カート・ヴォネガット『スローターハウス5』(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death、1969年)を読みました。
きっかけは1945年の第二次大戦敗戦から「恥辱」軸でWeb小説を説こうとする小論*1を見かけたことだった。「そんなんが許されるんなら俺は1968年や!」と思い、1968年から1945年を見つめる『スローターハウス5』を手に取った。どういうこと?
いや本当は、夏の間ずっとWeb小説を読んでいて、Web小説らしいWeb小説を書きたくなったのだ。テーマが「死」であることは明らかで(転生オリ主は死の倫理を描くものだから)、そこから「死の愚弄」というフレーズが浮かび(Web小説において──Web小説に関わる人にとって?──生はあらかじめ愚弄されているから)、ChatGPTに聞いてヴォネガットに辿り着いた。
もちろんヴォネガットからWeb小説論を書くことはできないし、ランキングハック系のWeb小説を書くこともできない。
『スローターハウス5』を一言で表すなら、「泣ける小説」だ。
主人公ビリー・ピリグリムは著者ヴォネガットと同様に、1945年2月捕虜の立場でドイツ・ドレスデン爆撃を経験する。その直前からビリーの「けいれん的時間旅行」は始まり、視点が1955年・幼少期・1976年とあっちこっちに飛んでいく。「意識の流れ」の手法の恣意性を強調し、未来へも意識を飛ばしたものだと理解した。なお『響きの怒り』のようなモダニズム期のゴリゴリ意識の流れとは違って、ストーリーの理解に難はなくすらすら読める。
ローズウォーターは頭の回転の速さではビリーより数等まさっていたが、二人が直面している精神的危機やその対処の方法は似たようなものだった。二人とも人生の意味を見失っており、その原因の一端はどちらも戦争にあった。たとえばローズウォーターは、ドイツ兵と見誤って十四歳の消防夫を射殺していた。そういうものだ。一方ビリーは、ヨーロッパ史上最大の虐殺、ドレスデン焼夷弾爆撃の体験者であった。そういうものだ。
そのような事情から、二人は自身とその宇宙を再発明しようと努力しているのだった。それにはSFが大いに役に立った。(カート・ヴォネガット『スローターハウス5』伊藤典夫=訳、早川書房、1978年、p.137)
1948年、精神病棟での出来事。泣ける。ビリーは自分が発狂しかけている原因を「プロポーズした女が不細工すぎる」などと言っており、戦争のトラウマに気づいていなかった。おそらく最後まで気づけていない。
このローズウォーターという男はヴォネガットの過去作『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』(1965年)の主人公*2。自身の過去作をこんながっつり解説することってあるんだ、と初見時は意外に思った。
あるとき、ローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。SFではないが、これも本の話である。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
(p.137)
彼は話題を変え、ヴァレンシアのエンゲージ・リングを見て、おめでとうといった。
「ありがとうございます」と彼女はいい、リングのあるほうの手をローズウォーターの前にあげた。「そのダイヤ、ビリーが戦争に行って見つけたんですって」
「戦争のいいところはそこなんだな」と、ローズウォーターはいった。「だれもが何かに行きあたる」
(p.150)
他に『タイタンの妖女』(1959年)から襲来したトラルファマドール星人も重要だ。トラウファマドール星人はビリーを誘拐して、映画女優とともに裸で動物園に収容する。彼らは過去・現在・未来を含め全ての時間を同時に知覚するがゆえに、自由意志を否定し、あるゆる事物が「そういうもの」であることを説く。
「しかし、あなたたちの星は平和ではありませんか」
「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやす──ちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?」
「思います」
「それだけは、努力すれば地球人にもできるようになるかもしれない。いやな時は無視し、楽しい時に心を集中するのだ」
「ウム」と、ビリー・ピルグリムはいった。
(pp.158-159)
