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2021/11/29, 12/3:入沢康夫『詩の構造についての覚え書』堀江敏幸『おぱらばん』

 

 

2021/11/29 入沢康夫『詩の構造についての覚え書』

 

入沢康夫『詩の構造についての覚え書』(1968年、思潮社

 

 試論・評論をいくつか読んで直観したけど、この人めっぽう気さくではないな。詩人入沢康夫に対する断定を避けるなら、実作者ボルヘスに対して作品を通じて読者の頭の中で浮かび上がる「ボルヘス」のようなものとすればよい。

 「入沢康夫」は常に怒っている。内にドロドロしたものがあり、一方でその噴出の仕方は遊びや冗句、知的なガワをまとう。ここでmy opinionとしないところ、人と直接ぶつかろうとせず逃げ道を常に用意している、隙が無いのは、自己保存よりもより高い殺意のためではないか。レスバで勝つには論理的であり続ける、少なくとも論理的なふりをしなければならない。

 「詩人入沢康夫」はこの奥に〈根の国〉・詩への交感と孤独、悲しみをたたえている。精神分析なら母無し子(ついでに姉も亡くしている)の側面から切り込むだろう。

 

 以下、印象的な箇所を引用しつつコメント。

 

「なにかうしろめたい気がするのだ。(中略)おそらくそれは、不可能を夢みつつ、その不可能に狎(な)れはじめているのではないか、という感じ」(p13)

 モーリス・ブランショ『文学空間』(1955年)から「芸術は伝達の手段ではない」を引っ張ってきて、それに対する反駁としてイヴ・ボヌフォア『詩の行為と場所』の「むしろ詩の限界を認めなければならない、そして詩がかつてはひとつの目的であったことは忘れて、詩を単に接近の手段と考えなければならない、とわたしは信じる」「詩はなによりまず、絶えざる戦いであれ」を置く。

 入沢康夫が(当時の知識人同様に)構造主義にかなり接近していたので、耳が痛かったのかもしれない。あるいは、手法を自ら開拓する詩人にとってマンネリの危機はつねにあった。

 

「この曲面での「構造」の追求は、先にもいささか口をすべらせたように、おのずから「詩の反逆性」(この世界を造った「神」を象徴とする権力・支配体制・世間的善等々に対する反逆)へと導びかれるのではあるまいか」(p34)

 若い。だがこの「怒り」こそ始まりだったのかもしれない。人々の「つくりもの」への疑心を「つくりもの」である「権力」が利用しているという文脈。

 また「怒り」は「言葉」へも向けられる。言葉の中に不可分に嘘が含まれている、それを抉りだして見せたのは入沢康夫の仕事の一つである。『牛の首のある三十の情景』が象徴的。

 

「詩につきまとう人間的関係を不純と見て拒否を重ねていけば、詩人は言葉を奪われざるを得ないのである」(p45)

 詩人の詩行為は《関係の関係》に関係する行為であること(言葉は関係の中で成り立っており、詩とは関係同士の関係であり、詩人はそこへ参入していくこと。圏論か?)。その関係の中に話者たる人間は当然含まれている。入沢康夫はここを忘れたことがなかった。

 

 私的感懐の吐露の詩に対して「言葉は感情を直接表現する力を十分持っているか?」と「それが果たして「詩作品」になるか?」の2点で疑義を挟んでいる。『死者たちの群がる風景』のつまらなさは少しこの点に接近する。

 

「だが、このような試みを通して、ぼくたちは《書く》ということ、《読む》ということの《不可能性》にじかに触れることになる。いわば、このような試みは《不可能性》に、その片鱗を露呈させるための罠として、なお繰り返し企てられねばならないだろう。」(p71)

 詩の形態的な線型順序について。たびたび「罠」という言葉がでてくる。何か容易には掴めぬものを捉えるための技巧、悪意、怒り。

 

「この曖昧さ(引用者注:《作者と話者の相互依存における本源的曖昧さ》のこと)は、ぼくたちの意識とぼくたちの存在との関係の曖昧さに似かよっている」(p87)

 

「そこに詩作品の光栄と悲惨を云々することも可能だろう。この場合、光栄はその自由さの故、そして悲惨はついに真の有でも真の無でもあり得ぬという不自由さの故である」(p106)

 

 詩作品を〈存在〉、〈言葉〉に置き換えてもよい。

 

「しかじかの構造性は、それ自体破れ去るべき幻影にすぎない!」(p119)

 

 常に発展を要求すること。「もはや詩などないのか?」という問。問の状態で持続したのが70年代で、80年代に入ったらもう肯定してしまうような・・・。時代の終焉、ポストモダンの終わり。

 

 

 

2021/12/3 堀江敏幸『おぱらばん』

 

堀江敏幸『おぱらばん』(1998年、青土社

 

 〈擬物語詩〉の小説への影響として堀江敏幸『河岸忘日抄』(2005年、新潮社)を読もうとしたけどダメだった。〈擬物語詩〉の特徴として「リライト不可能性」(「詩は翻訳できない」に近い)や「作者と発話者の相互侵食性」が挙げられるが、『河岸忘日抄』にはどちらも無い気がする。むしろ『おぱらばん』(1998年、青土社)を読もう。これは〈擬物語詩〉の論理で動いた散文だ。

 

 エッセイ、小説、詩が奇妙な結合をしている。異国(ここではフランス)における言語の問題は作者と発話者を微妙な関係に導く。結構フィクションだと思っていた作品「BLEU, BLUES, BLEUET」の最後にフランス詩の翻訳と思しきテキストが出て来た驚いた。

 文体が面白い小説(筋に関係なくどこを読んでも面白い小説)と詩にはどのぐらい距離があるのだろう?

 この作品において小説性を活かされているのは、モチーフの時間持続だろう。「ドクトゥール・ウルサン」では頭痛から始まって診療所の待合室でインテリア雑誌から文学者を回想し始める。それが終わっても診療所の顛末が残っている。