古い土地

暗い穴

狂える母――オースティン『高慢と偏見』論

 

 

結婚はサヴァイヴだ

 

 

 

 

序:愉快な仲間たち(作品紹介)

 

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 ジェイン・オースティン(1775-1817年)。近代的三人称小説の祖の一人にして、心理描写の名手。ユーモアとアイロニーの達人でありながら、現代まで続く女性向け大衆小説(ヴィクトリア朝ロマンス)の人物テンプレートを全部作ってしまった作家。

 オースティンの代表作『高慢と偏見』(1813年)を読み始めて最初に思ったのは、「なんで200年前の小説に「なろう」の異世界恋愛ものみたいなテンプレが出てくるんだよ!」である。開始30ページで主要登場人物のキャラ立て(ベネット家の7人、ビングリー周辺の5人、シャーロット家の3人)を済ます剛腕ぶりには爆笑したし、その次の10ページで語られる主人公エリザベス・ベネットの「女主人公」っぷり(鋭い観察眼をもち、利発で、一番の美人ではないが快活な魅力があり、しかし自分の魅力に無自覚で、おもしれー男に愛される)にはもう参った。ひれ伏すしかない。

 

 とにかく、キャラが魅力的な小説であることは間違いない。そして魅力は、だいたい俗物性となって現れる。語りが軽妙だからユーモアな(フラット)キャラクターの方が映えるのだ。私が好きなキャラを三人紹介したい。

 

(1)主人公の父ミスター・ベネット

 場面ごとにウィットの利いたジョークを飛ばしつつ、強い〈父〉として振る舞うことができない、「ロマンティック・アイロニー」の男である。彼はジェントル階級ゆえ働かず(世間体的に働くことができない)、娘五人を養うにはやや心もとない年二千ポンドの収入を貯蓄もせず浪費しながら、書斎に引きこもる生活を送る。主人公=次女エリザベス・ベネットを「息子」のように可愛がり、エリザベスも彼を憎からず思っているようだ:「気がかりは、自分がいないと寂しがりそうな父親を置いていくことだけだった」(第二十七章 p243)。しかし、そこかしこで愚かさを振りまく母ミセス・ベネット、四女キャサリン、五女リディアへの監督責任(家父長として当然の義務)をミスター・ベネットが果たさないことから、エリザベスは物語後半でもっと強い〈父〉、ミスター・ダーシーに乗り換えてしまう。つまり、主人公エリザベスが「ヒーロー」のダーシーと結婚して物語は終わる。

 長女ジェインがミスター・ビングリーと婚約したときの祝福を引用しよう。娘への愛=照れ隠しと時代相応の女性蔑視が入り混じったセリフ。

 

「おまえはいい子だ。幸せな家庭を築いてくれると思うと、わたしもたいへん嬉しいよ。きっと、ふたりでうまくやっていけるだろう。性格もよく似ているしな。ふたりとも我が強くないから、何かを決めるなんてことはいつまでもできんだろう。ふたりとも人がいいから、召使たちに騙されっぱなしだろう。それに金離れがいいから、家計はきっと赤字続きだね」

――小山訳『自負と偏見』第五十五章 p547

 

(2)三女メアリー

 作中の事件にほぼ関わらず影が薄い。五姉妹の中で唯一美人でなく、視線を気にしてか社交に対し消極的。空いた時間は読書や稽古で忙しく、たまに目立とうとして行動すれば失敗する。

 こんなキャラの何が良いかといえば、吐き出すセリフにいちいち味があるのだ。

 

「自尊心の持ちすぎというのは」と、平素から思索の深さを自慢にしているメアリーがおもむろに口を切る。「とてもよくある欠点だと思うの。たくさん本を読んで分かったんだけど、人間、誰しも自尊心にはすごく弱いものなのね。[……]

――第五章 p33

 

 「萌え」の女だ(女性向け大衆小説のテンプレのみならず男性向けラノベの記号表象を感じる)。「たくさん本を読んで分かったんだけど」のくだりも身に染みる。

 長女ジェインは作者ジェイン・オースティンと同じ名前を付けられているけれど、これは若書きの至りというより*1、「「一番美しく無垢な姉」に作者の名前がついている」というジョークとみなせる。ラストまで考えれば、メアリーこそ作者がひっそり埋め込まれた登場人物――ヒッチコックが自作に端役でカメオ出演するように――というべきだろう。

 

(3)ミスター・コリンズ

 めちゃくちゃ慇懃かつ冗長に喋り、勘違いを繰り返す牧師。どことなくホーソーン『緋文字』のナレーターを思い出す。

 彼は事情があって主人公エリザベスに求愛する。その方法は、自分の経済力とベネット家の相続に関する問題を背景とした脅迫じみたものであった。キモいし、批判されるべきだし、傲慢だし、妄想狂で面白いし、経験の少なさが切ない。押しの異常に強いオタクみたいな男だ。

 

「[……]それにもうひとつお考えいただきたいことがあります。あなたがいくら魅力的でいらっしゃっても、結婚の申し出がまた来る保証は決してないのですよ。残念ながら、あなたのように財産が少なくては、美貌も気立てのよさも帳消しです。従ってわたくしとしては、あなたが本気でお断りになったのではないと結論せざるを得ないわけで、これはやはり、じらすことでわたくしの恋心をいっそうかき立てる作戦かと存じます。社交上手の女性が得意になさる手管ですね」

――第十九章 p170-171

 

