嘘ラテン
1960年代の過剰シリアス嘘ラテンジャズ、たまんねぇな。
さらに嘘すぎるライブ版
コルトレーン『至上の愛』の第一楽章もそうだが、この大仰で誰にも求められないアトモスフィアがまた流行ってほしい。
ロバート・グラスパーとかが引き継いでくれないかな。今のアイツに足りていないのはラテン要素だと思っている。ラテンを制するものが音楽を制する。ラテンに真剣になれないやつはダサい。
夏休みの終わり
相変わらずハーメルンに潜っているが、夏休みなのに新作が有意に増えてなくて悲しい。学生さんが本当にいない。終わりやね。
4年ほど前からずっと言っているが、二次創作元の新規原作としてコミュニティで流行った(合意がとれた)ものが本当に減っている。直近だと『魔法少女ノ魔女裁判』(2025年7月)と『超かぐや姫!』(2026年1月)くらいか。
まぁ、ガキがクリエイティブ作りたいって言うなら、(AI使って)文章書くより(AI使って)ショート動画を作るよう勧めるもんな...。
『エッ〇なカニ4選』 作れる方が将来有望。
学パロが最高の二次創作だと思っている
"천막의 자두가르"를 봤습니다.
— 물버미오스 (@mulbeomios) 2026年7月9日
작품 자체는 훌륭했습니다.
다만 유감스럽게도 일본의 창작 의식은 일본에 비해 한참 낮다고 할 수밖에 없습니다.
어째서 공식 스핀오프 패러디 "자두가르 학원"을 아무도 안 찍는 겁니까? 일본의 미래가 걱정
「天幕のプドゥガル」を見ました。
作品自体は素晴らしかったです。
ただ残念ながら、日本の創作レベルは日本に比べてまだまだ低いと言わざるを得ません。なぜ公式スピンオフのパロディ「プドゥガル学園」を誰も作らないのですか? 日本の未来が心配です。
(translated by Grok, 2026/7/9)
実際、世界文学においても学園要素のある方が格が高い傾向にある*2。
学園要素がある
学園要素がない
- フォークナー『八月の光』:「黒人」という主題を得たが「学園」という主題を失っている
- T.S.エリオット『荒地』
ところで、私はエリオット『荒地』を最高の作品であってほしいと思っている。これまでの議論から、最高の作品であるためには、学園要素を外挿するしかない。
つまり、学パロである。
とりあえず『キメツ学園』を参考に、中高一貫の設定で登場人物に学年をわりふってみた*3。
中学1年:水、岩、シェイクスピヒア
中学2年:マリー・ラリッシュ伯爵夫人、死神にやられた人、〈犬〉、偽善家の読者、兄王・父王、フェニキア人フレバス
中学3年:予言者シビュラ、「きみに見せたいものがある」奴、ミュラエの海戦で一緒だった見覚えのある男、ヒアシンス娘、スウィーニー、タイピスト
高校1年:ぼく(漁夫王)、エズラ・パウンド、占い師マダム・ソソストリス、テムズ川
高校2年:テイレシアス、〈非現実の都市〉、いつも君のそばを歩いている三人目の人、パブの主人
高校3年:主、雷
ロクな奴がいねえな。
以上。
Web小説に関する死の理論
Web小説は一般に、世界が善であるか、それとも悪であるかという二元論的認識に基づく。すなわち、世界は悪であり、その呪詛を祓い去るためにWeb小説は書かれている(ように見える)*4。
当然ながら、「転生」というロジックの存在からして、生や死も善悪二元論に晒される(悪である)。私たちは死に興味を持ってきたし、死の悪をさまざまな形で表現してきた。
しかし、死は本当に悪いのだろうか。もし悪いとすれば、私たちはなぜ/いかに死の害悪を被ることができるのか。
こうした why を考えるのに、文学は(少なくともWeb小説は)、あまりに貧弱な表現形態かもしれない。死をモチーフにすることと、死を考えることの距離が遠すぎる。例えば、一人称小説における死の描写は何重もの矛盾を孕む。「私」の死は、代替不能で体験不可能だ。これを敢えて(文化的なクリシェを用いて)書いたとしても、「これから私の死について語るが、おまえの死の話ではない」と聞こえてしまう。自分の死はほかのいかなる死にも似ていない。
というわけで『死の形而上学』の入場である。
