古い土地

暗い穴

空ろなるヒーローたち①:フォークナー『響きと怒り』『アブサロム!』のクエンティン・コンプソン

 

 

 人間が、意味を求めてしまうことの浅ましさ。意味を求めてしまうことの悲しさ。それらはときに、自殺という形態で現れる。

 

 

響きと怒り

 

www.iwanami.co.jp

 

僕は泣いてないぞ 僕が泣いてるって言うのか

言わないわ さあだまって ベンジーを起こしちゃうじゃない

おまえは家にはいれよ さあはいれ

そうするわ 泣かないで とにかくあたしが悪いの あなたにはどうしようもないのよ

僕たちは天罰を受けているんだよ 僕たちのせいじゃないんだ 僕たちのせいなのかい

だまって さあいらっしゃい もう寝ましょう

――平石/新納訳『響きと怒り(上)』p305

 

僕は近親相姦を犯しました と僕は言った お父さんあれは僕だったんです ドールトン・エイムズじゃなかったんです

――上巻p158

 

その先にあるのが地獄だけだったらいいのに。清らかな炎に焼かれて僕たち二人は死ぬ以上のことになって。そうなればおまえには僕だけしかいなくて そうなれば僕だけで 二人で清らかな炎のむこうの 指弾と恐怖のただ中で

――上巻p228

 

 ウィリアム・フォークナー響きと怒り』(1929年)第二部の語り手、クエンティン・コンプソンは、ロマンティシズムの果てに自殺する主人公である。彼が抱えていた問題とは、妹キャディへの近親相姦幻想(および処女信仰)であった。

 近親相姦の夢が叶わない(叶えてはいけないし、叶えるつもりもない)ことを担保として安全に想いを募らせていたクエンティンは、成長したキャディが性的に奔放な振る舞いを見せ始めたとき驚愕する。そして彼の絶望は、妹が婚前妊娠し胎児の父親と違う相手と結婚して家を去ったことでも、妹の逢引相手に決闘を申し込み無様を晒して子供のように丁重に扱われた(=〈去勢〉された)ことでもなく、そのあと一年間も死ねなかったことにある。*1

 

そんなに恐ろしいことが僕たちにできさえすれば するとお父さんが それも悲しいところなのだよ 人間はそれほど恐ろしいことなどできやしないのだ ものすごく恐ろしいことだって そもそもできやしないのだよ きょう恐ろしく思えたことも あしたになれば思い出すことすらできないのだ そこで僕が 一切のものからのがれることはできますよ するとお父さんは ほう おまえにそれができるかね。

――上巻p158

 

おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ [……] むしろ絶望や自責の念や死別による無念というものさえ 暗黒のサイコロ振りにとってはたいして重要ではないのだとわかったときに はじめて人はそういうことをするのさ

――上巻p341-342

 

 彼の幻滅は、彼にとって「死ぬほど」の意味や痛みを与えなかった。あるいは、幻滅とは意味の乖離現象であって、そのこと自体に意味を付与するのは難しいのかもしれない。〈現実〉という無意味な世界*2に晒され続けた彼は、自分なりの「現実認識」を作り直すこともできず(=〈象徴界〉への再参入に失敗し)、ある日、自殺を決意する。

 「意識の流れ」の手法で描かれるクエンティンの語りは非常にロマンティックであり、上記のように世界がロマンティックでないことを十分承知している(=幻滅している)がゆえにかえって、強迫的にロマンティシズムを演出しているように見える。悪く言い換えれば、その演出の動機まで含めて自己中心的であり、自慰的だ。意識の流れにおける「妹」の頻出具合は、初読時には気にならないが読み返すとうんざりさせられる。また、現在の時間軸では「ナヨナヨしたハーヴァード大学生の暗い青春小説」という枠組みを採用しており、その「若さ」が鼻につく感じも個人的にはする。

