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2021/11/25-28:入沢康夫『ネルヴァル覚書』『死者たちの群がる風景』ネルヴァル『火の娘たち』『オーレリア』

 

 前回から引き続きネルヴァルを読む。

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

2021/11/25 入沢康夫『ネルヴァル覚書』

 

入沢康夫『ネルヴァル覚書』(1984年、花神社)

 

 詩人の入沢康夫はネルヴァルの研究者としても知られている。修論(1959年)のテーマもネルヴァルだった。50年代はちょうどネルヴァルの研究が盛んになってきた時代でもある。

 

 この本はネルヴァルの空白期ともいえる1842年(一度目の発狂の翌年)に遺されたテキストを晩年の傑作群の先駆けとしてみる。更には1980年代以前の曖昧な草稿研究を批判して、年代不明とされてきたいくつかの草稿を1842年前後に近づけるアクロバットを行う。

 

 次はネルヴァルのある草稿より引用。研究者の間では女優のジェニー・コロン*1に向けた手紙とも書簡体小説の下書きとも考えられている。

 

「しかし、私のために存在しいていながら私の存在さえも当時は知らなかったただ一人の女性からは、五百里も離れて。

愛されていない、いつか愛される希望もない。あの、あなたの虚しい面影を渡しに見せてくれた異国の女、私のために一夜の気まぐれにつき合ってくれた女、しかし、自分の恋、自分の利害関係、自分の習慣を持っている女は、恋の感情以外では、ありとあらゆる快楽を与えてくれたのでした。けれども、恋が欠けていては、それら全ては何者でもなかったのです。」(p90-91)

 

 「あなたのために死ぬ」(p93:これは別の書簡体小説からの引用)ことはできてもあなたのために生きることはできない。そういうことかもしれない

 

 過去を繋ぐ手段としての「衣装」「装飾」(しかし衣装による偽装には限界がある)。「老女」のテーマ。

 主人公には分からない「古い言語」。ネルヴァルは特に少女が唄う「古い唄」を愛好した。

 

 ジェニー・コロン、聖ロザリア=深淵の聖女、聖母マリア、ペルセポネー、イシス。あるいはネルヴァルが2歳の時に亡くなった母までも、彼の頭の中では繋がってしまうのだ。

 

 

 

 

 

2021/11/26-28 ネルヴァルのいくつかの作品

 

 『ネルヴァル全集』(1975、筑摩書房、全三巻)から拾い読みしてみる。

 

第一巻

・『火の娘たち』(1854年)より「幻想詩篇

 註が重すぎる。謎解きで魅力が削がれることを承知でみな謎解きをしてしまう。で、解くことができない。

 博学からくる多数の引用。独自文脈による意味の圧縮。

 

 

第二巻

・『火の娘たち』より「シルヴィ」

 夢見ることによる幻視、書くことによる幻視。積み重なり踏み迷えば夢の気配が濃厚になってくる(もはや小ロマン派では片付けられない!) 

 一方、夢見と執筆における創造=虚構の側面、編集の側面。これらに語り手が、ひいては作者が意識的である。そうして夢と現がどこまでも接近していく。

 

 幼き日の修道女アドリエンヌ、幼馴染シルヴィ、女優オーレリーとの恋がいずれも失敗に終わって

「あんなに長いあいだ感じつづけて来たこの奇怪な熱狂、この夢、この涙、この絶望、そして優しい仕ぐさ……はたしてこれが恋ではなかったのだろうか? では恋とはいったいどこにあるのだろう?」(p165) 

 

 ちょっと感傷マゾ向けかもしれない。

 失われた恋人を次々と想起していく点でプルースト失われた時を求めて』と似る。ただしネルヴァルの方が百倍短い。*2

 

 

第三巻

・『オーレリア』(1855年

「夢」はもう一つの人生である」

 

