古い土地

暗い穴

詩をよむそれはくるしい 1:T. S. エリオット『荒地』

 

 

 『荒地』の原文・和訳からいくつか抜粋して読むつもりだったが、冒頭の七行で力尽きてしまった。できた部分だけ公開する。

 

四月は残酷極まる月だ

リラの花を死んだ土から生み出し

追憶に欲情をかきまぜたり

春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。

冬は人を温かくかくまってくれた。

地面を雪で忘却の中で被い

ひらかびた球根で短い生命を養い。

西脇順三郎訳)

 

注:「被い」=「覆い」

 

April is the cruellest month, breeding

Lilacs out of the dead land, mixing

Memory and desire, stirring

Dull roots with spring rain.

Winter kept us warm, covering

Earth in forgetful snow, feeding

A little life with dried tubers.

 

原文:

www.poetryfoundation.org

 

 

《音声的分析》Sound

 

 まずは行末の「ing」に着目しよう。意味の句切れではなく「ing」が出現した箇所で改行することにより独特のリズムを生まれている*1。4行目も末尾は「rain」だがその一つ前に「spring」が出現し、話の転換を示しつつ音声的統一が図られているようだ。7行目では「ing」が含まれないことによって話の完全な区切りを示唆する。実際、8行目からは「僕」の「意識の流れ」が始まる。*2

 「mixing/Memory」「forgetful/feeding」は頭韻かつ子音を単語中にも出現させている。

 

 韻律の分析に移ろう。16世紀から爆発的に流行ったソネットと呼ばれる14行詩は「弱強五歩格」、つまり各行でアクセントの「弱強」が5回繰り返されるのを基本としていた。当然、定型を少し崩したりまた戻ったりすることに定型詩の技巧はある(たとえばシェイクスピアソネットを参照)。ボードレール以降の散文詩は定型を大胆に破壊したが、それは音楽性の放棄ではなく、むしろ「その場その場で定型を作りだす」ことによる音楽性の追求と言った方が正しい。

 『荒地』の冒頭ではどうか。エリオットの朗読に従って韻律を分析してみる。

 

www.youtube.com

 

April / is the / cruellest / month, / breeding  

強強・弱弱・強弱・強・弱強

Lilacs / out of the / dead land, / mixing 

弱強・強弱弱・強弱・弱強

Memo/ry and / desire, / stirring 

強(弱)・弱弱・弱強・弱強

Dull roots / with spring / rain. 

強弱・弱強・強

Winter / kept us / warm, / covering 

強弱・強弱・強・強弱強

Earth in for/getful / snow, / feeding 

強弱弱・強弱・強・弱強

A little / life / with dried / tubers. 

弱強・強・弱強・強弱

 

 韻律の分析は往々にして解釈が別れるが、今回はこれで話を進める。

 複雑で精緻な音楽性だ。各行は8-9音節を基本とし、始めは「強弱」が支配的で終わりは「弱強」にうつると無理やり整理しておこう。「強弱」のリズムはふつう行進のように力強い、ここではいささか強迫的なリズムであり、それが「弱強」という通常スムーズさをもたらすリズムと強引に接合されている。「ing」という分詞構文の動詞部分で改行していることがアクセントに影響している。

 表音の重さと表意の重さはエリオットの場合比例する。正直に言って、原文を読むより和訳で読むほうが過剰な情報が削れて気楽だ。

 

 黙読でも音楽性がなんとなく伝わってしまうのは表音文字圏の詩の特徴である。西欧が音声中心主義(デリダ)に傾いた理由がなんとなく見えてくる。英語圏の現代詩がe. e. cummingsなど種々のエクリチュール的実験を含みつつも全体としては音声的要素を欠かさないのに対し、日本の現代詩は那珂太郎など種々の音楽的実験を含みつつも全体としてはエクリチュール偏重であった。日本語圏で言葉の音楽を志す人は短歌・川柳・俳句など詩歌に流れたのか。60年代以降だと作詞家という道もある。

 

 

 

《情景的・意味的分析》  Scene, Sense

 

 エリオットが自注で書いているように、『荒地』はフレイザー金枝篇』で描かれたキリスト教以前の植物信仰と、「漁夫王」伝説とよばれる聖杯探索伝説の最も基本的なヴァリエーションに触発されている。

