古い土地

暗い穴

失神の詩学に向けて 前編

 

 

ふわりと舞い落ちた桜の花びらが股間にヒットし、失神

https://x.com/shisshinbot/status/1776966426982834260

 

 

1.エミリー・ディキンソン

 

本稿の目的は、奥深い失神の世界を探索すること、およびその過程を通じて、来るべき失神の可能性を指し示すことにある。差し当たってはその方位を「詩学」と呼んでおく。

 

「失神の詩学」という概念自体は、私が勝手に言い始めたことではない。19世紀アメリカを代表する詩人エミリー・ディキンソン(1830-86年)は、一種の詩論として「失神する技術」を詩の中で語っている。

 

私は詩人にもならない──

耳を持つ方が──ずっと素晴らしい──

夢中になる──何もできなくなる──満足する──

崇敬すべき免許、

とても崇高な特権

天賦の才とは何なのだろう、

もし私が自分自身を失神させる術を持っていたなら

旋律の──稲妻によって!

 

Nor would I be a Poet —

It's finer — Own the Ear —

Enamored — impotent — content —

The License to revere,

A privilege so awful

What would the Dower be,

Had I the Art to stun myself

With Bolts — of Melody!

("I would not paint — a picture —”, F348, 拙訳)

https://www.poetryfoundation.org/poems/56821/i-would-not-paint-a-picture-348

 

詩人になるよりも、詩を鑑賞する耳を持つ方がいい。そのような受動性が理想の詩人の素質(the Dower)として、書く技術よりも先立つ。

そしてこの「崇敬すべき免許」「とても崇高な特権」は、「何もできなくなる」と言いながら全く静的ではない。燃え滾り、銃のごとくいつ詩を放出するとも知れない。

 

注目すべきであるのは語り手の理想とする詩人は、自分自身を「旋律の稲妻」(“Bolts of Melody”)で失神させる技術(“the Art to stun myself”)を持つということである。この激しく爆発的なメタファーは、これまで見てきた火山の突発性や大渦巻においてゴブリンに生死を操られた受動性、さらには充填された銃の生における正確性と爆発性に概して通ずるものである。

(山下あや『Emily Dickinson の詩における「あやうい」生の考察』英語英米文学論輯:京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 第16号、2017年)

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2461/1/0060_016_003.pdf

 

エミリー・ディキンソンの失神からいくつか指摘したいことがある。

 

まず、これが「恍惚(trance)」の失神であること。詩を読む体験が宗教的水準まで高められている。

ところで新大陸の19世紀は、キリスト教諸派・諸運動が立ち上がった時代だった。第2次大覚醒(1800-30年代)と呼ばれる運動では、各地で大規模な伝道集会が開かれ、説教で感動のあまり泣き出したり、気絶したりする人々がよく報じられた。ディキンソンが育ったマサチューセッツ州アマストという人口2000人ほどの農村にも、信仰復興の波は押し寄せている。しかし彼女はいくら説かれても、また家族や友人が皆そうしても、信仰告白を行うことができなかった。自分自身に正直であるがゆえに。

R・W・エマソン(1802-83年)の超越主義──キリストの神性を否定したユニテリアン派をさらに1歩進めたロマン主義的な宗教思想で、「自己信頼」の個人主義や自然賛美の姿勢が特徴的──が、19世紀中頃のアメリカ文学の黄金期(アメリカ・ルネッサンス)に影響したことはよく知られている。ディキンソン自身も超越主義から出発し、やがてその引力圏を脱していった。

孤独に詩を書くことを通じて、独自の価値体系・宗教観を築き上げていったディキンソン。そんな詩人の描いた「失神」であってみれば、余人には想像しがたいほどのリアリティと重みが込もっているに違いない。

 

次に、失神が技術(the Art)と結びつけられていること。崇高の体験は感性のみによるのではない、その都度自分自身の選択で失神することができる(超越主義?)、と言わんばかりだ。

もちろん、失神とは本来そのようなものでない。自分自身の首を絞めるなどしないかぎり──物理的暴力と失神の関係はディキンソンに現れないテーマで、後編にて扱う──任意に失神できるはずがない。