 ネルヴァルの人生大総括が開始2ページで始まっている。異教の神に救いを求めるのは間違っているだろうか(電撃文庫)。

 第一部は面白い。すごく面白い。ネルヴァルという作家の評伝や註があると作品の読みが多重になる。「朝の女王と精霊たちの王ソロモン」とかへのセルフパロディ―と読める部分も多い。

 会話は独り言ないし登場人物AとA’の間でしか交わされない。反論がない。

 

「或る『神』がいるということは本当なんだろうね。」――「そうとも。」私は感激して答えた。そしてわれわれは、私の垣間見たあの神秘の国の二人の同胞のように相擁した。(p18)

 

 そんな友人とは縁を切れ。

 

 第二部では回想から「今ここ」へ舞台が移る。ネルヴァルは本質的に苦行徒である。あるいはこれすらも人間の弱さや欲望だとするなら、苦行への欲求を持っている。それゆえに彼は書かざるを得なかった(なぜ首を吊ったのか?)

 愛、キリスト教啓蒙思想、異教の神々、幼少時の記憶。冒涜。

 狂気によってこれらが絶えず衝突し、理性によって(むしろ狂気によって?)明晰であり続ける。これを書き切ったことは作家としての力量である。

 

「しかし今では俺は、死者たちがわれわれを見、われわれを聞いていることを知っている」(p37)

 

 入沢康夫の「死者」と同根に思える。

 「もう遅い」vs 改心。「一生を棒に振った」(入沢康夫『牛の首のある三十の情景』)のか否か。

 

「小さな菓子一個を食べて飢えを凌いだ。家にはいると、私は彼に、一切は終った、われわれは死ぬ覚悟をしなければならぬと言った。彼は妻を呼んだ。彼女は言った。「どうかなさいましたか。」――「さあどうか知らんが、私はもう駄目です。」と、私は言った。彼女は辻馬車を呼びに遣って、そして一人の若い娘が私をデュポワ病院に連れて行った。」(p46)

 

 お菓子で飢えを凌ぐあたりに「共感」してしまう。

 

 最終ページ、最後の地獄下り。罪過の「赦免」。

 ここで物語は終わる――そうか、そうか。「私」は最後赦されたのか。

 

 そして縊死(いし)!

 

 第二部で物語として完結しているが、突然の死により推敲が十分でないかもしれない。単純に少し出来が悪い。

 あるいは、帰還の物語はすべて苦い想い出になるのかもしれない入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』『漂ふ舟』)。終わらなければならなかった。

 物語と同様に我々も終わりが予告されている存在だ。だが生きている我々は死ぬことがない、我々は死を知ることができない。テキストの終わり(死)には嘘くささと真実らしさが共存する。

 生の過剰はいつまで続くのか? 生きることは果たして幻視なのか? 

 

 

*3

 

 

 

 以下では話題をネルヴァルから入沢康夫に移す。ネルヴァルを通して入沢康夫に接近する試み。

 入沢康夫については次を参照:

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

 

2021/11/28 入沢康夫『死者たちの群がる風景』

 

入沢康夫『死者たちの群がる風景』(1982年、河出書房新社

 

 「III 銅の海辺で」はネルヴァルをモチーフとした9ページの作品。「I」にもネルヴァルが重要なモチーフとして出現する。

 

 今回読み返して、特に印象が変わることが無かった。「やっぱりうまくいってない」のだ。入沢康夫のベストに挙げる人もいるがよう分からん。筆者はこの作品にポエジーを感じない。

 

 ネルヴァルやラフカディオ・ハーン小泉八雲)や中原中也三好達治や死んだ母や、ほか多数の死者たちが登場する。

 特徴(失敗)の一つは、死者たちの具体性だ。そもそも死者たちのチョイスも入沢康夫の個人的経験に依る編集だ(と普通読まれる)。こうなったらもう突き抜けてmy opinion=私詩として提示した方がコンセプトはすっきりする。だが、入沢康夫はそれができない。彼はどうしても距離をとってしまう。この空転は『漂ふ舟』(1994年)にも共通する。

