古い土地

暗い穴

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』について

 

ヴァージニア・ウルフ灯台へ』(To the Lighthouse、1927年)を読みました。

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以前ウルフの『波』(1931年)を読もうとしたときは100ページ程で挫折してしまった。「こいつら全員言葉に対する感性鋭いんか???流石におかしくないか???」と思ってしまったのがおおよその原因だ。次は6歳前後の登場人物が放つ「ことば」の例。

 

「あれは白いことば」とスーザン、「海辺で拾う小石みたいな」

「声に出すと、ことばのしっぽが右に左に動く」とバーナード。「しっぽを振るんだ。しっぽをひょいと払うんだ。あちらへこちらへと、群れになって空を飛ぶ。ひとつになったり、散らばったり、またひとつになったりしながら」

「あれは黄色いことば、火のようなことば」とジニー。「わたしは火のようなドレスがほしい、黄金色のドレス、朽葉色のイヴニングドレスよ」

ヴァージニア・ウルフ『波〔新訳版〕』森山恵=訳、早川書房、2021年、pp.20-21)

 

ウルフいわく小説ではなく劇詩(Playpoem)らしいが、いずれにせよ延々と続くとある種の耽美さが陳腐に見えてくる。私はもともと牧歌・叙情詩方面のポエジーが好きではないため、相性が悪かった。

 

灯台へ』は最後まで面白く読むことができた。できたが、小説として明らかに難しい。全然歯が立たない感じがする。最後まで「ウルフの考えることはよく分からん……」と思っていた。

 

長くなるが冒頭部を引用する。

 

 「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったならばね」とラムジー夫人は言って、つけ足した。「でも、ヒバリさんと同じくらい早起きしなきゃだめよ」

 息子にとっては、たったこれだけの言葉でも途方もない喜びのもととなった。まるでもうピクニックは行くことに決まり、何年もの間と思えるほど首を長くして待ちつづけた素晴らしい体験が、一晩の闇と一日の航海さえくぐり抜ければ、すぐ手の届くところに見えてきたかのようだ。この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許てもとにあるものまで色づけてしまわずにいられない、あの偉大な種族﹅﹅﹅﹅﹅に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃からちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶させ不動の存在に変える力をもっているものなのだが、客間の床にすわって「陸海軍百貨店」の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことになったわけである。ほかにも庭の手押し車や芝刈り機、ポプラの葉のそよぎや雨の前の白っぽい木の葉の色、さらにはミヤマガラスの鳴き声や窓を叩くエニシダの枝、ドレスのきぬずれの音など──こうした何でもないものが、彼の心の中ではくっきりと色づけきわだたせられていたので、いわば彼には自分だけの暗号、秘密の言葉があるようなものだった。だがそばにいる夫人にとっては、子供なりに毅然とした態度を崩さず、人間の弱さに少し眉をしかめるような率直さや純粋さがあり、秀でた額と青く鋭い目をしたジェイムズの様子ばかりが目に映り、彼がていねいに冷蔵庫の絵を切り取っているところを見ていると、白貂しろてんをあしらった真紅の法服姿で法廷に現れたり、国家存亡の機に厳しく重大な計画を指揮したりする際の息子の姿が、われ知らず思い浮かびもするのだった。

ヴァージニア・ウルフ灯台へ御輿哲也=訳、岩波文庫、2004年、pp.7-8)

 

小説全体で主題となる「絵」「色」のテーマ、「恍惚」「愛」のテーマ、「海」「植物」のテーマ、意識の流れによる視点のスライド、ディスコミュニケーションの問題などが予告されている。そのため余計にごちゃごちゃしているが、他の箇所でもこれぐらいのことはしてくる。情報が多くて本当に大変。

正直、「小説はこんな見るからにアーティスティックで美しくある必要はない」「そもそも小説という媒体がそうであり得ない」と逆ギレしたくなる瞬間は結構あった。

 

再び引用。絵描きのリリーがラムジー夫人について考察する場面。

 

それにしても、どう違うのだろうか? 夫人の魂、夫人の本質とはどのようなものなのか? たとえばソファの隅に落ちていた手袋を見て、その指のねじれ具合から間違いなく彼女のものとわかるような、そんな夫人ならではの特質とは何だろう?

