導入:異説・出雲神話
この節は以前内々に作ったテキストの修整版として成立した。
「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」
「出雲」の枕詞としては「八雲立つ」がよく知られている。「やつめさす」は「八つ芽刺す出藻」から来たとされ、多くの芽が自然に生える豊かな出雲、ぐらいの意味。
古事記(以下「記」)においてはこの歌の背景として
「それほど豊かな出雲の支配者(イヅモタケル)の大刀なのに、(ヤマトタケルに騙されて)蔓(つる)ばかり幾重にも巻く飾り鞘(さや)で刀身がなく、アアオカシイ、ザマヲミロ」
というのが採用されている。
ままあることだが、日本書紀(以下「紀」)では同じ歌に違う背景が採用されており、出雲振根による弟の飯入根の騙し討ちとして描かれる。そこでの「あはれ」は同時代人の歌とするから「カワイソウダ、キノドクダ」ぐらいの意味になるだろう。
他方、これらいずれのエピソードも原形からかけ離れた、”編集された”挿話だという説もある。
「しかしこの歌の原形は、どう考えてもこんなものが無しい格調をもっているものではない。『八雲立つ出雲健が佩ける太刀……』と歌いだすこの格調の美は雄々しい出雲の勇士を讃える言葉でなくて何であろう。『葛多巻き』という表現も太く強大な太刀を示したものであり、末尾の『あはれ』もあっぱれ見事だと讃えた言葉である。出雲の勇士を賛美した歌が、替え歌として、彼ら有志の没落をうたう哀歌となったのであろう」
「記」も「紀」も政治的意図を(意識的/無意識的に)多分に含んで編纂されたのは周知の事実だが、出雲神話に関しては面白い説があった。過去に。
因幡の兎、八岐大蛇討伐、先の出雲健討伐など、出雲が舞台となるエピソードは神々を物語る古事記上巻の約三分の一をも占めている。それにもかかわらず、1980年代まで(後述)それほど多くの神話を残したであろう大国家が存在した証拠・遺跡は見つかっていなかった。規模が大きいほど、発見は容易なはずなのに。
このことや伝承の分析をもとに書かれたのが鳥越健三郎『出雲神話の成立』である。
出雲国風土記*1では出雲国の始まりとして「国引き」がうたわれる。
「古代の出雲国(現在の島根半島)は土地が小さかったため、神様が朝鮮半島や隠岐、北陸地方などから余った土地を4個所引っ張ってきてつなぎ合わせたという話です。引き寄せた土地をつなぎ止める綱が、「薗(その)の長浜」(稲佐の浜から南に続く海岸)と弓ヶ浜、綱をつなぎ止める杭が、三瓶山と大山だとされています。」
島根県:島根県 : 特集2 神話のふるさと島根(トップ / 県政・統計 / 政策・財政 / 広聴・広報 / フォトしまね / 179号)
鳥越『出雲神話の成立』の大筋は以下の通り:
よせあつめ……/つくられた……/借りものの…… 前出の国引き神話にしたがえば、出雲の国土は多くの「他処」から引いて来て「作り縫」われ、大きくされたものだが、いわゆる「出雲神話」そのものについても、これは本来出雲地方で伝承された土地神に関する神話・伝説というよりも「記」「紀」編纂の頃。日の神の子孫の収める陽の国に対する、陰の国・夜の国の必要上、それを出雲に措定し、各地の伝承を寄せ集めて、大和朝廷で作られたものであり、古代出雲地方を中心として大和に対抗するに足る大国家があったわけではない、との説がある
――「I」 入沢康夫『わが鎮魂』
この説に基づけば、編集され寄せ集められた出雲神話体系の始まりに、(おそらくは)元々伝承されていた寄せ集めの神話=国引きが置かれていることになる。美しい対応だ。
また、この説と昨今の島根県が出雲大社や出雲神話をよくPRしていることを並べると、借りもの・まがいものが幾星霜を経て真実に「された」感じがして、妙な興奮を喚起する。
さて、この「にせの出雲神話」説の妥当性についてリマークしておこう。1983年に始まる調査で荒神谷遺跡の全容が明らかとなり、銅剣の本数などから古代出雲に大国家が存在したという説が有力になってきた。(筆者は詳しくないのでどの学派が有力なのかは専門家に聞いてほしい)
