筆者が音楽系機関紙『白旗 創刊号 2022年冬』に寄稿した16000文字の論考「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」*1の内、最初の節(3600文字)を発行団体クリエイティブ顧問ズの許可を得てここに掲載します。ただし校訂前の手元のテクストをブログ用に改変したため、出版されたものとは多少の違いがあります。
風評のピチカート・ファイヴ
聞かれているようで聞かれていない。
ピチカート・ファイヴ――80年代に活動を開始し90年代には渋谷系の代表格の一つとして扱われたポップスグループ。本稿では活動期間中ほぼ全ての作詞を担当し『overdose』(1994年)以降ほぼ全ての作曲を担当した小西康陽を中心人物として取り扱う――の現在の知名度を推しはかることは難しい。メジャーではなくしかし完全にマイナーでもない。穏当に分析すれば「一般大衆よりもポップス好きや業界人に刺さったニッチな音楽」といったところか。
こういった印象論的な分析が不毛であることを私たちはよく知っている。それでも敢えて、「ピチカート・ファイヴは聞かれているようで聞かれていない」という仮説を立ててみよう。主張を肉付けする過程でピチカートを取り巻く状況を整理し、次節以降への足がかりとする。
まずはピチカートが「聞かれている」ように見える根拠を述べる。
第一に、時事的な話題。夏季五輪の閉会式でピチカートの代表曲〈東京は夜の七時〉が使われたこと、しかも2016リオパラ閉会式と2020東京オリ閉会式の二大会で使われたこと。これを以ってピチカートがポップスとして定着しているとは言わない――むしろ単なるマニア受けの結果(この場合はメディア関係者への)だと邪推したくなる。とはいえ企画段階で使ってよいと判断されるだけの知名度はたぶんあるのだろう。*2
第二に、活動停止から20年経った今でもリリースやインタビューなどの動きがあること。2021年には各種サブスク向けにコンピレーションプレイリスト『配信向けのピチカート・ファイヴ その1/2/3』がリリースされている。2020年には小西康陽のソロユニットPizzicato Oneからライヴ・アルバム『前夜』が発表され、それに伴い読み応えのあるインタビュー記事が書かれていた。*3
第三に、90年代渋谷系ムーブメントの旗手と目されたこと。60年代の再評価。60年代と90年代の音楽を接続することにより、現代日本のポップスや音楽史観に大なり小なり影響を与えたこと。特に史観形成の側面はポップス好きの人々にとって重要だろう――我々は未だに小西康陽を通じて60年代の音楽を眼差してはいないか? 小西以後どれほどアップデートが入っただろうか?
ある程度は名が売れ、ある程度は忘れられることなく、ある程度は歴史的重要性も生じた音楽グループ。こう書くとたしかに、ある程度は聞かれていそうである。
実際はそうではない。ピチカートは想像以上に「聞かれていない」というのが以下の主張になる。
補足:印象論ですら「聞かれていない」ことの説得は難しいと気付いたので、ここで補助線を引いておく。この論説の目標の一つは、(メインボーカルで言うと)田島貴男期から野宮真貴期序盤までの前期ピチカート*4を再評価することにある。アルバムで言えば『ベリッシマ』(1988年)から『SWEET PIZICATO FIVE』(1992年)まで。つまり「聞かれていない」で指す内容は主に「前期ピチカートが聞かれていない」であって、以下ではその傍証を探す。
奇妙に響くかもしれないが、〈東京は夜の七時〉が代表曲扱いされていることをまず取り上げたい。いや、この扱いは現状では妥当である。ディープなピチカートマニアに代表曲を選ばせてもほぼ全員が(政治的バランスを考慮しつつ)〈東京は夜の七時〉と答えるだろう。この曲は比較的大衆の方を向いており、ピチカートの成果の一つ「都市ブランド〈東京〉の更新」をよく示している。この曲と〈スウィート・ソウル・レヴュー〉がテレビ起用されて初めてピチカートが世間に知られるようになったという歴史的経緯も付記しておく。だが、この代表曲扱いに疑義や違和感が生じないあたりに「聞かれてなさ」を覚えるのだ。ピチカートは〈東京は夜の七時〉に、少なくともそれだけに代表されるようなグループではない、と言いたい。たとえば、同じ『overdose』(1994年)収録曲でも〈ハッピー・サッド〉や〈陽の当たる大通り〉の方がずっと面白くピチカートらしいのではないか?