 エリザベスに(当然のように)断られたあと彼は、「確かに自尊心は傷ついていたが、他は痛くもかゆくもなかった。[……]馬鹿で強情だという母親の評言が当たっているかもしれないと思うと、べつに惜しい気もしなかった」(第二十章 p184-185)と自己防御する。無敵か? さらにこの数日後、主人公の親友シャーロット・ルーカスのところへ節操なく押しかけて見事婚約を成立させる。

 物語終盤、主人公一家が五女リディアの駆け落ちで没落の危機に陥ったとき、マジでカスの手紙(第四十八章 p464-465)を送ってきて一服の清涼剤となったことも忘れられない。

 オースティンの恐ろしいところは、このようなフラットキャラクターの位置づけをユーモラスに了解させたあと、今度は現実に生きる矮小な人間として読者に呑み込ませることである。わずか1ページ程の、しかし的を射た経歴によって。

 

ミスター・コリンズは生まれつき頭が切れるほうではなかったし、無教養な守銭奴の父親にずっと育てられたものだから、教育や人づきあいによって鈍才が補われることもなかった。オックスフォードだかケンブリッジだかに行きはしたものの、要するに必要期間そこにいただけであって将来役立つ人脈を作ったわけでもなかった。父親に抑圧されて育ったため、もともと物腰だけはぺこぺこしていたが、今ではそこに、小人閑居がはぐくんだ妙な自尊心と、思いがけず若くして高給取りの身となった思い上がりが加わっていた。ちょうどハンズフォードの牧師に空きがでたときにレイディ・キャサリン・ド・バーグの眼にとまることができたのは、幸運な偶然と言えた。それゆえ、自分を拾い上げてくれた貴婦人に対しては尊敬と感謝ではち切れんばかりだったが、また一方では、自惚れの素質があるところに聖職の権威と教区牧師のたんまりした収入が重なって、さて出来上がったのは、高慢とへつらい、尊大と卑下が入り混じった人格だった。

――第十五章 p114-115

 

《本稿で出てくる登場人物のまとめ》

  • 父ミスター・ベネット:英国紳士。家庭内の女を放置気味。
  • 母ミセス・ベネット:しゃべりまくる喜劇的道化。本稿の中心。
  • 長女ジェイン:美しく無垢でお人好しの姉。主人公と仲が良い。ミスター・ビングリーとくっつく。
  • 次女エリザベス:本作の主人公。ミスター・ダーシーとくっつく
  • 三女メアリー:影が薄い。本をたくさん読んでいる。作者の似姿?
  • 四女キャサリン:影が薄い。一応問題児。
  • 五女リディア:ミセス・ベネットの幼形とみなせる奔放な妹。物語後半で軍人ウィッカムとの駆け落ち騒動を起こす。
  • ミスター・ダーシー:本作のヒーロー。物語後半で高慢を改め〈神〉化していく
  • ミスター・コリンズ:喜劇的道化②。ベネット家の屋敷を相続する予定。シャーロット・ルーカスとくっつく。
  • 叔母ミセス・ガーディナー:主人公の「母」をしばしば引き受ける善性の女性。

 

 魅力的なフラットキャラクターは他にも大勢いて、そのキャラクター分析は大いに盛り上がるだろう。また、主人公エリザベスとミスター・ダーシーに対する分析は、小説に真正面から取り組むものとなるはずだ*2。ストーリー分析やイデオロギー批評、テクストにみられる小説の制度性への考察も興味深い。

 しかし、私たちがこれから進もうとしているのは、愉快な脇道でも読解の本道でもない。ともすれば「不愉快」な道である。

 本稿は、主人公の母ミセス・ベネットのキャラクター分析を中心に、作品を論じていく。物語の陰画であるミセス・ベネットの分析は自然と、物語の陽画である主人公エリザベスの姿を浮かび上がらせる。

 

 

狂える母

 

思いもかけず

気の狂つた母にぼくは出くわす

――入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』「IX」

 

 ミセス・ベネットは、「とにかくよくしゃべる無知蒙昧な母」だ。作中で一番セリフの多いキャラクターかもしれない。地の文でも何かしゃべっては聞き流される様子がたびたび描かれる。

 家庭内で的外れなことを言って主人公エリザベス(とミスター・ベネット)を辟易とさせ、ジェントル階級の社交の場で矢面に立ち致命的な恥をさらす。そういったわかりやすい「身内の恥」「恋の障害」が彼女に与えられた役目だ。実際、ミセス・ベネット(と他の家族)を見たダーシーらは、真の上流階級の親戚になる資格なしとして、一度は長女ジェインとミスター・ビングリーの仲を引き裂く。物語終盤における恋愛劇でも、ミセス・ベネットの行動にはハラハラさせられっぱなしである。

 

「でも、どうかご安心ください」ミセス・ベネットは続けて言った。「わたしがリジー[エリザベスの愛称]の目を覚ましてやりますから。今すぐ説教してきます。あの子は馬鹿で頑固ですから、何が自分の特になるのか分かりませんの。でも、わたしが叱り飛ばして分からせますわ」

――第二十章 p181

 

 引用はミスター・コリンズの求愛を、エリザベスが断ったあとの場面。金と家の相続の問題だけ考えたら悪くない相手だけれど、ミセス・ベネットは打算の上にコリンズを本当に良い人だと思い込んでいる。

