古い土地

暗い穴

レビュー:Charles Mingus - The Black Saint And The Sinner Lady(黒い聖者と罪ある女)

 

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 数年ぶりに聞きなおして呆れ果ててしまった。

 過度にドラマティック。過度にエモーショナル。過度にロマンティック。

 もっと言えば、過度に土臭く、ブラックで、書き譜的で、構成的で、スパニッシュで、チャールズ・ミンガス臭がして、ときどきデューク・エリントンっぽくもなる。

 

 こんなものが、こんなものが――いつのまにか我が身にひどく沁みついていた。「こんなもの」の過剰さを身体的に消化し、音楽観の奥底に溶かし込んでいた自身の無反省ぶりに私は呆れたのだ。お里が知れる。自らに流れる「血」の猥雑さに気づいてしまって恥ずかしい*1

 エドガー・アラン・ポーなどの南部ロマンス作家が持つ、ときにポルノじみた過剰さ。それを笑う資格など私にはなかった。ロマンス指数でいえば彼らと私はどっこいどっこいである。これからは友達になろう。

 

 アルバムの内容を「リズム」と「構成」という二つのテーマから考えてみる。

 

 

リズム

 

 ジャズワルツの話をしたい。このアルバムからは「スウィングする3/4拍子」という形態が持つ多様なリズムアプローチの可能性を観察できる。

  • 二小節を二拍と思う(3 + 3 /4 → 1 + 1 /4)
  • 二小節を三つに分ける(3 + 3 /4 → 2 +  2 + 2 /4)
  • 一小節を二つに分ける(3 /4 → 3 + 3 /8)
  • 一小節のまとまりを踏みつぶし拍だけ取り出して4/4拍子のように扱う

 こういったアプローチが『黒い聖者と罪ある女』の随所に現れる。偶数性の確保のためだ。以下で説明する。

 

 ジャズ、もっと広く言えばアメリカ黒人音楽のリズムの特徴は偶奇の混淆にある。フォービートの場合、4/4拍子という一小節の構成法に偶数性があり、一拍をさらに二つに分割するときのスウィングという規則(書き譜では2 : 1で指定する)に奇数性が宿る*2

 さて、ジャズワルツでは外側(3/4拍子)も内側(スウィング)も奇数で支配されている。自分で曲を演奏したりいじくってみるとわかるが、きっかり「ジャズ・ワルツ」を守っていると全然ジャズっぽくならない。ジャズにするためにはどこかで偶数性が必要なのだ。そのために上記のようなアプローチが開発された。

 

 アルバムの冒頭(~0:48)を聞いてみよう。ドラムが2/4拍子的な動きをしているのに対しベースは3/4拍子的な動きをしている。次(0:49~)につながるのはベースの方だ。ドラムは一小節を二つに分けていたことになる(3 /4 → 3 + 3 /8 → 1 + 1 /4)*3。このポリリズムの幻惑が楽しい。ドラムのリズムパターンの方も後々形を変えて現れ(16:49~17:53)、重要である。

 60年代に花開いたジャズワルツに関する技術は70年代フュージョン以降徐々に失われていったようである。スウィングがダサい、ワルツがダサい、アドリブがダサい、と。それも理解できる。ファンク/ヒップホップ以後の我々にとって、モダンジャズのフォービートのリズム面はアドリブ以外かったるくてしょうがない。なんならアドリブもかったるい。

 ただ、ジャズワルツに関してはそのアプローチの多様さゆえにいま顧みられてもよいのではないかと思う。現代でも通用する強靭なリズムパターンのはずだ。再評価したところで発展性があるかは知れないが……。

Wes Montgomery - Full House - YouTube

John Coltrane Quartet My Favorite Things Live in Comblain-La-Tour 1965 - YouTube

 

 

構成

 

 ミンガスの構成力について考えよう。

 『黒い聖者と罪ある女』は過度に緻密で幻惑的なバレエ組曲である。ミンガスのキャリアを一貫して特徴づける複雑な構成編曲は、このアルバムで頂点を極めると言ってよい。さらに各所を彩るアドリブソロ――本来ならば構成を攪乱するもの――の大半は、リハーサルを繰り返して展開を予め決めていたように聞こえる。「強要された自由(アドリブ)」も非常にミンガス的だ。あるいはビッグバンド的なのかもしれない。

 さて、何を問題にしたいかといえば、「Bob Hammer – arranger」である。『黒い聖者と罪ある女』にはアレンジャーが参加している! 数年ぶりの聴取と同時にWikipediaの記事を読んで驚いた。