 クエンティンパートを指して知人が「エロゲ―みたいだよね」と評していたが、本当にそうかもしれない。次はキャディの言動の例。

 

もしあたしが王様だったら なにをするかわかる? 彼女は一度も王妃や妖精になったことはなかった いつでも王様か巨人か将軍だった あたしだったらこの場所を壊してあけてから この人たちを引きずり出してたっぷりお仕置きしてあげるわ

――上巻p333

 

 南北戦争以後崩壊しつつあるアメリカ南部の貴族精神/騎士道精神をやや時代錯誤的に引き受け(第二部の出来事は1900-1910年の間に起こる)、女性を美化することで〈他者化〉し主体性を奪うクエンティンの手付き。それは、1990年代終盤から2000年代初頭にかけて最盛期を迎えたエロゲ―のロジック、〈父〉になれない情けなさを自覚しつつ〈父〉になりたいと望む「オタク」の家父長制イデオロギーと、相似だ 。表層すぎて逆に見落としていた点として、近親相姦表象の共通性を指摘しておく。近親相姦表象はいつの間にか現代日本のアニメ・漫画的データベースへ取り入れられ(「妹属性」など)、ライトな反復使用を通じて「オタク」を駆動してきた。*3

 仮に女性が〈他者〉だとすれば、彼女は家父長制という構造を揺るがしかねない不気味な〈他者〉ではあってはならなず、またそこに〈差異〉の可能性があってはならない、という女性蔑視。しかしキャディはそのような思考から、あるいはあらゆる決めつけから、すり抜けていく。彼女が一人の自立した人間であるがゆえに、というよりはむしろ、(後にも扱うが)「不在」であるがゆえに。キャディは「(内面を)語られない」ことによって小説内で神に近い特権を与えられており、作中人物の誰からも見切られることがない。

 

 フォークナーが小説家たる所以の一つは、『響きと怒り』の他の三部で徹底的にクエンティンを相対化することだ。クエンティンの愛情は対象たるキャディから遠く離れた自己愛、ナルシシズムに過ぎない、という批判的視座は、あらかじめテクストの中に織り込まれている。

 たとえば第三部の語り手ジェイソンは、怒れるリアリストである。兄クエンティンの入学費用に充てるため自分が相続できる土地がごっそり減ってしまったとか、兄の勝手のせいで自分はまともな大学に行けなかったとか、自分が崩壊寸前の一家を経済的に支えねばならないとか、弟ベンジーを精神病院に送ってやろうかとか、愚痴をこぼしつつ、どんなに情けない目にあっても(=〈去勢〉されても)、彼は死ぬことを選択肢にすら入れない。兄とは違って。

 次男坊ジェイソンもナルシシズムの男であるのが面白いところだ(フォークナーの描く南部白人男性はほぼ全員自意識がデカい)。彼は父親からも姉キャディからも愛されず、母親との距離が近いが、近さゆえに摩擦が生じ、彼自身は母を「負債」のように思っているようだ。ジェイソンは寂しさからナルシシズムを発動しているのかもしれない。

 

 フォークナーが小説家たる所以のもう一つは、なんだかんだ言ってクエンティンパートが「泣ける」ことである。ロマンスにつきものの蓋然性の低さを補ってあまりあるほど、筆のノリと想像力の爆発が凄まじい。

 自殺を決意した日、「その」場所探しがてら大学周辺を歩いていたクエンティンは、迷子のイタリア人の少女に出会う。クエンティンが彼女を「sister」*4と呼びかけるのは印象的だ。彼女が無口である(おそらく英語がほぼ話せない)ため、彼女にパンを与えたり、ひっついてきた彼女の家を探したりしているうちに、やがて彼女の兄らしき人物(「「ジュリオだ」と女の子」p269)が見つかる。そしてクエンティンは走ってきた「兄」にぶん殴られる。

 