最近だと古代出雲人のDNAを解析する試みがあった。縄文人に近いとかなんとか。クラウドファンディングで資金を調達。
新着情報 古代出雲人の人骨から、縄文人・弥生人のルーツに迫る挑戦!(東京いずもふるさと会(会長岡垣克則)) - クラウドファンディング READYFOR
とはいえ、「陰の国」が無理くり出雲に措定されたというのは今でも十分通りそうな話だと思う。政治的「屈服」のあかしとして。
「国」の痕跡は資料として残るが、「神話」の痕跡は史料としてしか残りようがないのだから、謎は謎のままだろう。
「にせの出雲神話」説の学問的妥当性は、しかし本稿の範疇ではない。
重要なのは1966年から1983年までの間「出雲神話は「偽物の」神話である」可能性を提出し続けたこと。
それにより入沢康夫が『わが出雲・わが鎮魂』(1968年)を書くきっかけとなったこと。それだけで十分な価値があるように思う。これは審美主義が過ぎるだろうか。
以上の準備によって、ようやく『わが出雲』の冒頭部分を紹介できる。
やつめさす
出雲
よせあつめ 縫い合わされた国
出雲
つくられた神がたり
出雲
借りものの まがいものの
出雲よ
さみなしにあわれ
――「I」 『わが出雲』
この詩句には多重の含意がある。
①出雲神話において出雲国が「国引き」という寄せ集めで成立していること
②それと同様に、『わが出雲』は多様なテキスト・語りのコラージュで成立していること
③贋出雲神話:今伝わる出雲神話は時の権力によって大幅に編集されたものであり、多数の「借りもの」を除くと出雲本来の伝承は極めて少ない(無い?)という可能性
④メタポエム:同様に、『わが出雲』は東西古典/神話/近代詩/民俗学 etc の引用/引喩/編集によって成立していること。それが時にきわめて「うそくさい」形式をとること。
また、「さみなしにあわれ」の意味も、まず「記」が「ザマアミロ」、「紀」が「カワイソウダ」で全く異なる。背景として《卑怯な騙し討ち》は共通しているが、鳥越の異説は本来《騙し討ち》など関係なく、「あわれ」は「アッパレダ」の意とした。
「あはれ」の意味のとり方で、この歌全体の立場が変転するように、「あわれ」の意味によって、『わが出雲』の立場もまた。
――「さみなしにあわれ」 『わが鎮魂』
オペレーション
歌人は十七文字や三十一文字の中に、詩人は14行のソネットの中に小宇宙を込める。
よくできた長編詩は、ときに傑作短編詩の濃度に肉薄しながら、その長大さを活かして短編詩の射程を越えた構造を持つ。『わが出雲・わが鎮魂』の厄介さはそこにあるのかもしれない。
ここではT.S.エリオット『荒地』(1922年)との表層的類似に注意したい。次の記事を参照。
『わが出雲・わが鎮魂』と『荒地』はいくつも共通点がある。東西古典・神話の引用、語りのコラージュ、詩と自注。
ところで『わが出雲・わが鎮魂』の構造自体が『荒地』のオマージュなのかと言われると、これだけ引用だらけの作品にも関わらず、返答に迷うところがある。相違点も挙げておくと、後者には〈意識の流れ〉、西洋文明崩壊への危機感、そしてモダニズム詩と伝統の接続といった問題意識があったのが、前者にはそれらが無い。「もはや戦後ではない」し、モダニズム詩も歴史化している。時代としてのポストモダンに接近しつつあった。
ところで、注を自らつける詩作品は珍しい。
エリオット『荒地』の場合、単行本発行の際にページを水増しするため渋々付けたものらしい。あるいはこれは作者向けの言い訳で、出版社が注釈無しだと売れないと判断したのか? ともかく、原註はかなり淡泊だ。
なお岩崎訳『荒地』(2010年、岩波書店)の場合、訳注は詩本編の二倍、原注の六倍程度になる
入沢康夫はどうだったのか。おそらく、彼は作品として入念に準備していた。詩本編『わが出雲』の完成から数カ月を置いて、他人が書いた作品のように注『わが鎮魂』を付け始めた。後述するが結構丁寧な仕上がりだ。
では、その意図とはなんだったのか?