 

 しかし冷静になると、11人(木管3人/金管4人/リズム隊4人)の演奏者が参加する巨大なプロジェクトで外部からアレンジャーを呼ぶのはなんら不思議ではない。ミンガスが作曲・大枠の構成・人集め・現場指揮・ベースプレイに加えさらに細部のアレンジまで手掛けたと私が勘違いしていたのはなぜか。それはミンガスのワンマンぶり、ヘッドアレンジ神話――口頭で全てのアレンジを伝え、うまくいくまで殴り続ける――を信じていたからだ。それに8人編成10分や6人編成30分なら、ミンガスはアレンジャー無しで曲を成立させてしまう。とはいえ書き譜無しでこの密度の11人編成40分維持するのは無理があったらしい。

 他にアレンジャーが参加しているアルバムとして『Let My Children Hear Music』がある。20人以上が同時に参加していそうな巨大プロジェクトだ。このアルバムの中でミンガス自身がアレンジを担当しているのが「Hobo Ho」「The Chill Of Death」の二曲と知ると納得するものがある。言っては悪いが厚みに欠ける。逆に他の曲が重厚で緻密すぎるのか。

Charles Mingus - Let my children hear music (full album) (HD 720p) - YouTube

Charles Mingus – Let My Children Hear Music (CD) - Discogs

 

 この辺りからミンガスの限界と特色を引き出せるような気がする。『Mingus Ah Um』『Tijuana Moods』『Charles Mingus Presents Charles Mingus』『Oh Yeah』『Mingus in Europe』『Changes Two』……ミンガスの優れた作品は常に優れたアレンジを伴う。しかしそれは職業編曲家のアレンジと質が異なる。ミンガスはもっと作曲家寄りで、比較すれば粗野で、動的で、身体的だ。書き譜を残さず殴って口頭で伝えているのが良いのかもしれない。職業編曲家はギル・エヴァンス的な精密な仕事ができる。

 あるいは、担当楽器が指揮棒ではなくベースであるという点に注目しようか。自身が一流のベース奏者(ときに二流のピアノ奏者)として参加するために、曲に対する公平性を保つことができない、のかもしれない。オリヴァー・ネルソンの『The Blues And Abstract Truth』を対照的に想起する。彼はジャズの職業編曲家として有名で、このアルバムでも非常に繊細なアンサンブルを構築している。しかしテナーサックス奏者としていいとこ二流であり、アルバムを聞いていて唯一苦痛なのが彼のアドリブソロだ。

The Blues And The Abstract Truth - YouTube

 

 話を『黒い聖者と罪ある女』に戻す。気になるのはアレンジャーとミンガスの間でどのように意志決定が行われたか、何が触媒となってここまで複雑な構成になったのか、である。構成は作曲の領分なのか編曲の領分なのか、とも言い換えられる。バレエ組曲というミンガスにしては珍しい書き譜的なコンセプトで始まり、アレンジの細部と実際の書き譜を外部委託できたとしても、ミンガス自身に40分保つ緊密な構成力は……「Meditation On Integration」を聞いてるとある気もしてくる。

Meditations On Integration by Eric Dolphy - YouTube

 

 このようなわけで、「ミンガスでないもの」を意識しながら『黒い聖者と罪ある女』の構成を分析する仕事が待たれる。ミンガスの特異な仕事から彼の普遍的性質を暴けるとよい。あとは単純に、どこがどこのフレーズの変奏なのか整理したい。

 

 

 

 

 

*1:追記:何人かに言われたので弁明しておくと、私はいまだにミンガス的なもの、特に『黒い聖者と罪ある女』的なものが大好きである。そういった、愛憎の憎の部分を欠く自身のバランス感覚の欠如恐れ慄いているのだ。ミンガスの下品さに顔をしかめることができない。

*2:宿っていた、の方が正しいかもしれない。1910-20年代の黎明期のジャズを除いて、実際のスウィングはテンポが速いほど1 : 1に近くなり、遅いほど3 : 1に近くなる。このような曖昧性を持つスウィングを「奇数性」の一言でまとめるのはいささか無理があるだろう。さらに、モダンジャズのアドリブの練習とは「スウィングから離れる」ところから始まる。つまり、スウィングの自由性を知り足腰を身に着けたうえで1 : 1に近づけるのがモダンだ。フュージョン以降は完全に1 : 1なことも多い。

*3:ハイハットは2/4拍子の二拍目の裏で鳴っている、ととる。