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可積分系の歴史:完全に解くことの系譜

 

 

私は論文 [6] を書いた後,この分野を離れました.お話ししたことはそこまでの歴史です.そしてその後もたくさんの歴史がありました.大変面白いことがたくさん起こりまして,それは東京で開かれた会議で見ることができました.しかし,あれは本当にエキサイティングな時期だった.毎日研究室に入ると,何かしら新しいことが起こったものです.本当に,本当にエキサイティングな時期だった.そして残念なことに,私はあの興奮を 2 度と再現することはできませんでした.御来聴いただき,ありがとうございました.

(ロバート・ミウラ/著、梶原健司・及川正行/訳『ソリトンと逆散乱法:歴史的視点から』)

 

wagaizumo.hatenablog.com

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 今回が『量子群勉強ノート』だと思っていた人は、見通しが甘すぎる。というのは筆者のことで、もう1つ記事を挟まないと量子群の文脈が説明できなかった。

 以下では可積分系と呼ばれる研究分野について、その時系列を整理する。筆者の考えだと可積分系の難しさの一端は、非自明で発見的なアイディアがいくつも出てくるのに、誰が何をやったのか腑分けして教科書に書いていないことにある。歴史的視点はこれから可積分系を学ぼうとする人の一助になる、かもしれない。もちろん、分野の歴史はそれ単体で面白いものである。

 なお本稿は数学側からの記述である。物理側でこのあたりをやっている人は単に数理物理と言う気がする。

 17000文字。

 

 

可積分系の紹介

 

 可積分系とは何だろうか。「解ける」物理系のことである。

 次に「解ける」とは何だろうか。ここでは、「物体の軌道、系のエントロピー、量子場の相関関数といった興味ある物理量が、既知の関数で具体的に書けること」くらいの意味にとっておこう。曖昧さが気になる方は脚注を参照*1

 

 前提として確認しておかなければならないのは、解けない物理系の方が基本的にはずっと多いことである。相互作用が入るとまず解けない。だから本来、非自明な可積分系はそれだけでありがたいのだ。最近はやたらめったら可積分系が増えてきた気もするけれど。

 特に現実を記述するような物理モデルは、解が明示的に求まらないことが多い。今日の素粒子物理・標準模型も解の表示に関しては絶望的で、物理量を予測する段階では摂動計算と近似計算と数値計算しかしていない。しかし物理的議論に支えられて実験結果とも整合するのだから、可積分でなくとも困ることはない。

 

 では、なぜ可積分系を研究するのか?

 可積分系はだいたいの場合、トイモデルだ。解けるのと引き換えに、必ずしも現実を記述するわけではない。一方、単純だからこそ理論的に深く研究できて、それが現実という複雑すぎるモデルをうまく切り取っていることもある。このあたりが可積分数理モデルを研究する物理的なモチベーションだろう。

 あとは、解けると単純にうれしい。そしてただ解けるだけでなく「うまくいきすぎている」と言いたくなるような現象が観察できると、どうしてそんなことが起こるのか考えたくなる。これが数理物理の人ならびに数学の人が可積分系を研究するモチベーションだろう。

 

 

1800-94年:解析力学と空白の70年

 

 17世紀末力学の創始者Newton、18世紀の王者Eulerを経て、18世紀末に解析力学古典力学)のスキームを作ったのがLagrangeだった。

 一般に19世紀の物理というと、まず電磁気学と熱力学の名が挙がるだろう。しかし古典力学の探求も忘れるべきではない。20世紀初頭の量子力学は、19世紀古典力学の語法抜きにはありえなかった。

 

 たとえば、Hamilton(1835年)は常微分方程式である運動方程式を、敢えて偏微分方程式系に書き換えた。つまりハミルトニアン  H = H(q,p)  q は座標、  p は運動量)に対して、 \frac{dq}{dt} = \frac{\partial H}{\partial p} \frac{dp}{dt} = - \frac{\partial H}{\partial q}運動方程式になる。この形式では座標と運動量が等価となり、対称性が見やすい。量子力学においてHamiliton形式は正準量子化と呼ばれるものに対応する。

 Poisson括弧が消えるという条件  \{H, I \} =0 で、保存量  I : \frac{dI}{dt} = 0 の研究に主軸を移したのは、ゲッティンゲン大学のJacobiだった(1835-43年)。彼の膨大な古典力学研究は、可積分系研究の祖とみなすことができる。Poisson括弧は量子力学において作用素のLie括弧  \lbrack \  A , B \  \rbrack = AB - BA に持ち上がる。

 

 抽象論が整備され、解ける物理系も拡大していった。それと同時に可積分系の限界も見えてくる。

 歴史的に初めて「解けない」ことが示された系は、3体問題だった(Poincare、1890年頃)。天体が3つあるだけで人間には解を表示することができない。

 さらに20世紀(コンピュータが使えるようになった1960年頃?)に発覚したのは、3体問題は単に求積不可能なのではなく、カオス的振る舞いを見せることである:系は決定的なので、初期値を定めればその後の挙動を数値計算で一定時間追うことができる。しかし数値誤差に鋭敏に反応するため、長時間正確に追うことは難しい(たとえば50億年後の太陽系の様子はまずシミュレーション不可能)。また初期値を摂動したときの解の振る舞いを系統的に記述することはできない。

 カオスは可積分と真逆の現象であり、一般の物理系はこの両極の間に位置している。

 

 物理系を「解く」試みは、20世紀に入ってからも当然、相対性理論量子力学で行われる。その中には解が明示的に表示されているものもあれば、近似計算のアルゴリズムを与えているものもある。ただ、系が明確に無限次元になることに注意したい。量子力学は無限次元ヒルベルト空間を相手取り、相対性理論を含む場の理論は未知量が関数のため、やはり無限次元になる。だから、「保存量を出来るだけ多く構成して云々」という古典可積分系的な方針をとるのは難しかった*2