(p.90)

 

そういえば、婦人の膝に頭をもたせ掛けながら、笑って、笑って、ほとんどヒステリックに笑いこけたこともある。それは夫人が、到底理解できないはずの運命を、自分では平然と支配した気になっているのが、いかにも滑稽に思えたからだ。そんなことがあっても、夫人は相変わらず素朴で大真面目な顔をして、じっとすわったままだった。その時わたしは、夫人のエッセンスをつかんだ気がした──これこそ手袋のねじれた指なのではないか。それにしても、何と厳かで人を寄せつけぬ聖域に踏み込んでしまったことだろう。リリーはやっとの思いで顔を上げたが、夫人はリリーが何を笑っていたのかは全く知らず、それでもその場を支配していた。ただ、片意地な様子はすっかり姿を消して、その代わり、厚い雲が途切れた時に姿を見せる澄みきった空間スペースのようなもの、月のそばで静かに眠る小さな空の切れ端のようなただずまいが感じられた。

 それは知恵なのか、知識なのか? あるいはやはりこれも美の欺きやすさで、見る人々を半ば真実へと導きつつも、やがては金色の網にからめ取るものなのか? それとも夫人は心の奥深くに、何かの秘密をそっと封じ込めているのか? リリー自身、世の中がうまくいくためには、誰しも大なり小なりの秘密を持たざるをえないと考えていた。皆がわたしのように、ただあくせくとその日暮らしをしていけるはずもないのだから。でもかりに秘密を知ったからといって、それをうまく言葉に表現できるのだろうか? 床にすわったまま、両腕をラムジー夫人の膝に強く巻きつけ、こんなに強く抱きしめる理由は夫人にはわかるまいと思って微笑みながら、リリーはさらに考え続けた。[……]

(pp.92-93)

 

50歳で8人の子持ちのラムジー夫人が33歳のリリーに「結婚しなさい」と判を押したように勧め、リリーはそれに反抗している。エリザベス朝的良妻賢母規範と絵描きに代表される新世代の生き方というよくある対比だ。一方で、ラムジー夫人と血縁関係のないリリーが6歳のジェイムズに成り代わって膝の上で眠り、擬似母娘関係を築いている──というのが、登場人物の関係性からした解説になる。

それを知らずとも、この文章の変なところは伝わるだろう。『灯台へ』は物語の筋が弱く、登場人物たちの思弁が多くを占める小説だ。人生訓的なメッセージもしばしば見られ、その結論はありきたりなのだが、そこに至るまでのアプローチや描像方法が異様だ。

また登場人物たちも在り方が人間としてリアルではない*1。ウルフは19世紀リアリズム小説を批判して出てきた人だからそれ自体は別に良い。良いのだが、「じゃあなんのイデオロギーに沿って書いているのか?」と問われて全然見当のつかない感じが居心地悪く、同時に面白い。

 

他方、『灯台へ』の中心人物たるラムジー夫人に関しては、安直とも言えるようなロマンティシズムが注入されているような場面もあり、よく分からない。なんか知らないけど登場人物みんながラムジー夫人にメロメロなのだ。愛され系夢主ですか?

「ほとんど怖いくらいの威厳」(p.13)は状況的に理解できる。しかし「自分でも意識せずにはいられなかったが、いわば美という炬火たいまつを絶えず高く捧げ持っているようなものだった」「夫人はどこでも賞賛され、いつでも愛された」(p.76)まで行くと、小説的な説得力を欠いて全然納得できない。

死後に遡及して美化されることはあるだろう。だが、現前にあってこのように美化されることはないし、良妻賢母規範の体現だとしてもやはり人間っぽくない。

 

小説の構造的に考えると、この奇妙さは「不在の中心」が今ここに存在していることの矛盾から来ている。

例えばフォークナー『響きと怒り』(1929年)*2においては、キャディという愛されキャラクターが自ら語らない「不在の中心」に設定されていた。そうすることで無限の美化を可能とし、あまつさえキャディを小説外に追放しながら小説の柱とすることもできた*3。非常に安定した構造と言える。