「ころすてやる」とジュリオは言った。彼はもがいた。二人の男が彼を押さえていた。女の子はパンを抱えたまま、わんわん泣きわめいていた。「おれのいもうとぬすむ」とジュリオは言った。「はなせ、あんたら」

「妹を盗んだって?」と僕は言った。「だって、僕はずっと――」

[……]

「おとなしくついていきます」と僕は言った。「なんだってしますよ。それで誰か見つけて――なんとかできるなら――妹を盗んだって」と僕は言った。「盗んだって。あの人の――」

「言っておいたはずだぞ」とアンスは言った。「やつはおまえさんを強姦未遂で訴えるつもりなんだ。おい、おまえ、そのぎゃあぎゃあ言うのをやめさせろ」

「なんと」と僕は言った。それから僕は笑い始めた。

――上巻p270-271

 

 まさか己が「無口のコミュニケーション」や「優しさ」だと思っていたものが、「誘惑」たったとは。ましてやその「誘惑」に失敗するとは。あまつさえ、無意識の「誘惑」の対象が、本当に「妹」だったとは! 一方イタリア人の「兄」は、「重要な場面」で駆け付け、「暴力」を効果的に振るい、「妹」の「貞操」を守りきった。

 

 フォークナー自身が相対化したクエンティンの自己中心性、〈他者〉との触れ合えなさは、それが批判すべき弱さ、醜さだというところまで含めて、たしかに私たちの一部でもある。

 

 

アブサロム、アブサロム!』を経て

 

 だが、話はこれに留まらない。『響きと怒り』はアメリモダニズム文学を代表する美しい小説の一つとなったが、フォークナー自身ある種の限界を感じ取っていた。端的に「美しすぎる」のだ。小説は次のようにして終わる。

 

彼[ベンジー]の目はうつろで青く、ふたたび穏やかで、通りの建物の樹や正面が、ふたたび左から右へ滑らかに流れていき、柱も木も、窓も戸口も看板も、すべてがあるべきところにあった。

――下巻p275(一部改変)

 

 第四部の終わりに、第一部の語り手である白痴のベンジーを登場させ、語りもどことなく第一部風であり*5、円環によってすべてを「あるべきところ」へとおさめる。

 結局のところ、『響きと怒り』の「美しさ」はキャディの「美しさ」に支えられているのだ。そして、キャディの「美しさ」は、四人の語り手のうちだれもキャディの内面に踏み込まないという、「不在の中心」性に支えられている。彼女は、その性的含意や、他との関係性でのみ意味が生じることや、置換可能性や、だれもそれを「持てない」ことまで含めまさに、「〈ファルス〉である」のだ。

 フォークナーはその後、リアリティある女性を、自ら語る女性を、ともすれば「醜い」女性を描く方向へシフトする。

 

 さきに『響きと怒り』が構造上「クエンティンを徹底的に相対化する」と書いたが、再び構造上の理由でキャディの「不在性」についてはノータッチだった。そこまで含め相対化したのが『アブサロム、アブサロム!』(1936年)と言える。*6

 『アブサロム!』は南北戦争を境に明暗が分かれた男トマス・サトペンの栄枯盛衰を、あるきっかけから現在のクエンティンが調査するというストーリーになっている。

 まず注目すべきは、クエンティンの再利用だろう。フォークナーの短編では(クエンティンらが幼少の)コンプソン一家が度々出てくるし、「ヨクナパトーファ・サーガ」を採用した小説世界だと思えばこれ自体おかしいことではない。しかし、時系列的にはクエンティンが決闘で惨めな姿をさらした後(1909年)にも関わらず、彼がキャディについて一切語ることがないのは、(『響きと怒り』を読んだ読者なら)違和感を覚えることだろう。しかし、『アブサロム!』の話はパラレルワールドでもなんでもなく、クエンティンの頭の中にずっとキャディがいることは明白である。彼がサトペン家の調査に本腰を入れるのは、一家の物語の中に「妹に近親相姦願望を持つ兄」を見出した後からなのだ。

