望む。現地人の放った矢により負傷。捕らえられむりやりポルトガル船に乗せられる。船長の大いなる親切。英国に着く。」で把握できる。
帰国した主人公は、もはや人間すべてをヤフーとして軽蔑している。彼が奇怪な国に渡るたび数年待たされる妻子の家に、嫌々ながら帰った場面を見てみよう。
家に入ったとたん、妻は私を両腕に抱きしめて接吻しました。もう何年もこのおぞましい動物に触れられていなかった私は、その場で卒倒してしまい、一時間近く意識を取り戻しませんでした。
As soon as I entered the house, my wife took me in her arms, and kissed me; at which, having not been used to the touch of that odious animal for so many years, I fell into a swoon for almost an hour.([柴田訳]p.448)
人間嫌悪──スウィフトの姿勢は憎悪ではなく、嫌悪と呼ぶのが相応しい*17。接吻という超至近距離の接触・侵入に対して、「意識が遠くなる」ことで対抗するのだ。失神とは距離を操作する術である。
伊藤忠商事のちゅうしようのところで毎回キスされて失神
スウィフトの中庸性、中途半端さ、どっちつかずには、後天的なものも先天的なものも関係している。糞尿に関しては先述の通り環境要因が強かった。
彼はアイルランドの愛国者としてよく知られ、最終的にはそうだったと言ってよいが、ここにも中途半端さが見え隠れする。たまたまアイルランドで生まれたイングランド系の出自で、青年・中年期を通してアイルランドとイングランドを行き来し、イギリス国教会の要職につくことを望んだ。夢破れてアイルランドに戻った。
イギリス国教会といえば、実のところ宗教に関する諷刺は『ガリバー旅行記』に現れない。トーリー党としてホイッグ党を批判するような熱烈さで、イギリス国教会派としてローマ・カトリックやピューリタンを批判することもしていない*18。
合理主義者でありながら、啓蒙思想に乗っからず、科学技術を批判する保守的な農本主義者の側面を持っていた。
彼の中庸性の先天的な素質には、おそらく懐疑主義があるのだろう。彼は理性すら信用していなかった。こういった人間は最後、判断停止(エポケー)するしかない*19。
前近代小説でよくあるように、『ガリバー旅行記』の主人公と作者の距離関係はあやふやである。ガリバーはときにスウィフトの代弁者となり、ときに外化されてあげつらわれる。ガリバーが嫌悪や諦観や絶望を語っているとき、スウィフトは同調しつつも、そこに安易さが潜んでないか疑っている。これもエポケーの方法と言ってよいだろう。
信頼できない語り手がエポケーを実現する小説の技法だとしたら、エポケーを経験として実現する端的な方法は失神だろう。前回エミリー・ディキンソンの項で指摘した、失神の技術(the Art)だ。
このような意味で失神のコントロールが志向され、徳性の追求が始まる*20。
ここは失神してよい場面か?そうでないか?を都度判断した上で、失神
8.おわりに
1つの詩論として始まった失神の旅は、恍惚を軸に音楽方面へと展開し、そこで文化やメディアの主題を見出した。外からまなざしたときの笑い・泣きの要素を確認しつつ、その身体と暴力による宇宙論、さらには中庸の徳と技術論へと進んで行った。
結語に代わり、最後にもう1つだけ失神の性質を捉えておきたい。失神は増殖する。
『カンボジア労働者「集団失神」の謎 衣料品工場で100人以上が倒れる集団ヒステリーが頻発。その引き金は何なのか。』2014年4月8日
https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2014/04/post-3240.php
ある集団の中で、恐慌の感情、恍惚、痙攣、歩行障害、呼吸困難、失神などが伝播していく「集団ヒステリー」の現象。
上の例を医学的に分析すれば、「栄養不足、高い気温、長時間労働、通気性の悪さ、有毒ガス」といった悪環境の中で、誰かが失神したことが精神的なショックとなり失神の引き金を次々引いたのだろう。
『同級生に「失神ゲーム」 警視庁、容疑の中学生3人逮捕』2014年10月17日
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17H08_X11C14A0CC0000/
『TikTok「失神チャレンジ」で死亡か アルゼンチンで12歳女児』2023年1月19日
失神ゲームは1970年代頃から日本で報告されている*21。後者に関して、SNSが舞台となりわざわざ日本でニュースになっているのは、失神(の虚像)の遠隔力を暗示する。
ところで両者のニュースとも、事件関係者も報道関係者も、失神をアイロニーの形でしか想像/欲望できていないのではないか。それはナイーブすぎる。
前回触れなかったが、グループ・サウンズの失神に関して、最初はやらせで演出していたがそのうち本当に失神者が出るようになったという話を聞く。失神は訓練を通じて初めて可能になる。