意思と技術の介在は、特異な失神の系譜として注目に値する。

 

最後に、失神が稲妻(Bolts)のような瞬間的体験として捉えられていること。

これは当たり前である。広辞苑を引くと:

 

しっ−しん【失心・失神】

①正気を失うこと。きぬけ。喪心。

②急激な精神感動・恐怖・驚愕などのため、または外傷・打撃により、反射的に脳貧血を起こし、一時的に意識を喪失すること。

(『広辞苑第七版』岩波書店、2018年)

 

本稿では専ら②の意味の失神を扱う*1

数秒で「反射的に」意識を消失しないものは失神とは呼べない。意識の消失まで至らずクラクラし続ける症状は「眩暈」と言うべきだ。また、てんかん低血糖など脳貧血を原因としない意識消失は医学的に「失神ではない気絶症状」と診断される*2。なお以下では医学的厳密性にこだわらず、「気絶」や「卒倒」も「失神」の同義語として扱う。

さて、失神は本来的に瞬間的であり、意識が消失する現象そのものであるから、それを主観的・意識的に把握するのはとても難しい。例えば(医学的には失神ではないが)全身麻酔の体験記の乏しさは、失神の語りにくさを端的に示している。文章表現の場合、ディキンソンがやっているように語りの途絶として捉えるか、あるいは失神した他者を「物体化した身体」として眼差すことになるだろう。

格闘・バトル漫画などだと、失神(や死)までの数秒を引き延ばす──ときに走馬灯のような過去回想まで交える──描写は1つの定型になっている。映画に由来するコマ割り・時間経過の技法が紙面に蒸着しているからこそ生まれる緊張感だろう。やり方次第ではあるが、失神の主観を表現するにあたって文章表現は静的すぎるし、映画・アニメは動きすぎる(叙述的時間による物語内時間の引き延ばしが嘘くさくなる)よう思える。失神のリアリズムの問題だ。

 

本節ではディキンソンの詩を終着点ではなく開始地点として利用した。ディキンソンは「失神」をメタファーとして「失神の詩学」を構想している。しかし私たちにとっては「詩学」の方がメタファーだ。目的はあくまで失神にある。

以上を踏まえて、これから失神の世界を渡り歩いていきたい。

 

 

2.フランツ・リスト

 

ディキンソンより少し前、ヨーロッパ大陸に失神界の大スターが登場する。いや、ピアノ界の大スターが登場する。フランツ・リスト(1811-86年)だ。

リストの時代のクラシックは激変期だった。技術向上によってピアノが独奏に堪える大音量や連打性能を備えた。それまで同時代の作曲しか演奏されなかったのが、バッハやモーツァルトなど一連の作家・作品が古典として再演され始めた。フランス革命以後台頭したブルジョワ層が、演奏会を大規模化・興行化し、そこに貴族的社交以上の価値を見出して、「傾聴」の理想をつくりあげた*3

だが傾聴する聴衆はあくまで理想であり、現実には貫徹されなかっただろう。特にリストは超絶技巧や顔立ちの良さから、女性からのアイドル人気がすこぶる高かった。このような「集団」熱狂は、ブルジョワの登場以後にしかありえない。

 

彼が脱ぎ捨てた手袋を奪い合い、花束の代わりに宝石が投げ込まれ、舞台に花吹雪を降らせるために、街中の公園から花がむしりとられた。ある街では、彼とその子孫を王族とする国までもが創られようとした。

(浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』新潮新書、2013年、p.3)

 

幾分誇張されているように思うが、少なくとも当時の新聞メディアはそのように報じた。失神者が続出したという話もとりあえず信じておこう。「音楽→熱狂→失神」というクリシェをリストが定着させた可能性すらある。恍惚の体験、しかしどこか俗。

失神者続出の理由を述べておきたい。まず、ホールが蒸し暑く興奮から過呼吸になることが挙げられる。現代のライヴハウスでも起こり得る現象だ。もう1点、当時の女性はコルセットでウェストを拘束していたため浅い呼吸しかできず、慢性的に貧血気味だったことも挙げられる([浦久]pp.78-79)。これが原因でヨーロッパ古典文学には「失神する淑女」がよく登場し、現代でも「サスペンスで死体の第一人者となり失神する女性」といったステレオタイプに受け継がれている。