 20世紀に入ってからも古典力学の研究者はいたが、可積分性にこだわることはまずなかった。Poincareの仕事が古典力学の頂点にして破局点であり、これ以上新しい古典可積分系が見つかることはないと思われたのかもしれない*3

 可積分性の考察をきっかけに「動く分岐点を持たない」という条件で非線形常微分方程式を分類したPainelveの仕事(1900年頃)は、計算がとても大変(分類だけで300ページ!)なのに応用が無いと不評だった。19世紀の曲面微分幾何において出てくるsine-Gordon方程式などは、それが可積分系だと気付かれぬまま微分幾何の大局化の波に呑み込まれた。有限次元の古典力学系で可積分なものは、超楕円関数によって解が表示されるKovalevskayaのコマ(1889年)を最後に、戸田格子(1967年)まで現れなかった。

 

 

1965年:ソリトンの再々発見

再現実験:Russellが孤立波を発見したユニオン運河にて(Nature v. 376, 3 Aug 1995, p.373)

 現代的な可積分系研究は、プレモダン回帰なのかもしれない。現象としてはそう見えてしまう。ただ、「20世紀数学(物理?)における抽象化の潮流への反動として始まった具体の系譜」のような解釈が妥当かは分からない。魅力的な構図だが、事後的な読み替えに過ぎない気もする。

 もっと具体的に問おう。なぜ可積分系は復活したのだろうか? 応用が見つかったからである。どのような応用だったかは後述するとして、なぜ応用が見つかったのだろうか? あるいはそもそもどのようにして可積分系に注目が集まったのだろうか? 1960年代にコンピュータによる数値計算が可能になったからである。

 解が明示的に表示できるため、原理的にはコンピュータ抜きで行えそうな可積分系の研究は、可積分性と対極にあるカオスの研究と同様に、やはりコンピュータに支えられていた。これこそ時代の基底と言うべきだろう。

 

 KdV方程式(Korteweg–De Vries equation)と呼ばれる偏微分方程式がある*4。空間+時間=1+1次元上の関数  u = u(x,t) に関する方程式で、

 u_t + 6 u u_x + u_{xxx} = 0

と書かれる。ただし変数に関する偏微分を下付き文字で表現した。たとえば u_{xxx} u x に関する3回偏微分

 

 造船技師のRussellは1834年、浅く狭い運河において1-2マイルもの間崩壊せず前進し続ける孤立波を観察した(1834年)。これを今日の言葉で言い換えると、KdV方程式の1ソリトン解を実験的に発見したことになる。理論的に双曲線関数  \textrm{sech} (x) = \frac{2}{e^x + e^{-x}} を使って

 u = \frac{c}{2} \  \textrm{sech}^{2} ( \frac{\sqrt{c}}{2} (x - ct - a))

と表示できそうなことも分かった。ただそのような孤立波が本当に存在し得るかは、当時喧々諤々の議論を呼んだらしい。

 1895年、KortewegとDe Vriesが孤立波現象を含む浅水波を記述する偏微分方程式としてKdV方程式を提唱した。ただし、以後70年も彼らの仕事は放置されることになる。

 

 KdV方程式を再発見し孤立波を再々発見したのは、非線形格子におけるエネルギー伝播の問題(Fermi–Pasta–Ulam、1955年)*5を解くために連続極限での数値計算を行った、ZabuskyとKruskalだった(1965年)。現代的な可積分研究の源流は応用目的であり、可積分系と知らず可積分系を研究していたのである。

 KdV方程式自体は130年前に既出だったが、2ソリトン解と呼ばれる解は彼らが初めて発見した*6。2ソリトン解において、速度が速い孤立波が速度が遅い孤立波を追い越す形で衝突しても、それぞれの波形は壊れず、そのまま伝播する。

 

“Evolution of a two-soliton solution of the KdV equation” (Griffiths- Schiesser, “Linear and nonlinear waves”, 2009, p.29)

 これは驚くべきことだった。というのも、一般に非線形な方程式において、2つの解  u_1, u_2 に対し  u_1 + u_2 も解になるという「重ね合わせの原理」は成り立たない。2つの波が衝突すれば元の形は跡形もなくなるのが普通である。

 ところが、KdV方程式は非線形にもかかわらず、「ほぼ」重ね合わせの原理を成り立たせた。一方で、KdVは非線形性でもある。非線形性は波の形の強い制限と、衝突前後の位相差――衝突が無かった場合よりも、速い波は少し前に行き、遅い波は少し後ろに下がる――に現れている。

 このように、KdV方程式の孤立波(solitary wave)はある種の粒子のように振る舞うため、ソリトン(soliton)と名付けられた。

 

 

1967-68年:逆散乱法

 

 ソリトンの発見に続いて、Kruskal周辺の人々により、KdV方程式のソリトン解を積分計算を通じて解く逆散乱法(ISM: Inverse Scattering Method)と呼ばれる重要なメソッドが開発された(Gardner-Greene-Kruskal-Miura、1967年)。

 KdV方程式の解法は、伝統的に研究されてきた粒子や波の逆散乱問題に帰着できる。順散乱問題が初期値=散乱前のデータから散乱後の様子を予測する問題なら、逆散乱問題は散乱後のデータから初期値を予測する問題だ。

 

ロバート・ミウラ/著、梶原健司・及川正行/訳『ソリトンと逆散乱法:歴史的視点から』p.5

 逆散乱法はつまるところ、非線形な問題を線形な問題に帰着するメソッドである。ならばKdV方程式は「見せかけの非線形性」を持っていただけなのか? これは微妙な問である。何しろ上図のように、帰着するまでの過程はかなり非自明だ。また、線型方程式を当てずっぽに変換して非線形にしても、KdV方程式のように良く振る舞うことはまずない。というわけで、非線形性にも何か宿っていると思うべきだろう。