 ミセス・ベネットは娘たちをより良いところへ嫁がせる「ゲーム」に熱中しているが、他ならぬ彼女の言動によって「ゲーム」を悪い方向に進めている。しかも、彼女は自分の力で良い方向に進められたといつも勘違いしている。これが彼女の喜劇的ポジションだ。しかし、笑えない。笑いによる異化を挫折させるほど、彼女はしゃべりまくる。小説内でさまざまな抜き差しのテクニックを披露した作者が、「母」についてだけはリアリズムを優先したかのように。あるいは逆に、「母」についてだけは極端なフィクション性を課したのか。

 このしゃべりの過剰を念頭に置きつつ、分析を始めよう。

 

 

①階級について

 

 ミセス・ベネットのステータスをまとめておく。

 中流の商人階級の出である彼女は、その美貌と表層的な明るさから上流のジェントル階級であるミスター・ベネットに見初められ結婚する。しかし「頭も悪く心も下品な」(第四十二章p374)彼女は早々にベネット氏の関心を失った。

 まずこの結婚――ミセス・ベネットにとっては階級上昇――が不幸であった、のかもしれない。金と階級を得て、自分と同じぐらい下品な友達がいて、自分と同じぐらい下品な娘=四女キャサリンと五女リディアがいる生活。しかし夫からの尊敬はない*3。五人も子供がいて一人も息子を産めなかった負い目も、無意識のうちに背負っているかもしれない。さらに、息子を産めなかったことは現実的問題をもたらしている。ミスター・ベネットが死んだ場合、家の相続方法が特殊なせいで、所有権はミセス・ベネットではなく夫の甥ミスター・コリンズに渡ってしまうのだ。夫が先に死ねば家を出ていかなくてはならない。家を奪われることの恐怖。

 ミセス・ベネットは品の欠片もない俗物、「愚かな人」ではあるけれども、ギリギリ「悪い人」ではないと私は思う*4。ただ、彼女は「悪い配置」、エリザベスとジェインにとって非常に邪魔なところに置かれている。子供は親を選べない。

 ミセス・ベネットは階級上昇への備えが明らかに足りておらず、中流階級のままでいた方が身相応の幸福(と不幸)が手に入っただろう。「置かれた場所で咲きなさい」。(階級上昇への備えという点で、プロット上明らかにミセス・ベネットとエリザベスは対置されている)

 

②狂気

 

ミセス・ベネットの出迎えぶりは、まさに予想通りだった。涙を流しながら延々と嘆き節を繰り返し、ウィッカムの非道を罵り、自分がどれだけつらいか、どれだけひどい目に遭わされたかを並び立てる。手当たり次第に周りの人間を責めつつ、他でもない自分の甘やかしが娘の不始末の主な原因であることはきれいさっぱり忘れているらしい。

(第四十七章 p449)

「[……]もしまだ[ウィッカムとリディアが]結婚していないようなら、何としても結婚させて。結婚式の衣装だけど、リディアに言っといてちょうだい、そんなこと気にしないで先に式だけなさい、後で好きなだけお金をかけて買っていいからって。それと何よりも、主人に決闘だけはさせないで。わたしがどんなにひどい状態か言っといて[……]あっ、それからリディアに言っておいてね、わたしが行くまで花嫁衣裳は注文するなって。あの子、どの店が一番か知らないから[……]」(第四十七章 p451)

「えっ、もう帰ってくるの、リディアが見つからないうちに! リディアが見つかるまでは、必ずロンドンにいらっしゃるでしょうよ。だって、お父さまが帰ってきたら、誰がウィッカムと決闘してリディアと結婚させるわけ?」(第四十八章 p467)

 

 中盤以降、ミセス・ベネットの気分の乱高下はほとんど病的に見える。引用は五女リディアと軍人ウィッカムの駆け落ちが判明したあとのいくつかの場面。結婚の気配もなく行方をくらませた彼女らはベネット家にとって致命的なスキャンダルの種で、「リディアの居場所をみつけて結婚させなければ」残りの娘たちは結婚できなくなる可能性まであった。その意味で第一場面のミセス・ベネットの反応は人間的である。けれど、彼女は悲嘆を保てない。

 ミセス・ベネットは思い込みが激しいだけでなく、思い込みの内容をすぐ切り替える(切り替えの基準は不明。人の意見を聞いたり聞かなかったりする)。誇張したフィクショナルなギャグなのか、「でもこういう人間って居るよね」というリアリズムなのか、判断に迷うところだ。とにかく凄みがあることは確かで、通しで読んだときは笑いよりも恐怖が勝った。

 次は第二十三章、長女ジェインと次女エリザベスの結婚相手の確保に失敗し、被害妄想を語るシーン。①で述べた家を奪われる恐怖が関わる。

 

「みんなが寄ってたかって自分をいじめている」(p207)

「彼女[シャーロット]が訪ねてくると、乗っ取りの下見だという気がする」(p212)

 

 作者は「ミセス・ベネットが幼稚な自己中心性のあまり狂気に陥るコメディ」として突き放すのと同時に、ミセス・ベネットが自分自身気付いていない孤独を描いている、ように見える。

 ヒステリーか更年期障害か何かわからないが、適切なケアが行われていない。

 

 

罪と罰の経済

 

 母親の滔々(とうとう)たる弁舌を押しとどめ、幸せを自慢する声を少しでも落とさせようとエリザベスは苦心したが、まったく無駄だった。しかもやりきれないことに、向かいに座っているミスター・ダーシーに話のほとんどが筒抜けらしいのだ。エリザベスがそう注意しても、母親は馬鹿を言うなと叱り飛ばしただけだった。