だが『灯台へ』のラムジー夫人は、微妙に人間っぽさを欠きつつ、めちゃくちゃ喋り、深く思弁する。ときにオースティン『高慢と偏見』(1813年)のミセス・ベネットを思い出すほどの結婚世話焼きおばさんっぷりを発揮し、別荘の修繕費用に頭を悩ませ、社交の場面で退屈さにいらつく。その割に結局どういう人間なのか分からない(特に過去に関しては念入りに伏せられている)のが面白い点だが、ともかく不在とは言えないだろう。

響きと怒り』の安定した構造はキャディをスケープゴートとして捧げることで成り立っており、フェミニズム的にいささか問題がある。それに対するメタを『灯台へ』は先んじて示したとは言えるかもしれない。が、これはこれで変な問題を抱えているように思う。

ウルフは何がやりたかったんだろう? 「ラムジー夫人はウルフが13歳のとき亡くなった母の投影で、リリーはウルフ自身の投影だから~」という説明も究極的には可能かもしれないが、テクスト内の水準で理屈をこじつけたい。

 

 

総評:ふつうにお勧めの小説。今読んでも得るものは多いだろう。とはいえ精読しようとすると難しいし、かったるい部分も多い。私は早々に諦めてしまった。まあライトに雰囲気を楽しむことは十分可能だ。それも繊細な感性に没入するだけでなく、異様なテクストに緊張するという方向もあり、間口はある程度広い。最初の30ページを越えれば見通しがついて面白くなるはずなので、そこまでは頑張って欲しい。

 

 

追記:面白エピソード成分が足りない気がしたので追加する。次は優れた哲学者にしてその能力に見合わぬほど小心に名声を気にするラムジー氏の思索。

確かに優れた精神には違いなかった。たとえば、思想が多数の音程ノートに分かれたピアノの鍵盤に似たもの、あるいは二十六文字のアルファベットのようなものだったとすれば、彼の知性はやすやすとその一つ一つを確実に正確にこなしながら、そう、たとえばQという文字のところまでたどり着いていた。彼がQまで到達したのは間違いないし、イギリスの学者でQまで達する人間はそう多くはあるまい。ここでラムジー氏は、ゼラニウムを植えた石の鉢のそばに少し立ち止まり、もうかなり遠くに離れてしまった窓辺の母子の姿を振り返って見た。[……]だがQの後は? その後はどうなる? Qの後にもまだ多くの文字があり、最後の文字は生身の人間にはほとんど見えず、ただ遠くで赤くほの輝くばかりだった。Zにたどり着ける人間は、せいぜい一世代に一人くらいだろう。それでももしRまで行ければ、それなりの業績のはずだ。少なくともわしはQを手にしている。Qにはしっかり足を踏みしめている。Qならば自信もあるし、証明することだってできる。そしてQまで来ているのなら、次はQーRーと続くはずなのだが……。[……]

たった六枚のビスケットと一びんの水だけを頼りに、炎暑の海に放り出された船乗りたちをも救ったはずの美徳の数々──忍耐心や正義感、先見の明、献身や熟練など──が、彼の精神を支えるべく集まって来た。次はRだ──だがRとは何か?

トカゲの分厚いまぶたのような膜が、懸命に見届けようとするラムジー氏の視線を一瞬さえぎり、Rの文字を見えにくくした。その一瞬の暗がりの中で、彼は人々が言うのを聞いた──あいつは負け犬だ、Rなんてはるか先さ。なるほどRには届かないかもしれない。がそれでも、もう一度Rを目指してみよう。Rとは──。

(pp.61-63)

 

 

*1:Web小説が主食の人間が「人間がリアルでない」と言っていることに気を付けてほしい。

*2:空ろなるヒーローたち①:フォークナー『響きと怒り』『アブサロム!』のクエンティン・コンプソン - 古い土地

*3:「夢主」からの連想で『テニスの王子様』(1999年~)で喩えると、青学の柱となることを請われた越前リョーマが青学から追放されるようなものである。実際に追放されたのは手塚国光だったが。