 逆散乱法によってnソリトン解(n個のソリトンがある解)の明示的表示が得られた。また、無限個の保存量や、KdV階層と呼ばれるKdV方程式に付随する偏微分方程式の系列(保存量に対応する対称性を微分方程式の形で書き直したもの)も発見される。無限個の保存量の存在は、Noetherの定理*7に従えば無限次元の対称性があるということだし、Liouville-Arnoldの定理を延長すれば、系が可積分であって時間不変な作用変数(=保存量)と時間に対し高々1次で動く角変数に分解できたことになる。KdV方程式は関数を未知量とする無限次元の系だが、たしかに古典可積分の系譜に位置付けることができる。

 

 ただし、ソリトン解の波形の制限は厳しく、KdV方程式に自由に初期値を与えればnソリトン解以外の解が生じることはすぐ分かる。逆散乱法はほぼソリトン解のみを求めるメソッドと化しているから、ソリトン解が何らかの意味で解を尽くしているか(たとえば  L^2 空間の正規直交基底になるなど)を問うべきだろう。これについては次の記事の「KdV方程式の一般解」を参照。

可積分系に関するメモ:ソリトン方程式 - 古い土地

 

 なによりも逆散乱法が偉大だったのは、KdV方程式以外にも適用可能な一般性を持っていたことだろう。可積分系の研究を復活させながら、「ソリトン」という分野そのものを創ったのだ。

 逆散乱法により、非線形Schrodinger方程式、戸田格子、Calgero-Moser系(1971年)、sine-Gordon模型といった「非線形なのに解ける」可積分系が続々と発見された。これら全てがソリトン的な解を持っており、まとめてソリトン方程式と呼ばれる。

 Sine-Gordon模型のソリトンのグラフ化はかなり愉快なのでお勧めしておく。

Sine-Gordon equation - Wikipedia

 

 ここで逆散乱法の言葉について補足しよう。逆散乱法はふつう、Lax対(1968年)によって書かれる。Lax形式はHamilton形式に並ぶような一種の形式だと言ってよいだろう。Lax形式により書ける現象のクラスはとても広いわけではないが、人間の手に負える非線形可積分系となると、ほぼLax形式で書かれるのが現状である*8

 具体的には、時間依存する作用素  L(t), A(t) についてその時間発展  L_t = \lbrack A , L \rbrack が元の可積分系と等価な式になるとき、Lax対という*9。たとえばKdV方程式の場合、  L = \partial^2 + u ,  A = \partial^3 + \frac{3}{2} u \partial + \frac{3}{4} u_x (ただし  \partial  x に関する偏微分作用素)とすればよい。 

 Lax対は各可積分系に対してアドホックに見つけるしかないが、発見さえできれば保存量が  tr(L^n) \ ( n \in \mathbb{N}) で無限に構成できるなど、様々な恩恵をもたらす。

  L(t)固有値  \lambda は時間に依らない。これは逆散乱法の過程でも使われる良い性質だが、逆に固有値よりも固有ベクトル  \psi (t) の方が運動方程式の情報を持っているとも言える。

 

 

1970-79年:可積分系の諸相

 

 工学系、物理系、数学系などいろんな人がいろんな方法でいろんな可積分系を研究したのが1970年代である。その中からいくつかを並べてみる。

 

 1971年、Zakharov-FaddeevがKdV方程式を具体的に無限次元の可積分Hamilton形式として書き下す。場の理論における定番の(変な)方法を使う(参照:『可積分系の数理』p.73)。

 数理物理学者Faddeevを中心とするレニングラード学派は可積分研究史においてきわめて重要である。1980年代に可積分系の理論的研究で獅子奮迅の活躍を見せる数学者V. G. Drinfeld(1990年フィールズ賞受賞)もここの出身だ。

 

 1974年、NovikovがKdV方程式の周期解を考察し始める。そこで代数幾何学的解法が現れる

 1977年、KricheverがKdV方程式を含むソリトン方程式の(準)周期解を考察した。実のところソリトン方程式は、指数関数で表示できるソリトン解以外にも、(超)楕円関数で表示できる(準)周期解を持つことが多い。(準)周期nソリトン解はさらに一般に、「種数nのリーマン面のヤコビ多様体上のテータ関数」を利用して書ける(ある種の逆散乱形式:ヤコビ多様体に移ると系の時間発展は線形化される)。このような可積分系代数幾何の結びつきは現在も継続している*10

 

 1978年、Atiyah-Drinfeld-Hitchin-Maninによって非可換ゲージ場であるYang-Mills理論の反自己双対インスタントン解ソリトンに似た振る舞いをするのでこの名前が付いた)が具体的に構成される。いわゆる[ADHM]。

 1点注意しておくと、素のYang-Mills理論は可積分ではないが、超対称性を加えた  N=2 の超対称Yang-Mills理論は可積分系だと言われている。Yang-Mills理論はその質量ギャップの存在証明がミレニアム問題に選ばれるなど、今なお物理学者と数学者を惹きつけ続けている。

 [ADHM]が重要な理由を列挙してみる。きわめて複雑だと思われていたYang-Mills理論の解が特定条件下で具体的に書けたこと。それが物理学者ではなく数学者によって行われたこと。東西の大数学者Atiyah、Maninに混じって、新進気鋭のDrinfeld(およびHitchin)が居たこと。後のWard予想(1985年)で、古典可積分系の十分広いクラスはYang-Mills理論の運動方程式を還元して得られると主張されたこと。3次元以下の全ての古典可積分系の親玉は4次元Yang-Mills理論、なのかもしれない。

浜中真志『ソリトン理論の非可換化』2015年、p.28

 ここまで散在的かつ個別に研究されてきた可積分系だが、具体例が蓄積されたおかげで可積分系全体の地図を作るような抽象的な仕事が出てくる。

 Adler-Kostant-Symesの定理(1979年)は、リー代数  \mathfrak{g} の部分リー代数への分解  \mathfrak{g} = \mathfrak{g}_{1} \oplus \mathfrak{g}_{2} から、リー代数の双対空間  \mathfrak{g}^{*} にLax形式による完全可積分系を与えた。代数的なリー代数の分解(といくつかの条件)から可積分系が出てくるのは驚くべきことである。