神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ
ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。
(p.86)
しかしながら、SFチックな主人公の「けいれん的時間旅行」にはトラルファマドール星人が一切関わっていない。設定のねじくれたところだ*3。
このように、ヴォネガットのいずれの過去作からも何らかの要素が『スローターハウス5』に取り込まれている。ドレスデン爆撃という著者の実人生上の一大事件を清算するため、作家人生の総決算──誇張した言い方をすれば、帰国後すぐ戦争小説を書こうとしたがどうしても言葉が出てこなかったために、SF短編から始めたキャリアの決着──を企図し、なんなら小説内でそのことに言及してしまう。
「ときにはね」気ちがいじみた考えが、ビリーの頭にうかんだ。そこにある真実は彼を驚かせた。それはビリー・ピルグリムにふさわしい墓碑銘となるにちがいない──また、わたしにとっても。
EVERYTHING WAS BEAUTIFUL, AND NOTHING HURT(何もかもが美しく、傷つけるものはなかった)
(p.164)
この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現れないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦闘とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。しかしいまダービーは、ひとりの人間であった。
(p.215)
さて、この小説ではあらゆる「死」に対して機械的に「そういうものだ(So it goes.)」というフレーズが被せられている。ドレスデン爆撃の被害者からイエス・キリスト、比喩的な「ワインの死」まで。死の意図的な平板化は不可知論に傾くきらいがあり、この小説から死について考えを深めることは案外難しい。
また戦争についても。ベトナム反戦運動の真っただ中で出版するこの小説が反戦小説的に機能することについて、著者は自覚的だった。第1章には「反戦小説は反氷河小説のようなものだ」というジョークがある。またビリーがベトナム北爆に反対しない一方で(p.85)、「ヴォネガット」は「芥子ガスとバラがまじりあったような口臭」で「妻を追いはら」っている(p.13)*4。史実として『スローターハウス5』は1968年の運動の中でまつり上げられていった。しかし今やそのアクチュアリティは完全に失われている。
あと上記2点に関連するような/しないような部分で1つ文句を言いたい。すでに多く引用したので何となく伝わると思うが、この小説は60年代アメリカすぎる。個人的には60年代っぽさが鼻について腹立つことが多かった。というのはつまり、虚無主義・快楽主義に関してだ。第2~9章のビリーパートと第1,10章の「ヴォネガット」パートは明確に区別されており、「ヴォネガット」パートさえ著者そのものとは言えないが、これを踏まえても立ち上がる「何か」に苛立ちを隠せなかった。
総評としては、読んでもいいし読まなくてもいい。「泣ける小説」と言っても『スローターハウス5』に関しては「ああ、泣ける要素は結構入ってますね」くらいの距離感だ。ヴォネガットのブラックユーモアやセンチメントや通俗性に興味があれば勧めておく。
補足:
ヴォネガットの全作品をトラウマを軸に論じた批評。『スローターハウス5』以前のヴォネガット作品が気になって読んだ。
この論者、超越的な自我を担保しようと試みる自意識の高いキャラクターが好きすぎるだろ。
*1:「異世界×日本スゴイ」に秘められた“欲望”とは...ラノベ界→純文学界へ“転生”した市川沙央が読む『大転生時代』(島田雅彦 著) | 文春オンライン
*2:正確にはパラレル存在。過去作と微妙に設定が異なっている。
*3:リアリズム小説の水準で言うと、トラルファマドール星人関連は全て主人公の妄想として処理できる。というか時間旅行もそう考えるべきである。1945年の時点で1955年のことを知っていたというのは1968年現在時点での錯誤にすぎない(諏訪部浩一『トラウマの詩学』三修社、2019年)。ただこの手の「謎解き」的整理を『スローターハウス5』に施すことは、単に魅力を減ずるだけでなく、重要な読みの可能性をいくつも落とす気がする。リアリティに関しては判断を保留しておきたい。
*4:作中軽い扱いで何回も出てくる「芥子ガスとバラの臭い」に関しては本文p.280を参照。