 『アブサロム!』において、クエンティンはキャディを語ることを単に「許されていない」。「本当に語らない」ことによる不在の相対化。

 

 (クエンティンにとって)相対化の最も大きな部分を述べる。経緯は省いてしまうが、彼がサトペン家の悲劇を調査する過程で得た結論は次の通りだ。

 

南部社会においては、近親相姦よりも、人種混淆の方が禁忌である

人が人を殺すとすれば、近親相姦幻想によってではなく、人種混淆への忌避感によってである

 

 クエンティンが寄りかかっていた「兄と妹の血の混じりへの忌避」とは、最初から「その程度」のものでしかなかった。南部にはもっとおぞましい「白人と黒人の血の混じりへの忌避」があって、後者はまた当然のように南部人クエンティンが内面化していたものでもある。そのことに気づいたとき、彼はベッドでうずくまるしかなかった。あるいは

 

僕は憎んでいない。憎んでいない! 僕は[南部を]憎んでいない! 憎んでいないんだ!

 

 フォークナーは『響きと怒り』以後このように社会的テーマを取り入れることで、『アブサロム!』においてクエンティンを、クエンティン自身の手によりズラしてみせたのだ。

 

 

 一旦まとめに入る。『響きと怒り』におけるクエンティンの近親相姦への固執は、彼に寄り添わず切り捨ててしまえば、全く私的で、自己中心的で、自己を甘やかしているような部分も多かった*7

 しかし彼の固執が『アブサロム!』を通過したあとの振る舞いだと仮定して読めば、クエンティンの自己保存性は最初から敗北が分かっている戦い――存在論的条件への挑戦――に転換し、彼は「ヒーロー」の資格を、少なくとも一欠片は持つのではないか。これが言いたかった。クエンティンの父コンプソン氏が、最初から敗北を前提とした運命論者「ロマンティック・アイロニー」の男であるのと対照的に、クエンティンは敗北を予感/経験しても留まることができない。

 

これ[懐中時計]をおまえに贈るのは、時間を忘れずにいるためじゃなくて、たまにはしばし時間を忘れて、時間を征服しようなどという試みに命をすり切らさないようにする、そのためなのだよ。なぜならどんな戦いにも、勝利なんてものはないのだからね、とお父さんは言った。そもそも戦われてすらいないのだよ。戦場は人間に、おのれの愚劣と絶望を思い知らせるばかりだし、勝利なんてものは、哲学者や愚か者の幻想に過ぎないのだからね。

――上巻p152

 

 祖父より受け継がれてきたこの時計を壊すところから(p159)、彼の最後の一日は始まる。時間の超越、素晴らしき過去への遡行。テクストのレベルでいえば、時計が計るクロノス時間を主観的な時間=「意識の流れ」で置き換えること。「意識の流れ」の中では過去と現在の境目は無くなり、並び替え可能となる(「過去が現前する」と言える)。

 現実と衝突して、自己を解体して、それでもなお、無意味に見える現実を幻想で埋め尽くそうとして「しまう」こと。埋め尽くそうとすること。忘れられないこと。空ろな自己をある理念に沿って再構成しようとすること。

 彼の全く個別的な奮闘ぶりが、英雄じみて見えてこないでもない。少なくとも私は、『アブサロム!』での顛末を知って初めてクエンティンに「好感」を持ったのだ。『響きと怒り』単体では共感はしても好感は持てなかった。

 

 クエンティンをヒーローとして祀り上げる際、よくよく考えてみなければならないのが、彼の父コンプソン氏*8の立ち位置である。特に第二部終盤の意識の流れにおいて、コンプソン氏との(擬似)会話(p340-343)が長々と行われることに着目したい。既に引用したものを再掲すると

 