 同1979年、AdlerおよびLebedev-Maninは、KdV方程式を「擬微分作用素微分の形式的逆  \partial^{-1} を含む作用素環)のなす無限次元リー群の随伴軌道上の力学系」としてとらえた*11

 これを一般化したのがDrinfeld-Sokolov還元(1981年)で、任意のアフィンリー代数の随伴軌道上にソリトン方程式の階層が存在することが分かった。つまり、表現論におけるルート系での無限次元リー代数の分類に対応して、可積分系の対称性(のうちとくに扱いやすいもの)が存在する。最もシンプルな  \widehat{\mathfrak{sl}_2} の場合がKdV階層と対応する*12

 

 

1931-79年:統計力学における可積分

 

 1980年代に入る前に少し寄り道をし、量子力学における可積分性の系譜を見ておこう。といっても量子統計力学に現れたものに限る。さらに「空間  d 次元の量子多体系と空間  d+1 次元の古典多体系は転送行列によって等価になる」という指導原理が知られているので、まとめて統計力学として扱う。

 熱力学は系のマクロな振る舞いのみに着目し、蒸気機関から宇宙までを説明する。それを原子や分子のミクロの振る舞いから統計的に生じるものとして書き直すのが統計力学だった。そもそも量子論が創始されたのは、黒体放射を統計力学的に説明するための光量子仮説による(Einstein、1905年)。

 物性物理と呼ばれる巨大な分野と密接にかかわり、磁性や相転移など物質の様々な振る舞いを説明できることから、昔から今まで統計力学の研究は盛んである。当然、自由エネルギーや磁化率や臨界指数など、様々な物理量を表示する試みが行われてきた。

 

 年表形式で、「可解格子模型(solvable lattice model)」と呼ばれるものの歴史を少しだけ紹介する。

1931年:BetheがHeisenberg模型(XXX模型)を解く。いわゆるベーテ仮説(Bethe Ansatz)の方法。

1944年:Onsagerが2次元Ising模型(の外場0の場合)を解く。

1967年:Liebが6頂点模型を解く。

1967年:Yangによるベーテ仮説の拡張。および今日Yang-Baxter方程式と呼ばれる関係式の導入。

1971年:Baxterが8頂点模型を解く。楕円関数が出てくる。

 ここで「解く」と言っているのは、分配関数や自由エネルギー、よくて1点関数*13の具体的表示のことである。原理的にすべてのnに対しn点関数を知れば系を復元できるため(Wightmannの公理)、そこまでできれば「完全可積分」とも言えるだろう。ただ2点関数以上の解析は難しく表示も煩雑になりがちで、「可解」とは言われていてもこのプログラムを完遂できた量子多体系はそう多くない。

 しかし、どの量子多体系も臨界温度直上で連続極限をとると共形場理論が現れ、これについてはn点関数がつねに計算できる。

 

 転送行列やスター変換やボソン化など、統計力学系を解くための様々なテクニックが知られている中、本稿においては最も重要なのはベーテ仮説である。量子多体系で粒子が  N 個あるとすると、ハミルトニアン  H 2^N \times 2^N 行列になるなど、次元が指数的に増大する。だが最も基礎的な分配関数を計算するためにはどうしても固有分解がしたい(少なくとも最大固有値の情報が欲しい)。このためベーテ方程式と呼ばれるものを仮定し、系を準粒子の組に分解する。

 ベーテ仮説は、物理的にはともかく数学的には正当化されるべき課題が多く残されており、現在も研究が続いている*14

 

 格子模型の可解性に関して、面白い事実がある。

 まず、高次元(古典3次元以上)の格子模型は可解性からは程遠く、平均場近似などの近似計算がメインになる。3次元Ising模型はNP完全なことまで知られている(Istrail、2000年)。とはいえ可積分な理論が全く役立たないというわけではない。3次元Ising模型の臨界指数は、3次元共形場理論と同じ普遍クラスにいるという仮定*15の下、共形ブートストラップと呼ばれる手法で効率よく数値計算されている(2012年)。

 逆に1次元の多体量子系は、強すぎる相互作用と量子もつれの影響で、高次元で可能だった摂動計算や近似計算が通用しない。そのためもはや「可積分系はトイモデル」ではなく、ベーテ仮説や2次元共形場理論などの可解なモデルを通じた解析が相対的に有効になる。なお1次元という「線」上の電子系は、80年代中頃から実験的検証が可能になった。

 

 

1979-1985年:量子散乱法、量子と古典の往復

 

ソリトン方程式やPainleve方程式などの古典可積分系は結局のところ「フェルミオンの世界=行列式の世界」の範疇に属している。そして格子であれ場の理論であれ、積分な量子系はほとんどこの範囲外にある。専門家はそのギャップの大きさを肌身に沁みて知っている。

(神保道夫『ホロノミック量子場』p.122)

 

 ここまでKdV方程式に始まるソリトン方程式の研究と、統計力学における可解モデルの研究を見てきた。これらをまとめて、量子多体系の可積分性が抽象的に研究されるようになる。量子可積分系と呼ばれる物理モデルのクラスはこのとき生じた。ソリトン方程式の何らか意味での「量子化」になっている*16とも言われるが、明確な定義があるわけではない。

 以下の研究は主にレニングラード学派による。

 

 1979年にFaddeec-Sklyanin-Takhtadzhanは、量子多体系を解くための量子逆散乱法(QISM: Quantum Inverse Scattering Method)と呼ばれるメソッドを提案した。逆散乱法におけるLax対や保存量の構成をふまえつつ、ベーテ仮説を代数的に扱う代数的ベーテ仮説(ABA: Algebraic Bethe Ansatz)*17を主軸とする。代数的ではなく表現論的と言ってもよいかもしれない。