失神のジェンダーバイアスは、これからもしばしば目にするだろう。

 

失神と家父長:小林洋一『世界でいちばんやさしい失神・突然死』エクスナレッジ、2010年、p.13

 

余談。長年の精力的な活動による無理が祟ってか、晩年のリストはいくつも持病を抱えている。そのうち1つに失神があった:肝炎、鬱血性心不全、変形性関節症、白内障、慢性呼吸器疾患、血管迷走神経発作=失神([浦久]p.190)。

病気で失神が頻発するのは本稿で扱う範囲だとリストだけになる。しかし現実には多く、特に心臓病由来の場合が危険である。

身体外部に原因のない偶発的な失神。失神の諸相として記憶しておきたい。

 

 

3.ザ・ビートルズ

 

リスト以降、音楽と失神はしばしば同じ文脈で語られるようになった*4

ポピュラー音楽に批判的だった社会学者・音楽学者のテオドール・アドルノ(1903-69年)は、次のような言葉を残している。

 

少女の場合であれば、「クルーナー」の声を聴いて失神するように自らを訓練するのだ。

(サイモン・フリス『サウンドの力 若者・余暇・ロックの政治学細川周平・竹田賢一訳、晶文社、1991年、p.62)

 

クルーナーとは1920年代のマイクロフォンの性能向上が可能にした、ささやくような優しい歌い方のこと、あるいはそれを使いこなす歌手のこと。アドルノが念頭に置いているのは1930年代に歌手・俳優としてマルチな活躍をしたビング・クロスビー(1903-77年)だろう。クルーナー唱法がもたらす独自の親密感はファンをとりこにした*5

そのようなファンは、しかしクルーナーを聞くや否や自動的に失神するわけではない。音楽の聴取一般がそうであるように、失神する前提として神経回路の開発が必要だとアドルノは指摘する。現代のASMR論にも応用できそうな卓見である。

 

日本における音楽失神の代表選手はビートルズの来日公演(1966年)だろう。ビートルズを皮切りに、音楽による失神が認知され報じられるようになった。例えばグループ・サウンズのバンドの1つオックス(1968-71年)は、メンバーやファンの様子から「失神バンド」と呼ばれた。

そもそも私が失神に関する言及を見るたびメモしているのは、「ビートルズ来日公演以後の日本において、人はいつから失神しなくなったのか? なぜ失神しなくなったのか?」を調べたかったからである。今分かっている範囲だと、時期については1990年代が境になるらしい*6

 

しかし最近、あるテレビ番組が企画のためビートルズの来日公演で失神した人を探したところ、誰1人として発見できなかったらしい。当日の医務室の記録を参照するなど調査は比較的しっかりしている。

少なくとも、失神者の「続出」は嘘だったのではないか。当時の報道は、子供でも大人でもない「若者」の出現を目の当たりにしたマスメディアが、彼らを非行の型に押し込めるため、海外での報道を借用して作り出したステレオタイプだった。

逆に、あの時なぜファンは失神しなかったのか? 番組内では次のように考察されている。

 

ビートルズまでの距離が遠く(アリーナに客を入れなかった)警察官が熱狂を押さえつけていたので過度な興奮を避けられた。

・公演時間が短く演奏の音量も控えめでいつのまにか終わってしまった。

ビートルズを記憶にとどめようと集中していたので気を失うわけにはいかなかった。

アメリカではビートルズ以前にフランク・シナトラエルヴィス・プレスリーのコンサートで失神する現象が知られていたが、ビートルズ来日時点の日本は未経験で慣れていなかった。日本での失神文化はビートルズ来日がきっかけとなり以降のグループ・サウンズが出演者主導で作り上げていったもの。

ビートルズに恐怖していた当時の大人が若者を揶揄するために「失神」と評した(現代でいうと「脳死」の言い回しに近いか)。

(『TBS系『水曜日のダウンタウン』「ビートルズの日本公演で失神した人、今でもビートルズ聴き続けてなきゃウソ説」2024年1月10日放送』)

https://blog.kouchu.info/2024/01/DOWNTOWN.html

 

再びアドルノに戻れば、ポピュラー音楽における失神は多分に文化的(≒「技術」的)なものなのである*7

 

「ないのに報じられる」ことがあるなら、「あるのに報じられない」こともあるだろう。21世紀のライヴ会場で失神が生じていないとはとても思えない。音楽と失神をめぐる問題の本質は、失神それ自体よりむしろ、失神の報道にあるのではないか。

失神はメディアがつくりあげる? 