「ミスター・ダーシーが何よ、何様だっていうのよ? あっちが聞きたくなけりゃ、耳でもふさげばいいんだわ。どうしてこっちが気を遣わないといけないわけ?」

「お願いだから、もう少し小さい声にして。――わざわざミスター・ダーシーの気を悪くさせて、何の得があるっていうの?――ミスター・ビングリーだってあきれるだけよ」

 しかし、エリザベスが何を言っても効き目はなかった。母親は、依怙地なまでの大声でしゃべりつづけた。恥ずかしいやら腹立たしいやらで、エリザベスは何度も赤くなった。見まいとしてもついついミスター・ダーシーを盗み見てしまい、そのたびに、最悪の恐れが現実になっているのに気づかされた。ミスター・ダーシーはミセス・ベネットをじろじろ見ているわけではないが、間違いなくずっと観察しつづけている。最初は苛立ちと軽蔑の表情だったが、しだいにもっと深刻な物思いに沈んでいくようだった。

――第十八章 p165

 

 ジェントル階級の社交の場において、母ミセス・ベネットが「恥をさらす」という罪を犯し、娘エリザベスが「恥ずかしくなる/婚活において不利になる」という罰を受ける。ミセス・ベネットが手痛いしっぺ返しを受けることはまずない。このやりたい放題、罪と罰のエコノミーをどうとらえるべきか。特にそれが母と娘の間で行われていることを、どう考えればよいだろうか。そもそも罪に結びつく恥とは何なのか。

 ミセス・ベネットは過剰な欲望の表象、「万人の万人に対する闘争(ホッブズ)」の具現化のような人物だ。彼女の欲望の過剰は、それを引き締める超自我の不足を意味する。ミセス・ベネットの良心≒超自我は、エリザベスと読者が引き受けなければならないのだ。

 しかし悲しいことに、フロイトのいう自我と超自我の関係と違って、エリザベスと読者は「痛みを感じる」ことはできても「痛みの原因を取り除く/攻撃する」ことができない。エリザベス(と読者)は母を黙らせることを望むが、必ずや失敗する。欲望はしゃべってしまう

 ミセス・ベネットは「イド=欲望の発生源」のみを担当し、エリザベス(と読者)が「自我=罰を受ける」と「超自我=罰を与える」の両方を担当する、と整理しよう。このためにミセス・ベネットは野放しになる。黙らない無意識、歯止めなくあふれる欲望≒恥を、社交の場において意識を働かせている人々は受け止めきれず、狼狽える。ミセス・ベネットへの対処法は二通りある。エリザベスのように彼女と縁近い人々は恥と感じ(=自分自身を罰する)、ダーシーのように彼女と縁遠い人々は見下す(=他を罰する)。

 ミセス・ベネット自身もまた欲望を受け止めきれず、空転している。そこが彼女の悲劇だ。恥を知らないこと、欲望を止められないこと、あるいは②で扱った感情を止められないことは、(近代)社会成立以前のものだと言ってみよう。だとすれば、ミセス・ベネットは社会から疎外され外部に位置付けられる運命にある。(社会の外にいる子供だから彼女は罰せられない?)

 

 当時の常識では未婚の娘が複数いる場合、社交デビューするのは一番上の娘だけのはずである(五姉妹が全員社交に参加するベネット一家はそれだけで非常識的だ)。この習慣は参加者の洗練と社交性をある程度確保するために設けられたのだろう。だから、ミセス・ベネットに品の欠片もないことは制度の敗北といってよい。母親は必要ならどの娘の社交の場にも参加して、娘にお手本を見せるべきなのだから。(ミセス・ベネットはできているつもりなのがエリザベスにとって痛ましい。ある程度教育されてないと自分が教育されていないことにすら気づけない)

 社交の矢面に立つミセス・ベネットが「母」として振る舞えず「娘」であり続けるせいで*5「娘の娘」エリザベスは無力感に囚われる。エリザベスが解決方法を、母親を抑え込める〈法〉を探すのは当然だ。その第一候補が父ミスター・ベネットであり、もともと父と仲が良かったエリザベスは物語後半で、母を監督してこなかった父の不能を直視する。

 

ミスター・ベネットが妻への義務と礼儀を尽くそうとしていないこともなるべく考えないようにした。父は娘たちに母親を馬鹿にさせているわけだから、本来なら看過しがたい過ちなのだが。不調和な結婚から生まれた子供たちがどれほどの重荷を負わされるか、今ほど意識されるのは初めてだった。才能ある父が皮肉と嘲笑であたら能力を消費していることから生じた不幸がこれほど骨身に沁みるのも、やはり初めてだった。

――第四十二章 p375

 

 父に見切りをつけてダーシーに慕情を抱くエリザベスのあり様は、ラカンのいう「仮装」*6の概念にきれいに当てはまってしまう。〈男〉を装いつつ、〈真の男〉に対しては〈女〉として振る舞うこと。最悪だ。

 『自負と偏見』は「娘」が「母」になるイニシエーションの物語であると同時に、「母」が「娘」であるせいで「娘」が「父」にならなければならない、近代的家族制度の破綻を描いている。

 

 

④家族というコレクティヴ

 

「――ジェインを失恋させた張本人は、血を分けた家族なのだ」(第三十七章p333)

「一家の評判が落ちて、世間の信用も失うのよ」「わたしたち[ジェインとエリザベス]がそれに巻き込まれないで済む方法は?」(第四十一章 p367)

「リディアのことが――彼女が家族全員にもたらす恥辱と苦痛が――自分についての心配を呑み込んでしまったのだ」(第四十六章 p435)