 これにより量子多体系やその連続極限で得られる物理系の研究がさらに進んでいく。本稿でそれらを具体的に並べることはしない。

 

 個別の研究と並行して、系の根本的な可積分性を支配するYang-Baxter方程式(略してYBE、次の表示はパラメータ付のもの)*18とその解である量子R行列の抽象的研究が進んだ:

 R_{12}(u) R_{13} (u+v) R_{23}(v)  = R_{23}(v) R_{13}(u+v) R_{12}(u)

 ここでベクトル空間  V = \mathbb{C}^N に対して量子R行列とは  N^2 \times N^2 行列の  R \in End(V \otimes V) であり、 R = \Sigma_{i} \  A_i \otimes B_i なるとき  R_{13} N^3 \times N^3 行列  \Sigma_{i} \  A_i \otimes id_V \otimes B_i \in End(V^{\otimes 3}) を意味するものとする。 R_{12} や [R_{23}] も同様にそれぞれ  1,2 成分と  2,3 成分のみを変換する。

 代数的に書くと意味を掴みかねるが、グラフで見ると分かりやすい。

 

“Graphical representation of the Yang-Baxter equation”(Fabio Franchini, “An introduction to integrable techniques for one-dimensional quantum systems”, 2016, p.70)

 Yang-Baxter方程式の肝は、多体問題を2体問題に分解*19し、さらに衝突の順序が最終的な散乱結果に影響しないことを保証することだ。

 2体問題への分解はソリトン方程式も持つ性質である。つまり、速いソリトン・中くらいのソリトン・遅いソリトンの3つが衝突する順序に関する不変性である。量子可積分系においてもこの性質が成り立ち、あまつさえ可積分性の根源に位置付けられている。

 

 Yang-Baxter方程式は  N^4 個の未知数に対して  N^6 個の方程式が存在する過剰決定系になっている。そのため、Yang-Baxter方程式の解が様々な発見的/系統的方法で構成されているのがまず驚くべきことである。そしてYang-Baxter方程式の解ごとに、量子R行列の対称性から「解ける」ことが保証された量子系がある(原理的には)。

 とはいえ、Yang-Baxter方程式の解を具体的に与えることはおおよそ常に難しい。また解が得られたとして、それを量子R行列として持つような量子多体系の諸物理量を与えることは、基本的には別の仕事になってしまう*20

 

 逆散乱法の位置づけは「ソリトンという分野を作った」でまとめてしまえばいい。だが量子逆散乱法の位置づけは、中々厄介である。量子多体系に限って言えば、以前からかなり蓄積されてきた研究の延長線上にあるものにすぎない。しかしながら全体的なインパクトは逆散乱法に劣るものではなく、数学への波及まで含めれば勝っているとさえ言える。

 量子逆散乱法は有限次元の古典可積分系の研究にフィードバックを与えた。その再量子化量子群として結実し、量子多体系のみならず数学の諸分野(結び目理論、表現論、圏論作用素環論、組み合わせ論、etc)に爪痕を残した。この様子は『量子群勉強ノート』で語られるかもしれない。

 

 1980年にFaddeev, Sklyanin, Takhtadzhanといった人たちが、Yang-Baxter方程式の古典極限として古典Yang-Baxter方程式(以下CYBE: classical Yang-Baxter equation)を導出した。

 パラメータ付のCYBEは次のように表示できる。

 \lbrack r_{12}(u), r_{13}(u+v) \rbrack  + \  \lbrack r_{12}(u), r_{23}(v) \rbrack  + \  \lbrack r_{13}(u+v), r_{23}(v) \rbrack  =0

 CYBEの解であり量子R行列の古典極限でもある古典r行列によって、有限次元の古典可積分系を書き換えることができる。

 

 1983-84年にBelavin-Drinfeld はパラメータ付CYBEの解を完全に分類した。解は有理関数解と、3角関数解と、楕円関数解の3つに分かれる。

 古典可積分系ごとに古典r行列が得られ、また古典r行列ごとに古典可積分系を構成する方法も知られているから、これによって有限次元の古典可積分系は完全に決定された――と考えるのは早計だろう。いくつも抜け道は考えられる。またLax形式で表示できる可積分系に限られていることは無視できない。とはいえ、人間に扱える可積分系という意味ではそこそこ大きなクラスを分類できていそうだ。

 

 1983年、CYBEの幾何的な意味合いを明らかにするため、DrinfeldやSemenov-Tian-Shansky(これで1人の名前)がPoisson-Lie群やLie bialgebra*21の理論を整備した。Drinfeldによると、古典r行列の分類はLie bialgebraの分類に対応する。このあたりはかなりDrinfeldの抽象筋肉を感じさせる仕事だ。

 

 最後の1985年、 Drinfeldが量子群  U_{h} (\mathfrak{g}) をLie bialgebra  \mathfrak{g} の変形量子化によって定義した。量子群の表現論的な描像によると、量子R行列は量子群テンソル積表現の非自明なintertwiner  V \otimes V \simeq V \otimes V によって実現できる。Drinfeldの構想は壮大であり、普遍R行列なるものを定義して、量子群の有限次元表現  V を与えるごとに量子R行列が構成できるようにした(しかし具体的に計算するのはとても難しい)。分かる人にしか分からない記述になっているが、本稿ではこれ以上の説明はしない。

 ともかく、量子群によって量子多体系のまあまあ大きいクラス(例外いくつもアリ)の可解性が説明ができたと思える。量子多体系が良く振る舞うのは、量子群に統制されているからであり、それが量子R行列を通じて系に可解な対称性をもたらす、というように。

 

 

1971-1985年:京都学派

 