文体が良く、気の利いた本だ。例えばブックカバーはアイスクリームを地面に落とす「剥奪」の悪を示唆する。分析哲学系の本で初めてまともに読み通せた気がする。
この本の最終目標は「存在の消滅」「死の恐怖(主観的)」を紹介することにある。しかし記述が厚く、また非専門家にとって新鮮なのは、トマス・ネーゲルの剥奪説を中心とする「存在の終焉」「死の悪(客観的)」の解説であろう。
たとえば愛する人の死について考えてほしい。[......]悲しみの本質は、自分の愛する人が、死というおそらく最大の不幸に見舞われたという事実にある。愛する人を自分が失ったという不幸はあくまでそこからの派生である。(p31-32)
死が死んでいった者たちにとっての不幸であるという見方は自然なものである。[......]まさに死者たちが不幸に見舞われているかのように語られている(p.32)
ここで「死者たちが」という言葉が何度も出てくるように、死の悪を考えるにあたって「死の悪を被る主体」に関する考察は欠かせない。また言語行為論を軸として、「死者を語る言葉」をフィクションと比較する第5章も興味深い。死者とフィクション上の人物は、語りのモードからして似る。
あと、反出生主義に興味ある人は当然読むべき。死の方が反出生より理論的に簡単なはずなので。(そして死が難しいということは......)
もっとも、以上の前提だけを材料にして論じるのであれば、逆に、死後の無を恐れる感覚こそが正しいのであり、それゆえ誕生前の無を何とも思わないことが不合理なのだという方向に進むこともできるだろう。
(p.68、脚注25、ルクレティウスの古典的議論に関連して)
たとえば、おなじ非存在であっても、生まれてこないことと死んでしまうこととでは大きな違いがあると感じられる。(p.131)
さらに連想を続けていけば(これは文学的な企図であるが)、作品自体が「作品が始まる前に持つ記憶」「作品が終わった後に持つ記憶」*5 についても考えを深めることができるだろう。
結論
『死の形而上学』を読めば、死を語るテキストのほとんどに対して「でもそれって死の悪を説明しないですよね?」というマインドで臨めるようになるので、強い。
Vtuber小説におけるコロナ史の語りなおし
Vtuberが歴史的対象になったこと、Vtuber小説が歴史小説をかねるようになったこと、そのうえでコロナが語られること。
ここまで書いてやる気がなくなった。私は明らかにVtuber小説の読書量が足りていないので、誰か代わりに批評してほしい。
あと、Vtuber軸よりコロナ軸で攻めたほうがおもしろい論考になると思う。Vtuber小説は『ホロライブラバーズ トロフィー「ファンタジーを覇する物」獲得ルート』しかり多様なアプローチが試されてきたが、コロナを(曲がりなりにも歴史として)語ろうとするWeb小説は本当に少ない。
*1:学パロの前提となっているアメリカ型の消費文化(1950年代ティーンエイジャーの出現、1960年代カウンターカルチャー)と日本型のアマチュアリズム消費について、それぞれ思うところはある。後者については周東美材『「未熟さ」の系譜―宝塚からジャニーズまで―』を参照。
*2:ここで挙げた作品がすべて1950年代以前なのは意図的な選択。前注を参照。
*4:Web小説サイトのランキングをしばらく回遊すれば明らか。みんなスカッとジャパンが好きすぎる。この点「オンラインゲームとは、天国を作る試みだ」と述べた『ギスギスオンライン』は気高い。過去記事も参照。
*5:「作品たちは何を記憶しているだろう? 作者をだろうか? そんなはずはありえまい。作品におぼえていてもらった作者などありえたはずがない。だが、何か別のものを記憶していないはずもまたありえない。自分自身をか? いや、この答えは矛盾している。はじまりをか? 自分のはじまりを記憶の彼方へ消し捨てたときはじめて作品ははじまるのではないか。私が最初にいいたいのはそのような記憶でもない。作品はかれ固有のある記憶によってはじまる。自分がいなかったときの記憶によって。作品と記憶とのかさなりあいが、そのままで体現しているこのようなずれが、私たちへの、そして作品そのものへの、詩人の入場である」(天沢退二郎『入沢康夫の作品史について』)