 これまでネルヴァルのことを考えてきたのでそこへ引きつけてみると、ネルヴァルは(ときに狂った)登場人物への主観的移入と客観的な編集操作を完全に両立できた。自伝的性質を帯びた『シルヴィ』『オーレリア』に顕著である。まあこんなものは余人に真似できるものではない。

 

 二つ目。引喩(アリュージョン)・引用の不適当さ。具体的に提示される分どこから引用したのかを謎解くゲームになってる側面がある。分からないと苛立つし、分かっても引用を詩に変えることができていないことが分かる。つまり出来が良くない。

 三つ目。長い割に話が膨らんでいない。引用した事実を割とそのまま書いている。散漫。

 四つ目。この人はいわゆる抒情詩のゲームで戦える人ではない。本人は抒情詩として書いてないのかもしれないが、そっちに寄っているように読める。

 

 ある人との電車内での会話でこの作品について「五十を過ぎた詩人の感慨ですよ」と述べたらしい(田野倉康一「偽「偽記憶」について」『現代詩手帖2019年2月号』)。たしかに加齢・老衰・円熟を感じる作品ではある。80年代以後に共通するモード。

 初期衝動としてあった「今ここにいることへの怒り」。それがどの程度保っていたのか分からない。火は弱まりつつあるのか?

 

もう遠い昔のこと、

ぼくはきみを、

死んだ男(男たち)になぞらへて、

奇怪な詩の何篇かを作り、

それでもつて、

世界の(と自分には思へた)呪詛を、

祓ひ去らうとしたのだけれど、

本当に、

きみが死んだ男となつた今、

きみのことを、

いつたいどんな風に歌へばいいのだらう。

 

――〔V 友よ ――さらに一人の死者のために〕部分

 

 

 故郷をテーマにした点で、『わが出雲・わが鎮魂』『漂ふ舟』に並ぶ地獄下りの詩なのかもしれない。それで何を手に入れ何を失ったのか。あるいは何も起こらなかったのか。

 

 

 

追記:なんか評価が無駄に辛い気がしたので改めて読んで各篇短評する。

 

「I 潜戸から・潜戸へ」は上述の通りやっぱりよくない。

「II 潜戸へ・潜戸から」は大岡信のテキストを丸々引用してる。Remixの面白さはある。

「III 銅の海辺で」は面白いが小説の面白さひいては素材(ネルヴァルの人生)の面白さに近い。

「IV 個人的に・感傷的に」小説における追憶の強さはそれこそネルヴァルが明らかにしたが、詩って追憶をやる暇があるのか? 発話者がある程度設定されて初めて追憶は機能するのでは? 

「V 友よ」 比較的悪くない、がこの面白さは「あの入沢康夫が詩の中で友に追悼をささげようとしている」というテキスト外の読みに依存している気がする。

「VI 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》」 発話者≒入沢康夫を許せば比較的悪くない。三好達治を引用した次のバースはこれ単体で良い。

 

「今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。」

その一行が好きで好きで、

そのくせ「記憶の旗」とは、それが「落ちる」とは

どういふことか、少しも判らずに……。

今だつて判つてやしないけれども。

 

――〔VI 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》〕部分

 

 

 全体的な感想としては、ワクワクしない。やっぱりあんまり出来がよろしくないと思う。

 

 

 

 

 

*1:ネルヴァルが経験した最大の失恋相手。1840年に死亡。作品内に極めて重要なモチーフとしてたびたび登場する

*2:失われた時を求めて』は日本語で300-400万文字とのこと。なろうの長大編に慣れている人は文字数だけだと驚かないかもしれない。

*3:反省:ネルヴァルの20世紀文学への影響力は納得しなくもない。あまり量を読めなかったが、これは自分が散文にも詩にも開かれてないせいだろう。もはや世界の説明=ジャーナリズム?にしか興味がない。