 

 「呪い」「重荷」としての血族が明言されるようになるのは、第三十六章にてエリザベスがダーシーの手紙を読み、「転回」してからのことである。エリザベスがサヴァイヴ(=結婚)するために、家族と向き合わねばならない。

 だが、この小説はきわめて冷徹に、家のしがらみや家族の恥といった障害をほぼ解決不能なものとして取り扱う。父ミスター・ベネットは作中で一応悔い改め(しかし行動が変わっている感じはあまりしない)、四女キャサリンはエピローグでまともになったと描かれているけれど、肝心の五女リディアと母ミセス・ベネットは何も変わらない。変形不可能なものが存在する。

 作品の結末から引き出せるメッセージの一つは、「結婚して逃げろ。結婚しても続く血の繋がりは耐えろ」だ。結婚を邪魔する家族の問題こそが主題だったはずなのに、それは男の愛と懐の深さに祈れと言わんばかりである。(本節最後でも触れるが、叔母夫妻はずっと善性の人間として描かれ、エリザベスの結婚に援護射撃を与える。これで実母とのバランスをとったということだろうか)

 また結婚は、新たな家族をつくることである。18世紀末のイギリスにおいて、中産階級以上の女性は家族から家族へ渡り歩くことを宿命づけられている。古い祝福から新しい祝福、古い呪いから新しい呪いへ。

 追記:当時のイギリス社会では、男性は女性よりずっと結婚の自由がある(物語序盤のミスター・ビングリーとミスター・ダーシーは結婚を全く急いでいない)。そのうえに、結婚に関しては男性が主導権を持っている。男が選び、女が選ばれる。これを踏まえると小説の書き出し「世の中の誰もが認める真理のひとつに、このようなものがある。たっぷり財産のある独身の男性なら、結婚相手が必要に違いないというのだ」(第一章 p5)はアイロニーだとわかる。「真理」とは抑圧された女性の願望に他ならない。

 

 以上は「娘」の側から見た分析である。では、「母」の側から見たらどうなるのか。近代社会において女性は「娘」から「母」になることを強要されるのだから、主人公エリザベスの将来を占う意味でも「母」視点の分析は重要である。

 改めて、ミセス・ベネットの「ゲーム」への熱中ぶり、娘が結婚しそうになるたびの狂気乱舞や一喜一憂は何だったのかを問いたい。あまりに過剰に皮相的ではないか?


 「女性のモノ化」という視点から考える。エリザベスから見て母が「重荷」であったように、母ミセス・ベネットから見て娘たちは「重荷」であったのかもしれない。そもそも娘たちの存在そのものが、母からすれば「結婚した女性は子供を産まなければならない」という規範に従った結果に過ぎない。これは、ミセス・ベネットの娘たちに対する興味・関心の欠如から裏付けられる。もっというと、彼女が五人も子供を産んだのは、「家の相続」という現実的な問題に対処しようとした結果である。家を相続できる男児が産まれるまで、彼女は子供を産まされた(そして子供の性別の偶然性により失敗する。親は子供を選べない)。

 息子が産まれなかったため、今度は数多くいる娘たちを家から追い出す「処分」をしなくてはならない。これこそミセス・ベネットが熱中しているゲームだが、その裏にも当然「母親は娘を(生き抜けるよう)結婚させねばならない」という社会的要請がある。

 さて、規範は人から人へ伝播することに注意しよう。ミセス・ベネットは社会規範に従って「産む機械」=「モノ」にならねばならなかった。そして今度は、その規範を内面化し、娘たちを抑圧する。つまり娘を結婚させ「産む機械」=「モノ」にする。ミセス・ベネットがしばしば娘たちを所有物/重荷扱いするように見えるのは、結局のところ社会規範へ過剰適合した結果なのかもしれない。(娘たちのモノ化に関しては、ミセス・ベネットの自己中心性や「リスペクトを与えられなかった人間は他者をリスペクトすることができない」というエコノミーの失敗を挙げた方が適切?)

 娘たちをモノとみなしているからこそ、ミセス・ベネットは「安心」して結婚ゲームを楽しむことができる。「ゲーム」の最中に彼女が落ち込むのは、娘の痛みへの共感からではなく、つねに自分の作戦が失敗したことへの後悔からだ。

 女性を抑圧する規範が、当の女性たちの手によって(もちろん男性たちも関わるが)、母から娘へと受け継がれていく。さらには、女性としての在り方、娘がいずれ母になるべきこと、母は娘に規範を教えるべきことまで、規範に刻み込まれている。ミセス・ベネットを中心にすると立ち現れるのはこういった図式だ。(この図式の中では伝達ミスにこそ希望がある)

 ③ではミセス・ベネットを単に「近代社会以前の存在」として描いたが、ここで見立てを修正しておこう。彼女はある種の規範を求められる水準まで内面化できないが(③で洗練とか社交性と呼んでいたもの)、別種の規範を強く内面化している(主に女性性や結婚や出産に関わるもの)。後者の方が容易に浸透するイデオロギーらしい。露悪的に言えば、「バカにはわからない」ように設計されたイデオロギーと、「バカでもわかる」ように設計されたイデオロギーがある。

 

 エリザベスが母になったとき、ミセス・ベネットに降りかかったのと同じ社会的要請へ応答せねばならない。要請への応答をどれだけ敬意をもって行えるか、が重要なのだろう(「敬意」は作中キーワードの一つ)。幸運にもエリザベスは、ロールモデルになりうる先達、叔母ミセス・ガーディナーを知っている。ガーディナー夫妻の間でエリザベスは「子供」になれる。親を取り替える自由、疑似家族のテーマ。