(前略)この「作品もどき」における私の意図は、そのような因縁のある土地への私的な愛憎を都合のよい口実に、《根の国・底の国》《反逆》《騙し討》《被征服》《鎮魂=呪力の制圧》といったテーマを導きの糸としながら、パロディのパロディを本文(もどき)と注(もどき)とで組み立て、こうすることによって詩の「反現場性」「自己浸蝕性」の問題を、無二無三に追い詰めてみることだった。つまり、私の力点は、「作品を成立させること」にでなく、「作品の成立とは何かを問うこと」にかかっていた。
――「あとがき」 『わが出雲・わが鎮魂』
あまりにも親切で厄介なあとがきである。この史上稀に見る「オペレーション」について、蓋然的にここまでは読めるというラインが設定されてしまうのだから。
自注の例
『わが鎮魂』における自注の種類を分類すると、次のようになる。*2
①プレテクスト(出典)の提示
②執筆当時の「レミニッサンス」の提示
③注執筆当時のコメント、読み方教示
④土地の解説
⑤幼児期の記憶
⑥モチーフ・テーマの提示
『わが鎮魂』の序盤の方は、読解上必要な情報を過不足なく伝える注解だったり、あるいは情報過多な注解だったりする
ふみわけた草木の名前
かきわけた草木の名前は
やまかがみ
みらのねぐさ
まつほど
やますげ
(中略:18行)
つき
まゆみ
らふえる
まい
あめく
ざあび
あるみ
とろめ
かいな
あてのうら
――「I」 『わが出雲』
注を見てみると
やまかがみ…… 以下、「まゆみ」までは、「出雲国風土記」に、群毎に物産として列挙されいている(有用)植物の名前の中から、主として音韻によって選んだ。加藤義成氏『出雲国風土記参究』に依拠して、各々について記してみると、「やまかがみ」ブドウ科のビャクシン(用途は解熱および腫物の薬)、「みらのねぐさ」ウマノスズクサ科のサイシン(風邪・頭痛・口熱の薬)、(後略)
――「I」『わが鎮魂』
各植物に対していちいちコメントする必要まで無いだろ、と思うのだが。
一方、「らふえる/まい/あめく/ざあび/あるみ」「とろめ//かいな/あてのうら」に関しては植物でも何でもなく、実はダンテ『神曲』からの引喩であることが注解されている。こちらは詩本編の厄介なトリックを理解するために必要な情報。
だが、『わが鎮魂』は「読解を助ける」という注の本懐をはるかに超えたことをしようとしている。
大蛇の睛(め)……ほおずきの幻 (前略)
なお、日本本州の形を一匹の爬虫類にみたてれば、出雲地方はその眼の部分に、そして特に中海(なかのうみ)宍道湖の部分は瞳にあたる。
――「II」『わが鎮魂』
いかにも気が利いたことを言っている風だが、詩本編で《蛇》のモチーフはそれほど強くない。特に「日本本州の形を一匹の爬虫類にみたて」る必要性はどこにもなく、これは攪乱でしかない。
時間の、闇 ここでは必ずしも直接の関係はないが、フランス語の la nuit des temps は「太古」「有史以前の暗黒時代」の意で用いられる。
――「II」『わが鎮魂』
「太古」「有史以前の暗黒時代」は重要なテーマかもしれないが、しかし「フランス語の la nuit des temps」を持ち出す必要性は一切ない。「直接の関係はないが」と断ってでもなぜ書いたのか?
その場で思いついたことを書いてないか、と疑わせる書きぶり。一部適切な注解と饒舌の裏に何かから(しかしそれが何なのかは分からぬままに)目を逸らさせようとする「意図」まで感じさせる。
『わが鎮魂』は明確に作品として企図されている。
鳰鳥 ニオ科カイツブリ。(中略)
私が幼児しばしば遊びに行った松江城の堀には、いつもカイツブリがいて、もぐったり浮かんだりしていた。今ではその堀もかなり埋立てられ、残った部分には、今度行ってみると白鳥が泳いでいた。
――「II」『わが鎮魂』
「IX」『わが出雲』の亡母憧憬に繋がって来る幼児期の記憶の描写。これは注解というよりは詩の一部である。
またこういった描写によって、自注における「私」と「実注解者」、および詩本編における「ぼく」と「実作者」の計四者からなる関係は可変的になってくる。
「実注解者」は「実作者」の振りをして情報を出すが、(例えば「この二つずつが選ばれたのは、主として音韻上の理由」)どこまで本当なのか。
どこに どこに どこに…… 宮沢賢治の童話「よく利く薬とえらい薬」でヨシキリが空か叫ぶ、「まだですか、まだですか、まだまだまだまだまあだ。」のレミニッサンスらしい。
――「VII」『わが鎮魂』
なぜ「らしい」なのか。自信がないなら「かもしれない」と書けばよいだろう。なぜ伝聞形になったのか。
このように、『わが鎮魂』だけ読んでも中々面白い。
余録1:いくつかの植字的方法
1968年の日本詩界隈において、植字的実験は殆どやりつくされ、目新しいものではなくなっていたと思う。逆に今更という点で珍しかったか?
