古い土地

暗い穴

読書メモ:後藤護『黒人音楽史 奇想の宇宙』

 

暗黒批評……僕のやってることですよ(笑)。ただのキャッチフレーズなんですよね。もともとゴシック・ロマンスやフィルム・ノワールが凄い好きでした。それを日本語にすると、暗黒小説や暗黒映画になるらしいと。ああ暗黒舞踏もあるなとか気づき始める。暗黒というのは、結構何にでもつくんだなと思っていたところ、とうとう哲学の人まで「暗黒啓蒙」(ニック・ランド)とか「ダークエコロジー」(ティモシー・モートン)と言い出したぞ!と。これはもう批評全体が暗黒化せねばなるまい!と思って名づけました。

https://book.asahi.com/article/13014040

 

 

後藤護『黒人音楽史 奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)

www.amazon.co.jp

 

 「身体」ではなく「暗号」「謎」「超絶技巧」から見る黒人音楽史

 

 「マニエリスム」という概念がある。もともとは16世紀後半、ルネサンスからバロックへの移行期に徒花として生まれた美術潮流だ。野菜と果物と花で構成された男の奇想的肖像画を一度は目にしたことがあると思うが、あれはマニエリスム期に描かれている。

西洋絵画の基礎知識06 西洋近世絵画「マニエリスム」

 

 20世紀に入って再評価が起こる。グスタフ・ルネ・ホッケは『迷宮としての世界――マニエリスム美術』(1957年、和訳1966年)において、マニエリスムを終末時代に普遍的に現れる「蒐集・再統合」の欲求として捉えなおした。

 エリオット『荒地』もマニエリスムだという。一元論の誘惑。このブログもそういうところがある。

 

諦念に発するポストモダン的「断絶」より、危機意識に発するマニエリスムモダニズム的「綜合」が志向されているのであり、「歴史」と「リスペクト」を感じさせるのだ。

(モードジャズとフリージャズを比較して、本文111ページ)

 

 「差異より綜合」に見られるように、神経症的な欲求が垣間見えたり、オリエンタリズムの臭いがする。しかしそれらについてリマークをつけて言い訳することはほとんどしない。潔い。このポリコレと反ポリコレの間を縫うバランス感覚(?)が暗黒批評なのか。

 

 さて、この本をお勧めできるかというと、「文体に興味があれば読んでもいいけど……」と否定寄りの立場をとらざるを得ない。

 

 マニエリスムの思想的問題は、単なるモダニズム復権や悪趣味復権にとどまりかねないことである。この本は理論的説得も感情的説得もできていない。カルチュラル・スタディーズなどの知見を使った「最新の悪趣味」に読めてしまう。まず「暗黒批評」という名前がねえ……。

 

 著者は「アフロ・マニエリスム」を唱えているが、正直な話「アフロ・フューチャリズム」以上の知見が加わることはない。

 第六章で扱っている「ホラーコア」(ゴシック要素が混ざったヒップホップ)はアフロ・フューチャリズムでは捉えられない恰好の題材だった。しかし、全然書きぶりがよくない。奴隷時代の暴力の恐怖を安直に持ち出されても困る。著者は「そのような暴力を想像することが大事なのだ」と飛躍であることを認めているが、問題は飛躍したあとのアイディアが無いことである。なぜホラーコアが選ばれたのか? あるいは、白人の悪魔崇拝メタルとどう照応させるのか?

 

 衒学的文体は評価できる芸風である。ただ、これは無いものねだりだし著者は綜合の方向を目指しているのだから当たらない指摘になってしまうが、文体が分析の方向性・鋭さと不可分に結びついている方が個人的には好みだ(デリダとか最近読んでいる松浦寿輝折口信夫論』)。

 そう、モダニズムなのに、「鋭さ」「深み」がない。横に「広がって」いく。ポストモダンのように博物学的。いやフレイザー金枝篇』が編まれたモダニズムのように?