 

 

私たちは失神の虚構性と呼ぶべきものに行き着いたらしい。それは裏返しのリアリティだ。

失神はその本源からして、主観的に語りがたい。そして客観的にも、歪めた語りを引き起こすような、ある種の魅力を湛えている。魅力とは、宗教的恍惚に通じることだろうし、下世話さを満たすことだろうし、後述するような崩れ落ちる身体のおかしさだろう。

 

これ以降私たちは、「氾濫する失神のイメージ」「想像されたものとしての失神」に十分気を配りながら議論を進める必要がある。

 

ひょっとすると、あの失神も嘘だったのか──?

 

オタクに優しいギャルと思っていたが実は人類を憎むモグラで、校舎裏に掘られた穴に誘導され落下し、失神

https://x.com/shisshinbot/status/1579113211030183936

 

風呂上がりに全裸で股間にタオルをパチーンとやったところ、当り所が悪く、失神

https://x.com/shisshinbot/status/1539611237121916928

 

 

4.ウィリアム・フォークナー

 

近代小説における失神を例示するため、本節ではノーベル賞作家ウィリアム・フォークナー(1897-1962年)の作品から2つ失神シーンを取り上げる。作家と作品の選択に他意はなく、たまたま手許にあったからにすぎない。

 

既に述べた「サスペンスにおける死体発見」「音楽による熱狂」など、ステレオタイプな失神は物語にたびたび登場する。小説的機能という点では、意識の空白=認識の空白から語りの空白を作り出せるのが便利だ。1人称小説で語り手の失神を契機とする場面転換は手垢のついた進行である。

 

フォークナーの長編第1作『兵士の報酬(Soliders’ Pay)』(1926年)は、第一次大戦で重傷を負った帰還兵ドナルド・マホンをめぐる一種の喜劇だ。パイロットだったドナルドはベルギー上空の戦闘で重傷を受け、ほとんど視力が無く、記憶を失っている。作中能動的に行動することはほぼなく、死体となんら変わりない。

次はドナルドが郷里で婚約者セシリーと再会する場面。彼女はドナルドが死んだものと思い込み、ラテン語教師との情事を楽しんでいた。

 

「ドナルド! ドナルド! あなたの顔、傷ついたって聞いたけど──おおおお!」と彼を見るなり悲鳴を上げ、言葉をとぎらせた。

 彼女の美しい髪に差し込む光は光輪を作り、柔らかいドレスのまわりにかすかな気絶するような後光を与え、病んだポプラの木のように崩れゆく娘の体を包んでいた。ミセス・パワーズが急いで彼女を抱こうとしたが、しかし間に合わず、娘の頭はドアの枠に当たった。


‘Donald! Donald! She says your face is hur—oooooh!’ she ended, screaming as she saw him.

    The light passing through her fine hair gave her a halo and lent her frail dress a fainting nimbus about her crumpling body like a stricken poplar. Mrs. Powers moving quickly caught her, but not before her head had struck the door jamb.

(「第2章 5」、フォークナー『兵士の報酬』、拙訳*8

 

これで第3章に移るので、「失神オチ」を3人称小説で利用したとも言える。

「fainting」はダブルミーニングとして訳出した。確認しておくと、失神(気絶)に対応する日常英語は「faint」「blackout」「stun」「loss of consciousness」あたりで、医学的には「syncope」を用いる。

 

面白い。面白いが、かの文豪フォークナーをしてここまで失神の意味合いを痩せ細させたことには驚きを禁じ得ない。

もちろんこれはフォークナー自身の責ではなく、近代文明が負うべき咎であろう。

 