おまえはいつかこのことがいまのように こんなにおまえを苦しめなくなるだろうと考えることに耐えられないのだ [……] むしろ絶望や自責の念や死別による無念というものさえ 暗黒のサイコロ振りにとってはたいして重要ではないのだとわかったときに はじめて人はそういうことをするのさ

――上巻p341-342

 

 こういった〈父〉と〈子〉の応答が、果たして「父殺し」として結実するのか問うのは自然だろう。すなわち、エディプスコンプレックスの成否であり、ここで〈子〉の近親相姦欲求の対象となる〈母〉は無論キャディだ(万能ヒロインゆえ母性も第一部第二部でしばしば描写される)。部屋を出る前の擬似会話とは「父との対決」であり、自殺によって父殺しを果たしたのか?*9

 クエンティンの実父に対する姿勢は一見アンビバレントだ。自殺によって結果的に父の期待を裏切った側面はあるし(コンプソン氏はクエンティンの2年後1912年に死亡)、疑似会話においてクエンティンはだいぶ抑えこまれている。空想のキャディに向けて、娘の妊娠の責任をとれない父の権威を否定し、父を消し去って「やり直す」ことを提案する場面もある(p239)。しかし、なんだかんだ父親に愛されインテリ性(および「情けなさ」)も相通ずるところがあるクエンティンは、父を切り離せない。

 それに、ロマンティック・アイロニーによる相対化はむしろ、ロマンティシズムを心地よく強化できる都合の良い「敵」なのではないか。父の側もまた、ロマンティシズムに傾倒するクエンティン(あるいは女たち)がいるからこそ己の立場を明確にできているところがある。共犯関係が成り立っているから、殺しあう必要がない。何よりも、奪うべき妹はもういないのだ。

 

ならどうしておまえは いいかい 僕たちは逃げ出すことができるんだよ おまえとベンジーと僕とで誰も知らないところへ そこなら

――上巻p241

 

 父=クエンティン、母=キャディ、子=ベンジーという夢想。

 そもそもコンプソン氏に〈父〉の資格はどれほどあるのだろうか? 彼は〈父〉としてはマッチョさの欠片もなく、情けないため(しかし知的態度という形で男性性を強く保存しているのだが)、彼を殺したところで「父殺し」となるのか疑問である。少なくとも、終盤の疑似会話におけるコンプソン氏は、内面化された規範意識=〈父の法〉としてクエンティンに命ずるというよりはむしろ、クエンティンの分身(ダブル)として自殺を引き留めている感が強い。ここに、ホモソ―シャルな絆、南部における「〈不能の父〉の共同体」*10を見出すことができるだろう。

 『響きと怒り』単体では次のように結論したい。フォークナーの筆の運びには圧倒されるものの、「父との対決」構図はそこまで重要ではない(言語化できる程度の葛藤)。問題は別のところにあり、深層についた本当の傷は言語化し得ないのだ。言語化不可能性はクエンティンが精神錯乱の信頼できない語り手だからではなく、人間の無意識にまつわる(比較的)普遍的な現象である。

 『アブサロム!』通過後として読めば次のようになる。「父との絆」こそが大きな問題なのだ。正確にはその背後にあって、「父との絆」を可能にした南部イデオロギー、クエンティンの近親相姦ロマンティシズムの基礎(コンプソン氏のロマンティック・アイロニーの基礎)となりつつ、人種混淆を最大の禁忌とするような社会的条件こそが。強大なイデオロギーには〈父の法〉の資格がある。この〈父の法〉はあまりに深くクエンティンに根付いているため、仮にクエンティンが自己に「絶望」し「反省」し「転回」して「北部人」になることを望んだとしても、その望みが真の意味で叶うことはない。そもそもそんなことを望ませはしないのだ。