 

「それは無理、そうしていたら叔父さまとも叔母さまとも赤の他人になっていたはずよ」(第四十三章 p385)

 

 

⑤過剰な自我、卑小な自我

 

 ミセス・ベネットは「結婚」という女性の通過儀礼に深く囚われており、適切に距離をとることができない。彼女は娘たちを結婚させる「ゲーム」に「熱中し」「安全に楽しんでいる」とこれまで書いてきた。④の論旨はその裏にいくつかの社会的要請を見て取る点にあったが、くわえて個人的動機、自らの結婚への後悔が無意識下に存在する可能性を指摘しておこう。五女リディアがウィッカムという借金まみれで年収二百ポンド程度の明らかな「地雷物件」と結婚したときでさえ、彼女は狂喜乱舞してみせた。ウィッカム相手のリディアで幸せなら、ミスター・ベネット相手の自分はなおさら幸せなはずではないか。彼女にとって結婚とは「それだけでよいもの」でなければならない。

 「熱中」ではなく「強迫」、「楽しむ」ではなく「楽しむふりをする」という読み換えで、彼女の皮相性をいくばくか説明できるように思う。

 自らの結婚の失敗を自身に贖うため、ミセス・ベネットは強迫的に娘の結婚へ取り組み、だが意図を外れて娘の結婚を阻害し続ける。次女エリザベスと違って愚かで、長女ジェインと違って徳や忍耐力がなく、四女キャサリンと違って教育の機会が与えられず、社会的抑圧を奇妙な形で内面化した母は、つねにすでに失敗する。そして、娘の結婚が上手くいったとしても、傷が癒されることはない。娘四人が出て行ったあと夫は相変わらず冷たく、ミセス・ベネットは「時々は神経の発作を起こし、相も変わらず愚か」(第六十一章 p607)なままだ。

 彼女が求めているのは、過去のやり直し。他者から(特に夫から)敬意を払われ、自分も敬意を払うこと。人として扱われること(作中人物のみならず、三人称で語る〈作者〉や、テクスト越しの読者=私たちも、彼女の個別性からは遠のいていく!)。こう考えると、ミセス・ベネットは救えない愚かさゆえに切ない人物である。

 

 以上でミセス・ベネットに関するしゃべりの過剰、感情の過剰、皮相の過剰を説明できただろうか。個人的には、まだいろんなものが隠されている気がする。特に、作者の人生に由来する想いや痛みが潜んでいる気がしてならない。ここで作家研究を広げる余裕はないが。

 ミセス・ベネットにどのぐらい内面を想定すべきか(どう想定すると面白く読めるか)は難しい問題で、本稿では内面があると仮定した読みが多くなった。内面よりも外面、小説的機能に着目した方が適切だった可能性はある(アイロニーを真剣に受け取ってしまう誤謬を犯したかもしれない)。なにぶん、ここまでの「愚かさ」にじっくり付き合った経験が少ない。

 関連して、ミセス・ベネットに対する描写がそれぞれどのぐらいリアリズムでどのぐらいコメディ的誇張なのか、コメディ側に乗れなかった(=あんまり笑えなかった)身としては問うていきたい。これらの問いには、作者の意図がどうだったかというレベルと、テクストがこれまでどう受容・研究され、現代の読者はどう読めるかというレベルがある。

 

 

⑥女たちの共同体

 

 最後に、女たちの共同体というテーマに触れておく。

 エピローグにて三女メアリーが家に残ってくれたのは、自家中毒的な孤独を抱えたミセス・ベネットにとってかなり有難かったのではないだろうか。物怖じしないミセス・ベネットが引っ張り、内気なメアリーがなんだかんだついていくという光景が目に浮かぶ。ここに抑圧のもと結成される女たちの共同体の可能性がある。ただし、メアリーが本当のところどう思っているかは(小説全体で出番が少ないため)推測が難しい。

 女たちの共同体の例で一番わかりやすく、作品内でも好意的に描かれているのは、長女と次女の関係だろう。姉妹の連帯である。③で述べたように次女エリザベスはミスター・ベネットの代理で父親役を演じるが、このとき長女ジェインはミセス・ベネットの代理で母親役を演じる(第四十七章:五女リディアが駆け落ちしミスター・ベネットが家を空けていた場面を参照)。四女キャサリンの再教育も二人が担ったようだ。

 ところで、喪われた母と娘の共同体、今は亡き「エリザベスとミセス・ベネットの共同体」というものは考えられないか。

 

 フェミニズム論やジェンダー論では、性差別イデオロギーが内在した精神分析の理論を批判的に活用することが多い。たとえば、〈母〉〈父〉を〈他者1〉〈他者2〉に書き換えるなど。別の方向性として、父と子をめぐるエディプスコンプレックスのドラマに対抗し、母と子をめぐる前エディプス期に焦点を当てることがある*7。女児の発達に関してはエディプスコンプレックスを無理やり当てはめるより、母との「同一化」=「愛する対象(この場合は母)を喪失した結果、対象を取り込んで同一化しようとすること」により「女性」になっていく、とした方がいろんなことを説明できる。なお、ここで〈母〉を〈他者1〉に置き換えることはあまりない。というのも、子供を妊娠出産した現実の母を対象とする問題意識があるからだ。子の精神分析であると同時に親の精神分析である。