訳の不出来と無粋を棚上げして、ギャグの分析を試みる。

哲学者ベルクソン(1859-1941年)は笑いのメカニズムとしてズレの理論(不一致理論)を提唱した。幼児が「いないいないばあ」で笑うように、予期したことが実際にはそうならないというズレが笑いを引き起こす。「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械をおもわせる程度に正比例して笑いを誘うものである」*9。「機械」はベルクソンのキーワードで、ここでは物体くらいの意味にとればよい。

失神のおかしみは、ズレの理論に綺麗すぎるほど当てはまる。恐怖や興奮や暴力が原因で人間の前進が突如物体化し、停止する。そしてまた人間に戻ること(の保証)が、緊張の緩和=不一致の解消を生む。突然死は動作的には同じだが、これを死と認識しながら笑う場合、優越やアイロニーなどもう少し社会的・理性的な認知が働いているだろう。

フォークナーは上の場面で、物体として崩れゆくセシリーの身体を、彼一流の豊穣な文体で無駄に聖化した。再会の第一声が顔に対する言及である無礼さへの報いになっているのも喜劇らしい。しかし言ってしまえば定型的で、失神の笑いをフルに引き出したものとは思えない。

こんな細部にかかずらうよりは、「死体の視点を作者が共有して作中現実から超越を試みる」*10ことなどを考えた方が、作者にとっても読者にとっても生産的だ。

 

 

フォークナーの長編第4作にして代表作『響きと怒りThe Sound and the Fury)』(1929年)にも、失神が現れる。失神するのは第2部の主人公クエンティン・コンプソンだ。

クエンティンは最愛の妹キャディーの処女を奪ったドールトン・エイムズに決闘を挑もうとするも、まともに相手にされず、殴られてすらいないのに失神する。作中1909年のこの出来事からケチが付いて、作中現在1910年のクエンティンの語りは朦朧としており、過去と現在の区別が頻繁につかなくなる(「意識の流れ」)。最終的には自殺にまで追い込まれるのだから、かなり「泣きの失神」だ。

とはいえ、ただの泣きの失神には興味が無い。3年で進化したフォークナーの失神描写を見てみよう。

 

僕はあいつに殴りかかり あいつが僕の両の手首を捕まえたあとも それでもまだ長いあいだ殴ろうとしつづけ するとまるで僕は 色つきガラスを通して相手を見ているような感じになって 僕の血が脈打つ音が聞こえ それからまた空が見えると 空の手前に木の枝々が見え 枝を通してななめに差す太陽の光が見え するとあいつが僕をかかえて立たせて

(フォークナー『響きと怒り(上)』平石貴樹・新納卓也訳、岩波書店、2007年、p.312)

 

1人称を採用しながら、『兵士の報酬』よりずっと迂遠に失神を描写している。迂遠さは現実を整理して解釈することの拒否からくるもので、『響きと怒り』第1部の主人公である白痴のベンジーの語りと同様の仕組みだ。クエンティンの精神はボロボロである。

この特異な語りには、失神の主観的体験は連続するものだというリアリズムが宿っている。失神による場面転換とは真逆の発想だ。

 

そして過去の失神の回想には、さらなる仕掛けが含まれている。回想途中のクエンティンは作中現実時間で錯乱し、現実のジェラルド・ブランドという伊達男をドールトンと混同し始め、殴りかかったようだ。だが一発も当てられず、ジェラルドに殴り返されて失神する。

 

「自分でできるよ。僕はアイツにケガをさせたかい?」

「君は殴ったかも知れないな。僕はちょうどそのときよそ見をしていたが、まばたきかなにかしてたのかもしれないしね。あいつのほうはめちゃくちゃに君を殴ったよ。からだ中めちゃくちゃにね。どうしてあいつと殴り合いをしたいなんて思ったんだ? まったく大バカ野郎だぜ。気分はどうだ?」

([平石・新納]p.318)

「わからないよ。どうしてあんなことをしたのかわからないんだ」

「僕が気がついたら、君は突然立ち上がって、『君は妹を持ったことがあるのかい、どうなんだ』って言ったんだよ。それであいつがないって答えたら、君はあいつを殴ったのさ。君がずっとあいつのことを見てることには気がついていたけど、君は誰がなにを言おうとまるきり聞いてないみたいな様子で、そのうち立ち上がって、妹を持ったことがあるかってあいつに訊いたってわけなんだ」