 可積分系に大きな足跡を残したグループとして、レニングラード学派の他に佐藤幹夫を中心とする京都学派がある。こちらについて説明しよう。

 佐藤幹夫はグルタイプの人で、自分ではあまり論文を書かず、いくつものアイディアを優秀な弟子との共著で実現した。彼の仕事には佐藤の超関数や佐藤-Tate予想、概均質ベクトル空間といったものがあるが、可積分系に繋がるのはD加群(1972-75年)の研究からだろう。これは線形偏微分方程式の代数的な研究に端を発し、偏微分方程式を(関数解析的ではなく)代数幾何的な設定で深く扱った。現在では表現論や数論への応用が知られている。

 創始した分野に自ら「代数解析学」と名付けたように、「微分を代数で」というのが佐藤の当初からの問題意識だった*22。そのため、レニングラード学派より代数化がいくぶん早かったように思える。

 

 佐藤は学生時代から物理に興味を持っており、特にIsing模型がお気に入りだったらしい。可積分系に関する京都学派最初の仕事は、「ホロノミック量子場」(1977-78年)と名付けられたものだった*23。これは2次元Ising模型のn点関数を決定しつつ、Rieman-Hilbert問題やモノドロミー保存変形と絡めてPainleve方程式が出てくる理由を説明した。

 2次元Ising模型に関する事項をまとめておこう。自由エネルギーや相転移を明示的に表示したのがOnsager(1944年)だった。1点関数はYang(1952年)による。1970年代に入り、2点関数がPainleve方程式によって書けるというプレプリントが出回った(Wu-McCoy-Tracy-Barouch、1973,76年)。Painleve方程式の70年越しの復活と応用であり、これを受けてホロノミック量子場の仕事は始まる。

 現在では可積分系の大きなクラスの裏に、Painleve性が隠れていることが指摘されている。

 

 この次に、D加群の非可換化を念頭に置いたKP方程式の代数解析が始まる。KP方程式はKdV方程式の親玉と言える空間+時間=2+1次元の方程式であり、  u = u(x,y,t) に対して

 3u_{yy} + ( - 4 u_t + 6 u u_x + u_{xxx} ) _{x} = 0

と表示される。

 

 佐藤スクールにおけるソリトン研究の発端となったのは、工学寄りの研究者広田良吾による直接法(1971年、英語ではbilnear method)だった。逆散乱法の積分計算は大がかりすぎる、ソリトン解に限定すればもっと直接的かつ代数的に求められるだろう、というのが広田のモチベーションである。

 たとえばKdV方程式の場合、  u= 2 ( log \  \tau )_{xx} とおいて  (D_{x}^4 + D_x D_t) \tau \cdot \tau = 0 と広田方程式は書ける。 D の定義が曲者なのだが、ここでは説明を省く。広田方程式における  \tau 関数は、佐藤スクールを通して可積分系の中心概念になっていった*24

 広田型のKP方程式をいじくりまわした結果、ソリトン解全体が佐藤グラスマニアンと呼ばれる無限次元グラスマニアンのPlucker座標として記述できることが判明した(1981年)。著しい対称性の幾何的実現である。なおKP階層の導出も地味に佐藤の仕事になる。

 これを受けた佐藤の弟子筋により、ソリトン方程式の解空間がアフィンリー代数の表現空間になることが示された(伊達-神保-柏原-三輪、1982年)。アフィンリー代数ソリトン方程式を関連付けるDrinfeld-Sokolov還元(1981年)と同じ頃の仕事だが、[DS]が外部(方程式の幾何的実現)に注目したならば、[DJKM]は内部(解空間)に注目したと言える。

 

 佐藤自身はこの後可積分系から離れていく。だが弟子の神保道夫と三輪哲二は量子多体系の方へと進んでいった。神保は「(ホロノミック量子場=2次元Ising模型の研究の方を重視して)、ソリトンはむしろ寄り道だと思っていた」らしい。

 そうして1985年、神保もまた量子群が量子R行列を生成することに気づく。彼の着想はDrinfeldと全く別ルートで、Schur-Weyl双対*25における対称群を、その量子変形であるHecke環に置き換えたケースの考察による。発見的だが、「量子群の表現のintertwinerがR行列になる」という事実は見やすくなる。

 

 

おわりに

 

 以上が量子群登場までの可積分系の歴史になる。可積分系の思想に関するコメントは、『表現論の歴史』とだいたい同じになるだろうから、ここでは1つ引用するにとどめる。

 

第II部における議論についての別の側面として、筆者の見解ではさまざまな結果はある種の自然現象であると思って観察するのがよいと思う。別のいい方をすれば、論理的に結果を理解しようとすることは避け、個別の性質や例をよく観察してそれをそのまま受け入れるのがよいだろう。よく知られているように論理的方法では自然現象のごく一部しか認識することができない。

(坂本・キリロフ『ベーテ仮設の数理』p.109)

 

 本文で紹介できなかった部分を補足する。

 

 ①特殊関数や直交多項式といった既知の関数を増やす方向性について、Painleve方程式以外触れることができなかった。数値計算アルゴリズムや表現論などで応用があり、可積分系との関係でも当然重要である。

 

 ②連続なソリトン方程式は離散化(空間や時間など定義域の離散化)のみならず、超離散化(値域の離散化)もできる。

 もともとコンウェイライフゲームなどで有名なセルオートマトンの分野において、80年代後半からある種の可積分系の研究が始まった。これは離散ソリトンのうち、さらに値域が  \{ 0,1 \} の場合だと思える。広田-三輪により超離散化のメソッドが導入され、max-plus代数(通常の「和と積」を「max関数と和」におきかえた代数)における広田方程式で可積分オートマトンが書けることが判明する。

 初等的でありながら深い洞察をもたらすのは薩摩-高橋による箱玉系(1990年)だろう。この系はとてもシンプルである。

 