 ハーヴァード大学周辺に寄宿するクエンティンは、自身は北部人のように振る舞い、しかしボストン在住の南部人コミュニティで彼らの南部人的身振りを黙認することを思い出そう。南部という土地/南部人にとって(だけ)有効で強大な南部イデオロギー。ときに意識的に意志を眠らせ、ときに「憎んでいない!」と叫んだとしても、折り合いがつく可能性はなかった。というよりも折り合いをつけたくなかった。それに「戦い」を挑む(=世界をロマンティシズムで覆う)前提条件として、自己のアイデンティティそのものが南部イデオロギーの現前なのだから、まず自己を捨てねばなるまい。自己を守るために自己を捨てる。不可能を前提とした戦いにならない戦い、イデオロギーを父としたあらかじめ不可能な「父殺し」。

 こういう場合、儀式的「死」と再生の物語、「生まれ変わり」の機会を掴むことで自己とイデオロギーをズラしていく可能性も(とても運がよければ)あったのだが、しかしクエンティンは本当に死んでしまう。

 ああ、彼の者を呪うものに災いあれ!*11

 

 

 それにしても、私が「ヒーロー」に仮託しているものは何なのだろう。今のところそれは、「私たちの代わりに死ぬ人」、「戦ってもしょうがないものと戦う人」、ある種のスケープゴート、としか言い当てられない。

 現時点でこのヒーロー観の問題を四つ挙げることができる。一つ目は「ヒーロー」が(その語源からも明らかに)ジェンダーイデオロギーを含むこと。自分の中で「ヒーロー」ないし尊敬する人物を列挙したとき、全員男だった(どうかと思う)。二つ目は私にとっての「ヒーロー」が自閉性、コミュニケーション不可能性を多かれ少なかれ孕むこと。三つめは、この手付きによって架空の/実在の人物を「ヒーロー」と規定し〈他者化〉してしまうこと。実際、本稿の読みは着地点が図式化されているせいで雑になった節がある(その割には冗長)。四つ目は「ヒーロー」と「死」がどこかで結び付いているらしいこと。

 もし次があれば、また文学(おそらくアメリカ文学)から登場人物を一人とりあげ、「ヒーロー」に関する問も深めてみようかと思う。

 

 

[reference]

 

ウィリアム・フォークナー平石貴樹/新納卓也訳『響きと怒り(上・下)』(岩波文庫、2007年)

諏訪部浩一ウィリアム・フォークナー詩学』(松柏社、2008年)

平石貴樹アメリカ文学史』(松柏社、2010年)

 

未読の文献

平石貴樹『メランコリックデザイン』(南雲堂、1993年)

ウィリアム・フォークナーアブサロム、アブサロム!』(どれが良い訳か知らない。なお、英語で読むのは難易度が高く現実的ではない)

 

 

付録:いくつかの用語説明

 

「〈去勢〉」「〈象徴界〉」「〈ファルス〉」「エディプスコンプレックス」「〈父の法〉」

 ラカン精神分析の用語を文芸批評における標準的な用法で使っている。詳細はその手の本を参照。また、本稿における「現実」の扱い方は、〈現実界〉のイメージが色濃い。すなわち、〈象徴界〉でも〈想像界〉でもなく、私たちの認識から逃れ続け、しかし不意をつくように現前し(ジジェク)、私たちに恐怖を/恍惚をもたらす。そういうものとして。

 

「ロマンティック・アイロニー

 村上春樹の作品を一つでも読んだことがあれば、その主人公を想起してもらいたい。彼らはロマンティック・アイロニーに身を浸している。あるいは村上春樹が小説のベスト3に入れているハードボイルド探偵小説の『ロング・グッドバイ』について*12、その主人公フィリップ・マーロウはロマンティック・アイロニーの男である。彼は女嫌いで、孤独で、事件に個人的動機で取り組み、男たちとホモソ―シャルな絆を築く。

 ロマンティック・アイロニーはロマンティシズムではない。彼らは夢を見ないのだから。またそれはリアリズムでもない。彼らは夢見ないことを夢見るのだから。

 ロマンスから距離をとりつつも、自己の有限性は認めず、超越論的な立場を確保しようとする姿勢。皮肉と皮相によって己を守るのだ。

 