([平石・新納訳]p.321)

 

作中現実の出来事は回想明けの会話で語られるのみで、過去回想との対応はいまいち分からない。けれどジェラルドに殴られて失神した夢の中で、ドールトンに殴られもせず失神した可能性は十分ある。すなわち、

 

失神中に見ていた夢の中で、さらに失神

https://x.com/shisshinbot/status/1538840443429208064

 

先の場面で失神が与える幻惑・眩暈の感覚は、ミクロ(意識の流れの文体)とマクロ(失神の入れ子)のテクニックに下支えされている。

 

 

フォークナーについてはこれぐらいにしておこう。

近代小説における失神は、読書量が足りず、サンプル収集が全然できていない。「この失神がすごい!」というのがあったら教えていただけるとありがたい。

 

 

|後編>

wagaizumo.hatenablog.com

 

*1:おおよそ①が「失心」で②が「失神」になる。①の使用例は現代だと極めて稀。「失神」の語形成を辿ると、古代の仏書に「神気を失う」という①に近い意味で使われたのが最初らしい。現代の意味で定着したのは「syncope」の訳語として当てられた明治期のこと。金香梅『漢語「失神」の語形成について』2020年 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4402945/58_pa001.pdf  

*2:小林洋一『世界でいちばんやさしい失神・突然死』エクスナレッジ、2010年

*3:渡辺裕『聴衆の誕生:ポスト・モダン時代の音楽文化』中公文庫、2012年

*4:新聞・雑誌の普及は18世紀頃なので、音楽という縛りを外せばリストより遡れるかもしれない。例えば民衆劇場の役者に熱狂して失神するなど。これをさらに遡ると、宗教的儀式や民俗的祭祀におけるトランスに辿り着く。

*5:クロスビーは世界初のマルチスターとも言われる。レコードに限らず、映画・ラジオ・ポスターなど様々なメディアを通したイメージが親密感を醸造した。

*6:全国紙の新聞検索サービスが使える方がいらっしゃれば、「失神」の検索結果を教えていただけると大変助かります。以下、海外の例。

1992年ルーマニア:「岡田 1992年にルーマニアでコンサートをやって、「ライヴ・イン・ブカレスト」というDVDにもなっています。独裁者チャウシェスクが始末されたあとのブカレストに、マイケル・ジャクソンが降臨したんですね。なかなか感動的なんですよ。感激して失神するティーンエージャー続出。」(岡田暁生片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』新潮社、2023年、p.121)

2022年ジャカルタ:『韓国アイドルグループ公演で30人失神 サイン目当て、舞台に殺到』https://www.asahi.com/articles/ASQC5753KQC5UHBI02R.html?iref=pc_ss_date_article

2023年ブラジル(失神ではなく死亡が報じられたと考えるべき):『テイラー・スウィフトさんの公演で観客死亡 猛暑下、水持ち込めず』https://www.asahi.com/articles/ASRCM1PXCRCLUHBI034.html?iref=pc_ss_date_article 

*7:「しびれる」「卒倒」「失神」といった熱狂・興奮をあらわす語群は、1960年代日本の流行語だったらしい。だとすれば、音楽失神の終焉は60年代的なものの終焉と関わっているのかもしれない。『きっかけは…女優・應蘭芳「私って失神しちゃうの」 失神(昭和43年)』https://www.zakzak.co.jp/article/20200401-TMXBOUKJMJN4HGQET45NF2PUSA/

この記事はまた、性的表現における失神(本稿では扱わない)の歴史を考える上でも参照点になる。

*8:訳に当たって次を参考にした。

ウィリアム・フォークナー『兵士の報酬』加島祥造訳、文遊社、2013年

石一郎『フォークナー研究序説』明治大学和泉校舎研究室紀要.15、p.75-106

https://meiji.repo.nii.ac.jp/records/8929 

*9:ベルクソン『笑い』林達夫訳、岩波文庫、1976年

*10:平石貴樹『メランコリック デザイン フォークナー初期作品の構想』1993年、南雲堂