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読書メモ:蓮見重彦『小説から遠く離れて』

 

 

「物語は本来小説の父ではないのに、父を僭称している」

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 蓮見重彦は80年代日本のニューアカ運動を牽引した仏文学研究者・映画評論家である。本書は彼が書いた文章の中では抜群にとっつきやすく初心者向けと言ってよい。『表層批評宣言』や『物語批判序説』よりカロリーは低いままいつも通りの味、つまり嫌味な文体を楽しめる。

 本書で問題となるのは小説のテクストそのものではない。「小説から遠く離れて」説話的還元である物語を議論の対象とする。そして250ページもの長い迂回の果てに、ラスト50ページでやっと「小説の擁護」を始める。蓮見が擁護したいものは、構造と言葉の不可分な絡み合いにおいて、構造(蓮見は他書で小説の「制度」とも呼ぶ)を一瞬だけ突き破るような言葉の生成/運動だ。もちろん、これをフローベールを頂点とする近代小説観と片付けてしまうことは可能である。

 ストーリーだけ抜き出してしまえば小説の味はだいぶ抜けてしまうが、それでも1980年前後の有名小説に、以下で述べるような同一の構造が見られることへの怒りがある。しかし常に類似は起こり、類似(への気づき)こそが文学をかろうじて可能にしているのだから、むしろ類似と構造に対する無配慮への怒りなのか。ひょっとすると、彼はそもそも怒るほど希望を持ってないのかもしれない*1。嫌味と皮肉とからかいを交えつつ文章はぬったりドライブする。

 

宝探し:「出発」→「発見」

権力:「依頼」→「代行」

双子:「差異」→「同一」

 

 村上春樹羊をめぐる冒険』(1982)、井上ひさし吉里吉里人』(1981)、そして丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982)は全てきれいに「依頼」→「代行」→「出発」→「発見」の構図が当てはまってしまう。さらに相互補完的な双子による二重化のテーマも潜在している。ここにあるのは刺激のない予定調和だけである。多用されうる「物語」とは結局予定調和なのだから。双子については、あらかじめ似たものを似ているといっても発見はない。

 村上龍コインロッカー・ベイビーズ』(1980)は物語図式を意識的に用いる点でわずかに物語から免れているとするが、あまり褒めていない。

 作家が「書くこと」より「読むこと」を仕事としているような、特定の物語の変奏。「まるで「なろう」だな」と2010年代を思い出してもよいし、柳田國男折口信夫宮沢賢治フレイザーを思い出してもよい。19世紀大衆小説/雑誌文学における「読者の欲望を読む」作者(たとえば短編作家としてのエドガー・アラン・ポー、新聞ライターとしてのネルヴァル)を想起するのは的外れだろうか。彼らは読みの果てに新たな欲望を創出したのだから。

 

 「小説から遠く離れ」て物語に接近することによって、なんとかして小説を成立させたのが中上健次枯木灘』(1977)と大江健三郎同時代ゲーム』(1979)である、と蓮見は主張する。一方で、「小説」を書いた彼らでさえ、自覚の有無を問わず「宝探し」や「双子の兄妹とその父による二等辺三角形」図式を採用してしまうことへの嘆息があるのだが。

 『枯木灘』『同時代ゲーム』まわりの議論が錯綜としているので整理したい。蓮見が褒めている点は「他者」の問題圏やフェミニズム批評でぶった切れる予感がある。

 父=創造主=神主への反抗はいかにして可能になるのか。特に、母が後景化する「不完全な捨て子」「私生児」たる主人公にとって。そもそも主人公はなぜ「父」=権力に立ち向かわなくてはならないのか? それと女性の扱いについて心理小説でも恋愛小説でもなく性愛小説なのやばくないか? 

 近代的な核家族ではなく前近代的な共同体が(なぜか)問題になっており、近親相姦では父もろとも主人公を罰する「法」は出現しない。なので前近代的なアプローチ、非正統的な伝説=虚構の継承によって自らも父と同質になることで父を無化する。殺しはしない。

 うーん、小説本文読まないとどうにもできんな。これを父=物語と私生児=小説の問題だと読むことの正当性もペンディングされる。

 もはや共同体が成立しえないと論じ、家族も排した阿部公房。

 

 

 いくつか言えることはあるし、いくつも言いたいことはある。

 振り返るに、私がこれまで読んだり自ら行ったりしたキャラクター分析やイデオロギー批評、テーマ批評、精神分析批評などの「射程」がどれほどのものだったのか。それらは「物語」を読むことに終始していたか、そうでないにしても「キャラ」を読むことに終始していたのではないか、という後ろ暗さを、たいした根拠もなく覚えずにはいられない。別にそれでいいと思うけれど。

 私は、小説に立ち向かったのだろうか? 蓮見のいう小説が小説のすべてではないのは明らかだが、それでもどこか……。

 今は「ストーリー」の時代ですらなくて「キャラ」の時代である、と言ってみる。「キャラ」を通じて私たちは虚構を見る。そのように小説的テクストは生産されているし、読まれ、論じられている。大衆的/ゼロ年代オタク的/フェティッシュ系なものも、とりあえず純文学と名指されているものも、古典も、すべて同一の環境に置かれている。

 

「人は近代小説を書くことをやめたが、モノガタリを語り続けていた」

 

 

 

 

 

*1:蓮見が小説について語るのは自身が文学研究者として出発したことへの義理を果たしているだけで、映画を論じているときの方が何かと楽しそうではある