 モダニズムポストモダニズムは実のところあまり区別ができない。どっちも散逸していると言えば散逸している。引用を多く使う。この本は一つの偽史を編もうとする志向が強いので、一応モダニズム側だ(ポストモダンであれば歴史の線形順序が無化され空間的になる、ということになっている)。

 

 最後に、著者は文章を書くにあたってまず引用の収集から始めるという。引用を置いて、間を文章で埋める。

 内容の面白さが引用の面白さに比例するので、うまいこと引用できない場合出来がひどいことになる。特に第三章のアルバート・アイラー論はひどい。50年前の印象批評をやっている。自分の意見無いんか。

 

 以下、面白かった部分を引用する(孫引きが多くなる)。

 

 

第一章:黒人霊歌における聖邪

 

黒人霊歌のそうした亡霊的・怨念的、筆者のキーワードでいうところの「ゴシック」的な側面を浮かび上がらせたのはウェルズ恵子『黒人霊歌は生きている』の功績である。「黒人霊歌の作者たちは、墓場以外に安心して眠る場所を持たず、月から血が流れるのを幻視する人々だった」としたのち、ウェルズは以下のように書いている。

 

彼らは夜の世界で歌う。あるいは生と死の境界で。見えるのは光かたいまつの光、ランプの光。月が血を流し、星が降る。木はあるが花はない。荒野はあるが、風景は描写されない。ただ闇の向こうに天国を探すか、闇の中に墓を見るばかりだ。生と死の境界には、深い河が流れている。(本文20ページ、『生きている』ixページ)

 

私の主よ、なんという朝でしょう、星が降り始めるとは。

世界は燃え、

月は血を流し、

月は血に変わってしまう。

万物の元素が溶けるのが見える。

星が降り、

そうです、万物の元素の中に星が降り、

月は行く道に血を滴らせる。

(本文27ページ、『生きている』118ページ)

 

 

第四章:サン・ラー論

 

 サン・ラーのバンド「アーケストラ(Arkestra)」って60年代後半まで女人禁制だったんだとか、フランク・ザッパ的な締め付けの強さがあったとか(しかもザッパより陰湿だったらしい)、サン・ラーが「睾丸発達障害」(重度の睾丸ヘルニアを伴う)で性的不能だったとか。

 ラーが名乗った「土星人」の前提に、言葉遊びの前提に、不能があった。ミシェル・カルージュの「独身者機械」を参照。

独身者の機械 - Riche Amateur

 

私は政治家ではないし、平等を信じてはいない。それが私を少々特異な存在にしている。私はまた自由を信じていない。そんなものはないからだ。欲すると欲せざるとに拘わらず、私は創造主のために働かなければならない。空にある太陽や星々のように私はそれを行わなければならない。太陽や星はいつも決まった場所になければならない。人々が自由について話しているとき、彼らが何を言っているのか私には分からない。あらゆる至高存在に自由などというものはない。自由について語ること。これは私を騙ろうとする言葉の中で最大の嘘である。というのも人はそんなものを見たはずがないからである。この地上で自由なものなど存在しない。人は自由ではなかったし、事実、今後もそうなることはない。なぜなら人が自由であるならば、死を選んだりするはずがないだろう。しかし人は死ぬので、自由ではない。だから私は規律について話しているのだ。(本文152-153ページ、Youngquist p68)

 

サン・ラ―は四大元素(火・水・風・土)のなかでもとりわけ風を愛した。[……]風を愛したのは、掴みどころなく消え去っていく「無」の性質が音楽と似ているからだ。(本文156ページ)

 

 『ゼロの使い魔』?

 

生活密着型の黒人音楽の言説で強調されることの多い「現実(リアル)」という言葉が、「死」と結びつけられる形で否定されていることがまず目を引く。黒人ヒップホップの世界でとりわけ誇張されることが多いものの、実のところこの「リアル」なる概念は、虐げられてきたアフリカ系民族が「クール」なタフガイポーズを気取るうえで構築してきた虚構世界にすぎない(リチャード・メージャス&ジャネット・マンシーニ・ビルソン『クール・ポーズ』)(本文164ページ)

 

 ヒップホップのリアリティについて。

 

「歴史(history)は彼の物語(his-story)であり、私の物語ではない。私の物語(my-story)はミステリー(mystery)だ」というサン・ラーの地口(シャレ)から、「神話」とは「私の物語=ミステリー」なのだと明らかになるだろう。(本文168ページ)

 

 無=風=音楽=神話。歴史を神話に書き換えること。

 「無力」は「無の力」だという。ともすればそれは、アントナン・アルトーが「impouvoir」と呼んだ「奪う力」なのか(『折口信夫論』p85)。