薩摩順吉、時弘哲治『超離散化 一セルオートマトン微分方程式をつなぐ一』p.48

 無限に並ぶ箱に球がいくつか入っている。1回の時間発展は「もっとも左側にある玉を1番近い右側の空き箱に移し、最初の状態で2番目に左側にあった玉を1番近い右側の空き箱に移し、最初の状態で3番目にあった玉を……という操作を全ての玉を1度移動させるまで繰り返す」と記述できる。

 さて、上図においてすでにソリトンの衝突が現れていることに注意しよう。2個の玉の連なりは速度2を、1個の孤立した玉は速度1を持つ。これらが衝突しても「位相差」の他にはなんら影響が出てこない。

 箱玉系は無限個の保存量を持ち、組み合わせR行列によって局所的な描写を持ち、rigged configurationと呼ばれる組み合わせ論的対象によって逆散乱形式で書けることが知られている。またKdV方程式の超離散化とも、戸田格子の超離散化とも、可解格子模型の低音極限(結晶化)とも、トロピカル曲線のヤコビ多様体上のテータ関数とも思える。離散数学の宝物庫のような可積分系*26

 

 ③非線形ではないのだが非自明な線形可積分系として、各所に莫大な影響を及ぼした2次元共形場理論(Belavin-Polyakov-Zamolodchikov、1984年)に一応触れておこう。相互作用を持つ場の量子論のn点関数が全て明示的に書けることは当時相当驚かれた。なおBelavinはDrinfeldと一緒にCYBEを解いた人である。

 ちゃんと説明しようとすると、物性物理における臨界現象の記述から始まって、超弦理論に関わり、表現論の人が関わり表現論に影響し、量子群と関わり、作用素環と関わり、複素幾何・代数幾何と関わり、数論と関わり、ゲージ理論と関わり、……と正直手に負えない感じがある。もう40年ほどになるから歴史を編めなくはないが、この横の広がりを記述することは筆者の能力をはるかに超える。

 可積分系的には、Gaussの超幾何微分方程式の拡張になるKnizhnik–Zamolodchikov方程式(1984年)をもたらしたことが重要である。

 神保道夫は次のような主旨の言葉を残している:「Ising模型に関しては物理学者よりも自分たちの方が詳しいと思っていたが、共形場理論が発見されたとき「やられた!」と思った。[……]ホロノミック量子場がIsing模型の臨界温度へ向かっていく有質量連続極限なら、共形場理論はIsing模型の臨界温度直上における無質量連続極限である」。

 

 ④1978年[ADHM]によるインスタントン解構成以後のゲージ理論超弦理論可積分系の関係を追ってみよう。もともと「摂動論的にしか計算ができないゲージ理論をなんとか非摂動論的に記述できないか」というモチベーションがあり、それはある意味ゲージ理論可積分系にする仕事だと言える。その手段としては、超対称性が系に追加されることがほとんどである(Coleman-Mandulaの定理よりそれ以外の対称性があり得ないので)。

 [ADHM]の影響下で、4次元微分トポロジーに革命をもたらしたDonaldson理論(1983年)が生まれた。「4次元多様体  M 上のYang Mills理論の反自己双対インスタントン解のモジュライ空間という非常に高度な対象からは、なぜか  M微分同相類に関する精緻な情報を引き出せる」というのがその主張である。思うに、Donaldson理論は数学者が明確に物理学者に先んじた最後の理論だったかもしれない。

 Donaldson理論の物理的解釈として  N=2 の超対称ゲージ場や位相的場の理論が構想され、物理側でSeiberg-Witten理論(1994年)が生まれた。今度はSeiberg-Witten理論が数学的に解釈され、4次元微分トポロジーに応用を与えた。計算が非常に難しかったDonaldson理論をだいぶ簡単にした。

 そしてSeiberg-Witten理論は戸田格子のスペクトル曲線と関係している。ここから可積分系を変えることでSW理論を一般化しようという試みがあった(Nekrasov–Shatashvili)。

 このあとNekrasov分配関数と呼ばれるDonaldson不変量の母関数のようなものが計算され、これも戸田階層と関連付けられた。AGT予想(2009年)によって2次元の超対称共形場と関係がつき、etc……。

 他にもWitten予想(2次元量子重力とKdV階層の  \tau 関数の関連付け、1991年)など、超弦理論や超対称場の理論に付随して可積分系の活躍の余地は大きい。冒頭で「最近はやたらめったら可積分系が増えてきた」と述べたのは、この辺りと共形場理論を指してのことである。

 

 

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[reference]

 

全般的な歴史記述において参考にした文献は次の通り。

 

上野喜三雄『ソリトン―新しい数学の揺籃』1995年

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sugaku1947/47/4/47_4_404/_pdf/-char/ja

神保道夫『V. G. Drinfle’d氏の業績(II)』1990年

https://www.mathsoc.jp/assets/pdf/overview/history/ICM90/sugaku4301024-029.pdf

木村達雄(編)『佐藤幹夫の数学[増補版]』日本評論社、2014年

中村佳正、高崎金久、辻本諭、尾角正人、井ノ口順一『可積分系の数理』朝倉書店、2018年

高崎金久『可積分系の世界: 戸田格子とその仲間』共立出版、2001年

 

 

 

*1:「物理量が具体的に表示できる」というのはのはどちらかというと「exactly solvable(正確に可解)」の意味で、「integrable(可積分)」とは必ずしも一致しない。

 可解性には物理的定義も数学的定義もなく、どこまで物理量を表示できれば「可解」と言うのかは、分野や人によって基準が異なる。傾向としては物理寄りの人の方が判定が甘いようだ。

 可積分性には有限次元物理系の場合、いくつかの数学的定義が存在する。そのため数学寄りの人にはこの言葉が好まれるらしい。しかし本稿の主題である無限次元物理系だと数学的定義さえ曖昧である。よってうまく誤魔化していくことにする。