失神文化の創出と継承。ともすれば、失伝──忘れられたものを拾い集めるのが、本稿の目的の1つだった。
さて、失神のテクスト的増殖(ミーム汚染)の最良例が次にある。
対局中に碁石を肛門にパチーンと打たれてしまい、失神
私の知る限り、失神のミーム性を開拓していったのはほとんどギャラクシースーパーノヴァ子氏の独力による。本稿では氏のツイートおよび氏が運営されている「いろんな失神bot」から様々な示唆を受け、多くを引用させていただいた。ここで感謝お礼申し上げたい。
ミーム汚染(「ミーム拡散」ではなく)には、ミームによって認識が無自覚かつ不可逆的に変わってしまうというニュアンスがある。
この変異が行き着く先で私たちを待っているはずの、来るべき失神の詩学とは一体何なのだろうか。私はその答えを知らない。差し当たって変異以前からあった失神を変異後の視点で検討するのが本稿のプログラムであった。
いずれにもせよ問題は、筆者も読者も結局はたどりつくであろう「何ともまあ、馬鹿なまねを……」という憫笑、顰蹙、あるいは歎息の向こうに、はたして何かが見えてくるかどうか、であろう*22。
「よろしい。参ることにしましょう」とそう言った時、僕はいきなりみぞおちのあたりにはげしい痛みを感じて意識を失った。そして気がついてみると立派なベッドの上にねかされていたのである。
(入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』1962年)
*1:例えば次を参照:「失神」の検索結果 - Yahoo!ニュース
*2:未見だが次のような論文もある:飯田操『シェイクスピアのロマン的喜劇における気絶について』徳島大学学芸紀要 人文科学 / 徳島大学教育学部 [編] (33)、1983年、13-26。
中山元『わたしたちはなぜ笑うのか 笑いの哲学史』新曜社、2021年
『カーニバルの祝祭空間:ガルガンチュアとパンタグリュエル』https://blog.hix05.com/blog/2007/06/post_247.html
*4:アイロニーの側面はバフチンの文脈だと強調されないことが多い気がする。バフチンの枠組みでは、中世民衆の「全的な笑い」は古代から続くアイロニーの笑いをも含むが、近代以後の痩せ細った笑いとしてのアイロニー・ユーモアとは対立するものだからだ。
*5:「花嫁は泣きながら笑い、笑いながら泣いていましたが、それと申すのも法印族が、当たるを幸いとばかりに、ところかまわず殴りつけただけでは満足せずに、花嫁の頭髪をうんとこさ毟り取り、更にまた、虚をねらって、その陰部を、こちょこちょぽんぽんぱんぱんぐりぐりとやっつけたからなのでしたな。」(「第十五章 約婚祝いの時の古い習慣が法院族によって甦らせられたこと」、[渡辺訳]p.138)
*6:大学時代の大江は本当に多くの文学を消化しているので、「感銘」の情報量はさほど多くない。当時すぐさま影響を与えたのはピエール・ガスカール『けものたち・死者の時』(岩波書店、訳1955年)だと言われている。最初期の大江と文体が似ているらしい。
*7:『セヴンティーン』『政治少年死す』の主人公は、日本社会党党首が刺殺された浅沼稲次郎暗殺事件(1960年10月12日)の犯人、17歳の元大日本愛国党員・山口二矢がモデルだとよく言われる。当時のテレビでは暗殺の瞬間が繰り返し放映され、国民全員がこの事件を記憶していた。
実際のところ大江は、「性と政治とテロリズムの関係」や「われわれの外部と内部に、普遍的に深く存在する天皇制」をテーマとし、「自分の頭の中で、どんなに深く入りこんでいっても見つけることができないような人間を空想すること」から、事件前に『セヴンティーン』を書き始めたらしい。その後空想が現実化したような事件が起こってしまう。動揺しながら第1部を仕上げ、さらに予定にない第2部を執筆した結果、事件に寄り過ぎて第1部の構想が吹き飛んだ、という経緯だと推定される。個人的な感想としても、第1部はモデル小説と呼びがたい。
天皇制と自瀆を結びつける『政治少年死す』の挑発的な内容は右派から大バッシングを受け、掲載した雑誌『文學界』には脅迫状が止まなかった。さらに右翼少年の内面に全力で潜り込むような書きぶりから、左派も批判寄りだった。第2部が掲載された1961年2月1日に嶋中事件──天皇を諷刺した深沢七郎『風流夢譚』に対して、それを掲載した中央公論社長・嶋中鵬二の家に17歳の元大日本愛国党員の少年が侵入、夫人に重傷を負わせ手伝いの女性を刺殺した事件──が起こったのもあり、『文學界』は謝罪文を掲載した。そうして2018年まで封印されていたのである。『政治少年死す』の本文でも、主人公の所属する右翼団体を「愚連隊」と呼んだ左派文化人(大江自身がモデル?)がナイフで脅迫される場面があり、1960年代の政治と暴力の近さがうかがえる。これらの事件の影響で1961年を境に出版界において「菊のタブー」が規律化した、と分析する専門家もいる。
参考:尾崎真理子「封印は解かれ、ここから新たに始まる」『大江健三郎全小説3』(講談社、2018年、pp.480-491)