『わが出雲』では、長編詩という制約の中で比較的有効に扱われている。
「II」『わが出雲』
「この一節の文字によってつくられたバッテン形は、神社の屋根にある千木(ちぎ)をかたどったもの」『わが鎮魂』
始めと終わりがそれぞれ2通りあるので計4通りの読み方がありえる。形をうまく使っている。
「IX」『わが出雲』
鳥の形。内容とフォルムが同期して、『わが出雲』の中でも最も強度が高い場面の一つ。
「XII」『わが出雲』
鏡文字と「六角形の神紋」。次の記事でとりあげるかもしれないが、出来がよくない。内容とわざとらしさと植字のわざとらしさ。
余録2:『わが出雲・わが鎮魂』「あとがき」全文引用
本文と注とから成るこの『わが出雲・わが鎮魂』の制作は、私にとって、たしかに一つのオペレーションであった。しかし、この全体を、詩作品と呼んでよいかどうかは、私には判らない――というよりも、次に述べる理由で、これはおそらく詩作品ではあり得ないだろう。
私の父祖の地は、中国四県の県境にほど近い伯耆国西南部の山の中で、出雲国側の肥川(斐伊川)と水源をほぼ同じくする日野川の上流にあたっているのだが、私自身は、さる事情があって、出雲国の松江市に生まれ、半ば他処者、半ば土地っ子として十七歳までここで育った。この「作品もどき」における私の意図は、そのような因縁のある土地への私的な愛憎を都合のよい口実に、《根の国・底の国》《反逆》《騙し討》《被征服》《鎮魂=呪力の制圧》といったテーマを導きの糸としながら、パロディのパロディを本文(もどき)と注(もどき)とで組み立て、こうすることによって詩の「反現場性」「自己浸蝕性」の問題を、無二無三に追い詰めてみることだった。つまり、私の力点は、「作品を成立させること」にでなく、「作品の成立とは何かを問うこと」にかかっていた。
その意図がどこまでつらぬかれているかは知らず、いずれにもせよ問題は、作者も読者も結局はたどりつくであろう「何とまあ、馬鹿なまねを……」という憫笑、顰蹙、あるいは歎息の向うに、はたして何かが見えてくるかどうか、であろう。ところで私自身としては、このオペレーションにほぼ全力を投入し得たという、開放感に似た感じもあるにはあるが、それにしても、現実の出雲が私の意識にとって一種の大切な「地獄」であるように、この『わが出雲・わが鎮魂』は、これまた一種の「地獄下り」の体験として、忘れたくても忘れられぬ苦い思い出となるのではないかと思っている。
なお、本文については、次のごとき発表経緯をたどって、本書において最終的に決定した。「わが出雲(エスキス)」(「詩と批評」昭和四一年八月号)→「わが出雲(第一のエスキス)」(「あもるふ」29号)→「わが出雲・わが鎮魂」(「文芸」昭和四二年四月号)→本書。
――「あとがき」 『わが出雲・わが鎮魂』
[reference]
・入沢康夫全般について
・入沢康夫『牛の首のある三十の情景』について
入沢康夫論3 – 1:牛の首をめぐるパラノイアックな断章(前編) - 古い土地
入沢康夫論3 – 1:牛の首をめぐるパラノイアックな断章(前編) - 古い土地
・詩全般について
・「No.005 現代詩の創出と終焉 入沢康夫論(下編) - 文学金魚」
https://gold-fish-press.com/archives/23389
このシリーズには色々注釈をつけたいところがあるが、下編は比較的よく書けている。
・松原 正義「現代詩を教室で読めるか : 入沢康夫『わが出雲』の授業(シンポジウム,文学教育における虚構とは何か,国語教育の部,<特集>日本文学協会第41回大会報告)」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/36/3/36_KJ00009882163/_article/-char/ja/
・須賀 真以子「読むことの始源に向かって : 入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』における「わが鎮魂」の役割」
https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/34138
ブランショ『文学空間』の影響。「ぼくの詩が私詩的になるのは」じゃないんだが。
|次>
*1:ちなみに現存する五つの風土記の中で唯一完全な形で残っている
*2:須賀 真以子「読むことの始源に向かって : 入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』における「わが鎮魂」の役割」https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/34138