ロマン派イロニー。それは、一切の有限的なもの、経験的なものを軽蔑することによって、そのようにみなす超越論的自己の優位を確認することである。それは一切の目的、したがってヘーゲル的な弁証法を斥ける。何かをなすとしても、意味や根拠によってなすのではない。しかも、それはニヒリズムでもない。逆に、無意味なことをそれと知りつつあえて真剣に戯れるという自己意識に意味を見出すのである。ここに敗北はありえない。はじめから敗北を前提しているからである。イロニーとは、いわば、絶対的無力を認めることによる絶対的勝利である。(柄谷行人「近代」)

 

 ロマンティック・アイロニーはロマンティシズムに対するメタであって、典型的な反応は次の通り。

 

おまえは有限性について考えようとしないで 理想ばかりを一時的な精神状態が肉体の上に立って均衡を保ちながら 精神自身とそれが完全には捨てきれない肉体の両方を意識しているような理想ばかりを考えているのだよ だからおまえは死ぬことにすらならないだろう

――『響きと怒り(上)』p341

 

 

*1:一応、キャディの結婚式が1910/4/25、クエンティンの自殺が1910/6/10なので、キャディの結婚により踏ん切りがついたといえばそうかもしれない

*2:この場合の「無意味さ」は「意味の過剰さ」と同等に見える。

*3:エロゲ―論、「オタク」論に関しては東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』付録の「AIR」論を参照。「〈他者〉と〈差異〉がない」で切り捨てられるところを、ゲーム内のロジックだけを利用して最終的に同じような結論に至る。2022年現在の「オタク」はエロゲ―が全盛だった頃とまた様相が異なるが(拡散し希釈し多様化している)、データベース消費は依然として盤石だ。たとえば「関係性消費」は、データベース消費を前提として(あるいは関係のデータベースとして?)行われているように見える。

*4:平石/新納訳では「おねえちゃん」と訳出。「妹」のニュアンスを含ませられないのは翻訳の限界である。

*5:ベンジーは事実を解釈できない語り手として設定されている。たとえば「火がボクのうしろにきて、ボクは火のほうに行き、スリッパを抱いて床にすわった。火は高くなった。お母さんの椅子のクッションにまで火があたった」上巻p121

*6:『アブサロム!』については諏訪部『ウィリアム・フォークナー詩学』で120ページ分の批評を読んだだけであり、本編は未読。この記事の本題は『響きと怒り』の方なので、あまり突っ込まないようにする

*7:鬱は甘えなのか? クエンティンに寄り添った意見も付記しておくと、彼は自殺する程度には抑鬱状態であった。意識の流れが第一部の語り手ベンジー以上に混濁することにも注意したい

*8:アル中で、大して仕事をしているように見えず、しかしインテリで、軽妙に悲観を語りかけてくる敗北主義者。これまでもいくつか引用してきたが、なかなか「可愛い」キャラクターではある。『響きと怒り』以後の作品でも「ロマンティック・アイロニー」を持つ人々が登場し、今度は相対化されることになる。

*9:そんなことはありえるのか?

*10:諏訪部『ウィリアム・フォークナー詩学サンクチュアリの章を参照

*11:ガーター勲章 - Wikipedia

「騎士」を目指したクエンティンに冥福を。ところで、「オタク」がときに「か弱い女性」を守るものとして冗談的に(場合によっては本気で)「騎士」を名乗ることを思い出してしまった。「オタク」は『ドン・キホーテ』流の「喜劇の騎士」になる可能性を秘めているが、フォークナーはほぼ悲劇を描いたため(特に男に対しては)、「喜劇の騎士」の可能性など皆無であった。

*12:残り2つは『偉大なるギャッツビー』と『カラマーゾフの兄弟