 女児はいつしか母から引き離され、本来あった「さまざまな愛の階調の可能性」(身体愛、近親愛、同性愛、etc)を喪失する。個別的な母と娘は、単に「魂の愛」「精神的な愛」「(母の側から見れば)母の無償の愛」だけの関係、常識的な「母」と「娘」の関係に収まってゆく。やがて娘は母と離別し(=母殺し)、新たな「母」となる。

 『高慢と偏見』について惜しく思うのは、エリザベスの幼少期の話が含まれていないことだ。崩壊寸前の家族についてこれほど深い描写をしているのに、幼少期の人格形成へもたらした影響を書いていない。私がスピンオフを書くなら、エリザベスの結婚後ではなく幼少期の話をする。現在のエリザベスはすでに母殺しをなしとげている(また物語の途中で父殺しをなしとげる)が、もし彼女にもメランコリーと同一化の時期があったとすれば。その時期を娘だけでなく母の視点で書くとすれば。

 

わたしはあなたを忘れない。あなたがわたしを抱き寄せていたときのことを。あなたの身体があたしに向けられ、あなたの視線がわたしに注がれ、あなたの手がわたしの命の熱さに触れていたときのことを。[……]

わたしたちはいつから愛することを恥じらうようになったのか。いつから愛することを、心配りやそれに応える控えめな感謝に変えたのか。

――竹村和子『愛について』「記憶が忘却から立ち現れるとき」

 

 

 これまでさんざん愚かさを強調してきたけれど、ミセス・ベネットのことは「愚かな母」ではなく「狂える母」と呼ぶべきかもしれない。

 18世紀末イギリスのジェントル階級の間では、愚かさが女性の美徳とされてきた(作中随一に「理想的な女性」である長女ジェインは、美人で、無垢で、さらにお人好しという「理性的な愚かさ」を持っている)。だから、ただの愚かさは問題にならない。もちろんミセス・ベネットは過剰なまでに愚かなのだが、夫ミスター・ベネットから承認(=放置)されている側面がある。こうなると彼女の特色は愚かさの軸で測るより、近代社会の制度を脅かす狂気の軸で測った方が適切ではないか。

 

 さて、作中の(「狂った」)行動を通じてミセス・ベネットが教えてくれたことの一つは、「母の無償の愛」なるものがどこまでも虚構にすぎないことである。ギャグとして読めば「母失格」で済むし、シリアスに読めば「無償の愛」なんかでは済まされない相当複雑な愛憎の関係が刻まれているよう思える。

 けれども

 

「母子関係はじつは社会的に構築されたものであるにもかかわらず、子供にとっては前社会的または非社会的なものとして経験される」

「相手の利害を認める「大人」の利他的な愛の形態を持ちうるときにすら、自分の母親には生涯、素朴でエゴイスティックな態度を持ち続ける」

――竹村和子『愛について』p166

 

 子供は必然的に「勘違い」してしまうのだ。過剰な愛も、ネグレクトも、虐待も、社会的に適切とされる愛も、社会以前のものとして受け止める。エリザベスがミセス・ベネットに恥じ入るのは、幼少期に生まれたこのどうしようもない繋がり、理性ではどれだけ切り離そうとしても「母を悪く思いたくない」という気持ちがあるせいではないか。

 そうしてまた、子供が母に「無償の愛」という理想を求めてしまうとき、母は個別性を奪われ、疎外されていく。「母」になる。これがミセス・ベネットの痛みだ。

 

 「無償の愛」を持たない母がいること(それでも子供は「母の愛」を疑いきれないこと)を感じ取ったエリザベスはどう子育てするだろうか? 叔母ミセス・ガーディナーとエリザベスのやりとりやミスター・ダーシーの亡母憧憬には「母の愛」神話が見え隠れしているので、エリザベスは基本ファンタジーを信じるだろう。一方で(よりにもよって自分の母で)決定的な矛盾も知っている。

 なかなか面白いスピンオフが書けそうな問だ。

 

 

 

[reference]

ジェイン・オースティン小山太一訳『自負と偏見』(新潮文庫、2014年)

竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波現代文庫、2021年)

・竹内康浩『謎とき『ハックルベリー・フィンの冒険』』(新潮社、2015年):「罪と罰の経済」というアイディアを借りた。

・末森恵子『『高慢と偏見』における女性教育

・新井英夫『『高慢と偏見』にみるパターナリズム

・平田沙耶香『『高慢と偏見』論 結婚と社会』

 

 

読んでいない文献

・エマ・テネント『続 高慢と偏見』(1993年)

 ファンフィクション。エリザベスの結婚から一年後を舞台とするが、すこぶる出来が悪いらしい。⑤でスピンオフの話を出したのはこれを意識している。エリザベスが子供を産んでから四、五年後を舞台に、エリザベスが子育てに関わる過程でふと自分が子供だった時を回想する、みたいな二次創作があったら読みたい。あるいは、老いて精神錯乱したミセス・ベネットが「意識の流れ」で過去と現在を語る、重い二次創作。どちらも『響きと怒り』を引きずりすぎ。

 

・セス・グレアム=スミス『高慢と偏見とゾンビ

 マッシュアップ小説。映画化もした。『高慢と偏見』読了後にwikipediaであらすじを読むと爆笑できる。ゾンビホラーの混ぜ方が雑。 

 

江藤淳『成熟と喪失 ―”母”の崩壊―』(講談社文芸文庫、1993年)