北山敏秀『大江健三郎の「自殺」する肉体』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/63/9/63_36/_pdf/-char/ja
*8:ニール・セダカがキャロル・キングに捧げて書いた1959年のヒットソング。1960年にかまやつヒロシがカバーしているが、小説に引用される詞は大江が訳したもののようだ。
*9:例えば、次に見る主人公の愚かさと賢さの同居。「おれは耐えきれず、声をあげて鳴咽した、おれにはこの漢語だらけの立派な遺書の意味がほとんどわからなかったが、そのいかめしい岩石のあいだにあわい水色の芽をのぞかせている優しい草のような、若わかしい清純な悲哀の声は聴えてきた」(『政治少年死す』p.73)
*10:プロットからの補足。「無限への恐怖」は展開上欠かせない要素であり、主人公は「おれが死んだあとも、おれは滅びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのに」と「不意に気づ」く。天皇という「大樹」を見出し「《右》の鎧」をまとった後の主人公は、無敵だ。『政治少年死す』になると揺らぐ場面が何回も出てくるが。
*11:「マスかくやつはすぐへたばる」とクラスの人気者・新東宝が言いふらす中、前日に死の恐怖から逃れるため「二度も自瀆したらおれは明日八百メートルを走る試験なんか無茶苦茶だろう」と言いながら自瀆した主人公は、1人だけ遅れてしまう。クラスのマドンナ・杉恵美子や舗道の一般人の視線にさらされながら、疲労困憊で完走したと思ったらズボンが濡れていた。「おれは惨めで醜いセヴンティーンだが、それにしても他人どもの世界は酷いことをした」。
*12:①「下降」はグロテスク・リアリズムのキーワード。公式の権威の格下げを意味する。 ②異世界転移モノの創作では失神(や睡眠)を移動の契機とするものが多数見られる。 ③宇宙飛行士は帰還の際失神してしまうことがある。
*13:医学的な意味の「失神」だと失禁・脱糞を伴うことは少ない。果たして主人公はどのような症状で「気絶」したのか?
「突然発生した意識喪失で,数秒以上持続する筋肉の攣縮ないし痙攣,失禁,流涎,または咬舌を伴い,かつ発作後に錯乱または傾眠がみられるものは,てんかんを示唆する」
失神 - 04. 心血管疾患 - MSDマニュアル プロフェッショナル版
https://www.jstage.jst.go.jp/article/naika1913/84/4/84_4_512/_pdf
*14:あるいは糞尿との並列から次のように考えることもできる:そもそも脱糞や失禁が何かを「放出」する所作なのに対し、一般に失禁は放出を抑圧する所作だと考えられる(この視点は次節で重要)。だが漢語「失神」は古代「神気を失う」という意味で使われていた。この意味に立ち返るなら、主人公は極度に物体的なもの=糞尿と極度に精神的なもの=神気を同時に放出したと言ってよい。参考:金香梅『漢語「失神」の語形成について』2020年 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4402945/58_pa001.pdf
*16:現実にはさまざまな動物が失神する。次に打撃と熱中症が原因の場合を挙げるが、ストレス・恐怖・興奮が原因の場合も勿論ある。
『ロブスターは失神させてから調理を、スイスが保護規定定める』2018年1月11日
https://jp.reuters.com/article/idUSKBN1F008B/
『米ニューヨークの名物「観光馬車」の馬が道路上で倒れ、1時間以上気絶する』2022年8月14日
https://courrier.jp/news/archives/297699/
*17:なおナチュラルな女性蔑視は『ガリバー』の他所にも見受けられる。
*18:当時はイングランドによりアイルランド・カトリックが抑圧されていた時代だから、愛国者ならカトリックを擁護するのが自然?
*19:次を参照:村田俊一『T. S. エリオットのヴィア・メディア 改宗の詩学』(弘前大学出版会、2005年)。エリオットとスウィフトはどちらもイギリス国教会の信仰を持ち、懐疑主義を持ち、国籍が曖昧で、中庸を掲げた点が共通する。しかし理性を信じるかという1点で決定的に異なった。
*20:追記:ここで述べた中庸の徳とは別に失神を「自己中断による歓待」(デリダ)として捉える方向性があり、両者は鋭く対立する。後者からすれば前者は他者の無限性を否定する点において責任=応答可能性を欠いており、前者からすれば後者は他者を無差別に極限まで理想化する点でバランスを欠いている。
「自分自身を中断することは可能でしょうか。しかし、それが決定不可能性の意味することなのです。[……]何らかの自己中断なしに責任や決断がないのと同じように、歓待もありません。支配者そして主人(host)としての自己は、他者を歓待(hospitalite)することにおいて、彼/彼女自身を中断し、分割しなければならないのです。この分割が歓待の条件なのです。」(「歓待、正義、責任 ジャック・デリダとの対話」安川慶治訳、『批評空間II』第23号(1999)、p.208)