 なお関連する評価基準として、「rigorous(厳密)」がある。系の定義から解の導出までを全て数学の水準で厳密に行える状態を指す言葉だ。これもやはり、「可解」や「可積分」と必ずしも一致するわけではない。摂動論的な場の量子論は2010年代に入ってrigorousと言えるようになってきたが、全く可解でも可積分でもない。

*2:これはやや嘘。量子力学における「ハミルトニアンを対角化するために、ハミルトニアンと可換な作用素を構成してそれらの同時固有空間をとる」という標準的な戦略は、古典可積分系における保存量の構成と似ている。

*3:Goryachev–Chaplyginのコマなどは例外だろうか。1900年にGoryachevが導入し、1948年にChaplyginが超楕円関数で解を表示した。ただこれは非ホロノミック系(解軌道が初期値と最終値のみで決まらない系)なので、可解だが可積分と言っていいのか微妙である。つまり、保存量を相空間に対し大域的にとることができない。

*4:KdV方程式の歴史については日本語Wikipediaの記述がコンパクトにまとまっている。

KdV方程式 - Wikipedia 

*5:これも日本語wikipediaの記述が端的にまとまっている。ランダムネスが起こりそうで起こらなかったことの裏に、可積分系が隠れていたという話。

フェルミ・パスタ・ウラムの問題 - Wikipedia 

*6:追記:Russellが既に孤立派同士の衝突で形が保たれることを観察していたという話もある。『箱玉系の数理』より。

*7:保存量と対称性が等価だという定理。「1910-2010年代:物理学における対称性」『表現論の歴史』を参照。https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2023/10/07/193813

*8:有限次元完全可積分系なら常にLax形式で書けることが知られている。千葉逸人『可積分系とPainlev´e方程式』参照。

https://www.wpi-aimr.tohoku.ac.jp/chiba/paper/suurikagaku2016.pdf 

*9:  L_t = \lbrack A , L \rbrack の方程式は、連立方程式  L \psi = \lambda \psi ,  \psi_{t} = A \psi が両立するための条件になっている。この第1式に関して逆散乱問題を考えるのが逆散乱法である。

*10:Kricheverの結果を紹介する文献として、田中・伊達『KdV方程式: 非線型数理物理入門』(紀伊國屋書店、1979年)を参照。

*11:1975年、Gelfand-Dickeyはスペクトル解析を用いて無限個の保存量を得ていた。[ALM]の仕事は[GD]のそれを代数化したものとみなすことができる。また[ALM]は1983年のPoisson-Lie群の先駆けにもなっている

*12:Drinfeld-Sokolov還元はもしかしたら、ベキ零軌道に関するW代数の構成法としての方が有名かもしれない。これはソリトン方程式でのあれこれを共形場理論の場合に読み替えた構成法である。

*13:座標などを変数として持つ物理量(統計力学の場合)/場(量子場の場合)を  \Phi (x) としたとき、期待値  \langle \Phi (x) \rangle  x の関数になる。これを1点関数という。2点関数は  \langle \Phi (x) \Psi (y) \rangle のこと。n点関数も同様。

*14:坂本・キリロフ『ベーテ仮設の数理』(森北出版、2021年)参照。

*15:物性物理でよく知られているように、全く異なる統計物理のモデルはしばしば、くりこみ群のフローによって同じ臨界現象に辿り着く(臨界指数などの物理量が全く同じ)。

*16:sine-Gordon模型などは古典理論とその量子化がそれぞれ可積分系になり、対応がうまくいく。

*17:ベーテ仮説にはベーテ本人による「座標的」に始まり、「解析的」、「熱力学的」、果ては「組み合わせ論的」など、様々なバリエーションが存在する。

*18:「古典Yang-Baxter方程式」、「集合論的Yang-Baxter方程式」、「組み合わせYang-Baxter方程式」などのヴァリエーションとの区別を意識して「量子Yang-Baxter方程式」と呼ぶことも多い。

*19:「散乱行列(S行列)の因子化」という。ゲージ理論のくりこみ可能性(1971年)や量子色力学の漸近自由性(1973年)が示される前の1960年代、素粒子物理は「もうすぐ終わる」と囁かれる程閉塞感が漂っていた。このような状況下で既存の場の量子論を脱する試みとして、点から弦に移行した弦理論や、散乱データだけで全てを説明しようとする散乱行列法が生まれる。前者は超弦理論に発展し、後者はYang-Baxter方程式に活かされた。

*20:この間のギャップを量子群が背景に存在する場合に埋めたのがJimbo-Miwa『Algebraic Analysis of Solvable Lattice Models』(AMS、1994年)である。量子R行列が量子群に由来するなら、n点関数も量子群によって表示することができるという内容。

*21:それぞれリー群やリー代数にPoisson括弧に対応する構造が加わったもの。

*22:佐藤は「オイラーの時代は微分の方が簡単だったのに、ルベーグ積分以降は積分の方が簡単ということになった。これはいかんと思い、どうにか微分を代数的に扱えないかずっと考えていた」という主旨の言葉を残している。以下、伝記的事実は『佐藤幹夫の数学』に基づく。

*23:「ホロノミック」という言葉は割とノリで付けたらしい。物理的には力学の拘束系やモノドロミー性に関わる言葉だが、D加群の理論体系で別途「ホロノミック」性が定義されている。

*24:ソリトン方程式から  \tau 関数が出てくるのは見やすい。しかし京都学派の歴史的には、ホロノミック量子場においてすでに  \tau 関数は現れていた。ホロノミック量子場における  \tau が広田のそれと本質的に同じなのは、どちらも「行列式の世界=フェルミオンの世界」に属しているからだと説明される。

*25:「1950-1970年代:代数群と代数幾何と数論」『表現論の歴史』を参照。https://wagaizumo.hatenablog.com/entry/2023/10/07/193813 

*26:時弘哲治『箱玉系の数理』(朝倉書店、2010年)を参照。