 第一次世界大戦後のヨーロッパの荒廃を、アメリカからイギリスへの「亡命者」であるエリオットは誰より重く受け止めた。二重国籍性、莫大な才能、そして芸術的エリートとしての自意識ゆえに。才能と自意識は新しい文法を要求する。結果的にこのテクストには、洋の東西や時代を問わない様々なテクストのコラージュ、意識のコラージュ=意識の流れ、イマジズム的な突飛な比喩、などが結集した。そうしてかろうじて「These fragments I have shored against my ruins これらの断片を支えに、ぼくは自分の崩壊に抗してきた」(V. 雷の曰く)。

 

 作品全体を流れる死と再生のテーマ。それは『荒地』の冒頭において、季節の巡りと植物の相関により示される。

 第1行「April is the cruellest month」。これは当然ギョッとしてよい宣言だ。「四月がその優しい春雨を/三月の渇きの根にまで滲みとおらせ……」(チョーサー『カンタベリー物語』「総序の歌」)のような牧歌的イメージを裏切ることでテクストは始まる。この部分の元ネタは『金枝篇』32章:「植物神アドニスの死と再生の儀礼は、フェニキアでは、雨で山から洗い流された赤土でアドニス河が血の色になる春におこなわれた」。*3

 アドニス信仰をいったん脇に置くとして、なぜ四月は残酷なのか? まず「breeding / Lilacs out of the dead land」。ライラック(仏名:Lilas リラ)は春を彩る美しい落葉樹としてヨーロッパ各地で愛されてきたが、それが「死んだ土地」から生えてくる。いや、これだけなら凍土の比喩として片づけられるだろう。しかしライラックの成木が花をつける様子が「breeding」という動物や家畜の生殖のイメージが強い語彙で表現されるとき、肉感的な性のテーマが導入され、不吉さは避けられなくなる*4ライラックの花のピンク色は血に由来するのか。

 「mixing / Memory and desire」とたたみかけられる。植物の遺伝子に刻まれた本能や生存領域を拡大していく欲望、なんかではないだろう。ここではもっと動物的で人間的なものがかき混ぜられ掻き立てられている。植物の話にいつの間にか人間が挟み込まれてしまったらしい。それにしても「過去の記憶(欲望)と現在の欲望を混ぜる」という表現は新鮮だ。欲望は常に記憶からくる。第3行をメタ的に、作品全体の意識の流れや引用のコラージュを予告する文としても読めるだろう。

 「stirring / Dull roots with spring rain」。春の雨は本来『カンタベリー物語』のように穏やかで優しいイメージだが、これも残酷さと関連付けられているのかどうか。判断を保留する。

 

 第5行からは逆説的に冬の温かさが述べられる。『荒地』の展開を先取りすれば、「再生の望みがない乾いた土地での死」に対する「水死」の希望だ。

 「Winter kept us warm, covering / Earth in forgetful snow」において、「忘却」は第3行の「記憶」と対置されている。優しい忘却*5。ところで、西脇訳は「地面を雪で忘却の中で被い」と「forgetful」を副詞的に訳している。逐語訳としては望ましくないか理知を感じる言い回しだ。

 「feeding / A little life with dried tubers」、すなわち雪の下で球根として凝縮している小さな生命。だが詩人は四月の、現代と現実の残酷さを知っている。ついでに言えば『荒地』は残酷なものを美しくも残酷に描きだした作品である。だとすれば、彼が願う「再生」とは現世でのそれではなく、現実もテクストも超えた「ここではないどこか」で行われるものなのかもしれない。

 

 

 冒頭七行を読んだ感想。ミクロな分析、不毛では? マクロに見ないと論として面白くならない予感がある。というわけでここで中断する。

 中断の理由は次のようにも言い換えられる。私たちは分析の過程で詩を読む苦しみではなく詩を語る苦しみに直面した。『荒地』ほど研究されている作品であれば解説に従うことでひとまずの「読み」を獲得できる*6。問題は読んだことをベースにいかに語るかだ。詩の批評を通じて「何か」を掴んだり掴んだように見せかけられることを、私は信じている。優れた詩の批評(しかしその数はあまりに少ない)を読んだ経験から、私は詩と詩の批評の可能性を信じたいと思っている。