 「狂える母」というモチーフは、この本や入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』やギンズバーグ『カディッシュ』など洋の東西を問わず出現する(ただし、挙げた例はすべて母と息子の関係)。

 

・Arniati, F., Darwis, M., Rahman, N., & Rahman, F.『Mother Behavior to Their Daughters As Seen in''Pride and Prejudice" and" Little Women"』

・John Wiltshire『Mrs. Bennet's least favorite daughter』

 本稿執筆の動機は独力でどのぐらい読めるか試すことにあったので、論文は軽くしか調べていない。日本語のネットに落ちてるような論文は読み落としのチェックにしか役立たなかった。英語の論文からは良いアイディアを得てしまったが、本文に含めて書き直すのもそろそろ限界なので、ここに列挙しておく。

 (A)ミセス・ベネットを本稿では「愚か」と断定してしまったが、本文にその反例(?)がある。今にも雨が降りだしそうなとき、ビングリー家に出かけるジェインに馬車を使わせないことで、道すがらで雨に濡らさせ、ビングリー家に泊めさせてもらうシーン(第七章)。少なくともミセス・ベネットの小狡さは認めて良いと思う。同時に、娘の扱いの雑さも。このあとジェインが重い風邪を引いてビングリー家滞在が長引くこと、それをミセス・ベネットが「良かった」と言ってしまうことが印象的

 (B)ミセス・ベネットは物質主義者である。花嫁衣裳への注目、馬車への注目、食事への注目、娘婿の年収への注目、家への注目。

 (C)ミセス・ベネットの戯画的描写の背景には作者の18世紀喜劇へのなじみがある。とはいえ、ミセス・ベネットをギャグだけで片づけてはならない。彼女のエリザベスへの影響はシリアスな小説的機能を果たしている。

 (D)エリザベスが自分の母親を明確に批判する箇所は、実はとても少ない。母親への批判は父親への批判とセット、ないし父親批判の踏み台として描かれる(第三十七章、第四十二章)。父親とはコミュニケーション可能で仲が良いからズバズバ言ってしまえるけれども、母親はコミュニケーション不能でその関係性は言語化しがたいのだろうか。⑥で述べた「母を悪く思いたくない」という前社会的刷り込みや母と娘の絆を絡めて何か言えそう。具体的な社交の場面においてエリザベスは「恥ずかしさと悔しさで顔を赤らめる」こと以上に踏み込まない。少なくともテクストは語らない。

 

 批評として真に強度の高いものを書くなら研究史の本を読んだり、私の道具立ては主にフェミニズムジェンダー批評に由来するから、1970-1990年代のそれらを狙って論文を探すべきだっただろう。英語だし、論文探すのが手間だし、人文の論文はアカデミア外の人間にアクセス不能なことが多いけれど。

 

 

 

*1:高慢と偏見』は作者が20歳の時に書いた『第一印象』という小説を38歳の時に手直しして成立している。だから名前を変更しようと思えばできたはずだ。ただし、当時の出版システムにおいて女性小説家は匿名で提出するのが普通だったから、若書きの至りで書いたのを一般読者にはバレないだろうと思ってそのまま残した可能性はある。

*2:文庫の解説で桐野夏生は「二人[エリザベスとダーシー]は結婚等の「ビジネス」で手を汚さないため魅力が一段落ちる」と述べている。だいたい頷けるが、二人はシリアスな魅力、ないし小説としての魅力を持っていることを注意したい。「ヒロイン」として設定されているエリザベスの隙(たとえば第三十五章以降ダーシーを盲信してしまう脆さ。エリザベスはジェインを傷つけたダーシーの「正しさ」についてアンビバレントな態度をとるのではなく、従順に従ってしまう)。小説の後半にかけて〈父〉≒〈神〉になっていくが、おそらく内心をまだまだ隠しているダーシー。そういった破れ目を考える面白さがある。

*3:ミスター・ベネットは妻を放任しつつ、たまにジョークの形で女性蔑視を与える。彼女が夫のジョークを解する場面はほぼないが、それはそれで知識によるマウントをとられているわけである。彼女にとって夫は底が知れないコミュニケーション不可能な謎の男だ。

*4:周りにめちゃくちゃ迷惑をかけるが、本質的には「善も悪も為さず」「天国にも地獄にも行けない」「うつろな人間」(T.S.エリオット)だ。幼稚な母/四女/五女を理性の女エリザベスは批判するものの、欲望に対する彼女の強迫的否定には理性中心主義の破れ目が見え隠れしている

*5:エリザベス自身が五女リディアとの同一視を通じて「母」を「娘」に格下げする場面がある。「物の考え方がリディアと同じミセス・ベネットだけだっただろう」(第四十一章p369)。リディアが駆け落ち騒動の果てに結局「罰」を受けなかったこと、むしろダーシーの働きかけで「飴」をもらったことは、リディアがミセス・ベネットの幼形と思うと印象的である。

*6:以下で紹介するようにとても性差別的な精神分析の概念:女性は〈ファルス〉を持てないため、仮装することで〈ファルス〉を偽装する(逐語訳すると「股間隠すと女性でも男性器あるかないか分からないよね」)。具体的には女性がスカートをはくのが当たり前だった時代にキャリアウーマンがズボンを履く、など。そして女性は〈ファルス〉を偽装しつつも、〈大文字の他者〉の欲望の対象になることを望む。キャリアウーマンが会議中に最も偉い男性へ媚びを売る、など。

*7:エクリチュール・フェミニンと呼ばれるフランスの理論家たち。イリガライやクリステヴァが有名。