 だが、今回は(今回も)私は失敗した。「小説」については一万文字でも一万七千文字でも適切に書くことができるのに、なぜ「詩」だとうまくいかないのか。*7

 次回以降は日本現代詩についてのたうちまわってみようと思う。日本の戦後以降の詩には組織的・説得的な先行研究が存在せず、私たちは必然的に読む苦しみと語る苦しみの両方と向き合うことになる。

 

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

[reference]

 

T.S.エリオット『荒地』の歴史的受容について - 古い土地

 以前書いた記事。『荒地』が日本現代詩に与えた影響を考える。

 

・岩崎宗治訳『荒地』(岩波文庫、2010年)

 「プルーフロックの恋歌」から「荒地」までのエリオットの一番美味しいところを訳出。最近の研究成果を交えた訳注もそれ単体で面白い。

 

西脇順三郎訳『荒地』:たとえば『定本 西脇順三郎全集 IV』(筑摩書房、1994年)、『エリオット詩集(世界詩人全集16)』(新潮社、1968年)

 岩崎訳と西脇訳を比べると(他にもいくつか訳がある)、岩崎訳の方が全体的にアウラがあるよう感じた。翻訳の賞味期限の問題である。ただ、岩崎訳の冒頭は「四月は最も残酷な月、リラの花を/凍土の中で目覚めさせ、記憶と」のように原文の形態をある程度保っており、日本語詩としては西脇訳をとりたくなる。

 

川本皓嗣アメリカの詩を読む』(岩波書店、1998年)

 名著。非常におすすめ。英語詩の読み方が実践的に分かるし、何より扱っている詩も読み方も面白い。ついでにアメリカ詩の歴史も結構わかる。

 

・中尾まさみ『英語圏の現代詩を読む』(東京大学出版会、2017年)

 英語圏といいつつアイルランドスコットランドニュージーランドなどの「辺境」出身の詩人ばかり扱っている。現代的な詩の研究を伺える点はよいが、研究テーマありきで詩を選び読んでいる感じがしていただけない。「その読みで本当に「何か」掴めたか?」と問いたくなる。

 

・原成吉『アメリカ現代詩入門』(勉誠出版、2020年)

 一年前に立ち読みしたきりだが、「Sound/Scene/Sense」の三つのSはここで学んだ。

 

・大橋/斎藤/大橋(編)『総説 アメリカ文学史』(研究社、1975年) 

 アメリカ詩の歴史について細かい部分を参照した。これより詳しくは英語圏の文献を参照。

 

・山口均「「死者の埋葬」冒頭18行再読」『四月はいちばん残酷な月』水声社、2022年

 背景にあるテクストについて詳しい。冒頭18行は女声の発話だという「異説」を提唱する。

 

 

*1:ただし英語詩の厳密な規定に従うとこれらは脚韻と呼べない。

*2:脚韻に関する豆知識:1行目に出てくる「month」は日常語彙だが、実のところこれとペアになって厳密な脚韻を踏める単語が辞書には存在しない。「wisdom」や「children」等の日常語彙も同様。一般に、英語は語形変化が貧しくフランス語やイタリア語より脚韻が踏みにくいとされている。長編叙事詩を英語で書く場合、ダンテ『神曲』のような脚韻付きの形式より「プランク・ヴァース」と呼ばれる脚韻を踏まない形式の方が多く使われる。とはいえ、スペンサー『妖精の女王』のような例がないわけではない。

*3:ギリシャ的自然観と「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」(梶井基次郎桜の樹の下には」)のような日本的自然観は「異教」の名において合流するのかもしれない。

*4:「breed plant」で植物の「交配」を意味する。単に成長するだけではない、生殖の意味合い。

*5:しかし第IV章でフェニキア人の水死人を思い出させていることを参照するに、忘却はむしろ「荒地での死」に通じるのではないか?

*6:それがテクストを読む経験として深いのかは別問題である。ミクロな分析の説得力が作品のミクロな読みに強く依存し、ミクロな分析に失敗したというのなら、私は作品を読めていないのだろう。

*7:詩の批評と小説の批評の違いというものは存在するのか? 市場規模との因果関係は?(つまり、詩というものが根源的に語りにくいから売れないのか、売れないから詩の語り方が開発されないのか)