次は〈東京は夜の七時〉問題とも通底する。ピチカート・ファイヴが「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」として消費され、当時のリスナーはその形のまま想い出に保存しているらしいこと。本稿執筆の動機になった問題点である。「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」というのはあくまで小西康陽が意識的にデザインしたピチカート・ファイヴのブランディングであって、内実とは必ずしも一致しない。むしろたびたび著しく乖離するし乖離する部分こそが面白い、という認識が広まっていないのだ。たしかに「大人の音楽」的デザインはデビューアルバム『カップルズ』(1987年)から一貫しており、若い都市生活者をリスナー層として狙い続けていたことは間違いがない。さらには、サンプリング、種々のオシャレ感、恋愛描写、皮肉、消費社会の過剰なまでの称賛、都市生活の虚無、といった要素で下支えされている。しかし『女性上位時代』(1991年)や『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)を中心に据えて活動全期を見返せば、ブランディングの破れ目は幾らでも見出せるだろう。この作業は次節に行う。
実売を「聞かれていない」ことの証拠とするのは慎重を期すべきで、むしろ往々にして「聞く人は聞いていた」とみなされる傾向にあるが、興味深いので紹介しておく。フルアルバムで一番売れたのは『ROMANTIQUE 96』13万枚(1996年、最高10位)。次に売れたのが『overdose』12万枚(1994年、最高9位)。シングルは〈ベイビィ・ポータブル・ロック〉12.6万枚(1996年、最高19位)。参考までに、渋谷系仲間のコーネリアスやオリジナル・ラヴは20万後半から30万枚、小沢健二に至っては50万枚も売り上げている。なお、1994年のシングルで最も売れたのはMr.Children〈innocent world〉181万枚とのこと。当時の10万枚は一応成功した部類に入るのだろうが……。ピチカートがCD全盛期に、音楽雑誌で「渋谷系」という見出しが付けられた1994年に、他の渋谷系と比べて伸びきらなかった理由のいくつかは、本稿を通じて明らかになるかもしれない。
ついでに「売れなかった」時期の動向も記しておく。『カップルズ』(1987年)は枚数不明。ボーカルが田島貴男に移り、『ベリッシマ』(1988年)と『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)が1.5千枚前後。次のリミックスアルバム『月面軟着陸』(1990年)が3.5千枚。ボーカルが野宮真貴に移り、『女性上位時代』(1991年)と『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)が1.5万枚前後。次の『ボサ・ノヴァ2001』(1993年)でようやく8万枚と跳ねる。
印象論を印象論で根拠づける作業にだいぶ足をとられたが、ピチカート・ファイヴの受容状況についてあらかた理解されたものと思う。
現在広まっているピチカート観は野宮期中盤以降、アルバムでいえば『ボサ・ノヴァ2001』(1993年)以降を中心としている。特に一年の休止期間を経た『ROMANTIQUE 96』(1996年)以降は「アコースティックでオシャレなグッドポップス(にクラブミュージックのテイストが入る)」フレーバーが固定化され自己再生産された時期である、と乱暴に要約してしまっても以下の議論には影響しない。*5
先に見たように実売は93-96年に跳ね上がっている。結局のところ当時のリスナーやレコード会社が求めたのは93年以降のグッドミュージック・フレーバーであって、それまでに行われた数々の実験と発明は忘れ去られたようだ。
そういった従来の見立てを逆転させ、『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)までの前期ピチカートを再評価すること。小西康陽が施したブランディングを剥がし、ピチカートを〈東京は夜の七時〉から解放する手立てを与えること。これらが本稿の(非現実的な)目標であり、そのためにはピチカート全体をいくつかの視点から捉え直す必要がある。
(第一節、了)
以降のあらすじ/本人コメント
「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」全体の構成を紹介します。
1.風評のピチカート・ファイヴ
「ピチカートが聞かれているようで聞かれていない」という問題意識を提示しながら、現在のピチカートの受容状況を整理します。特に〈東京は夜の七時〉が代表曲とされ、「生活を豊かにするオシャレな大人の音楽」として消費されている現状に警鐘を鳴らします。
2.廻転のピチカート・ファイヴ
小西康陽の手癖として様々なところに「反復」を見出します。この論考で再評価したいのは92年までのピチカート、特に「反復の権化」というべき『女性上位時代』(1991年)と『SWEET PIZZICATO FIVE』(1992年)の二枚のアルバムです。反復について一番問題なのは歌詞で、語彙の狭さがミーム化につながっています。「めざめ・起床」が11曲に出現、「口づけ・キス」が25曲、「死」が14曲……こういったデータを13あるフルアルバムを2周して集めました。
3.仮面のピチカート・ファイヴ
野宮期ピチカートの歌詞における語りの高度性を観察します。歌詞に描かれるキャラクターと野宮真貴のキャラクターはどうしてあそこまで乖離しているのでしょうか? その裏にはメンバーの力関係、SSW・バンド文化圏の対称関係に隠蔽された歌謡曲の「作家先生/アイドル」的な非対称関係があります。
4.恐怖のピチカート・ファイヴ
恐怖とはつまり、女性恐怖のことです。小西康陽のファム・ファタールへの姿勢が両義的であり、破滅したいと言いながら本当は破滅したくないこと、野宮真貴をピグマリオンとして扱っていることを述べます。最後に、彼の鋭い自意識から「ロマンティック・アイロニー」*6を見出します。
5.結語のピチカート・ファイヴ
「切断」という語で論考をまとめます。それはゴダール的映画的なコラージュであり、コミュニケーションの拒否であり、クールの演出です。
「ピチカート・ファイヴと幻想の廃墟」について筆者は、「ピチカートをどう論ずるにせよ当然抑えなければいけないことを抑えただけのピチカート総論(しかしこの程度のことすら語られてこなかった)」という印象を持っています。かのバート・バカラックが亡くなり渋谷系が終わったと言える今、本論を腰掛としてより刺激的なピチカート論が編まれることを願います。
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— クリエイティブ顧問ズ (@creative_komons) 2023年2月21日
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『白旗 第二号(仮)』には「未解決事件集:1998年の高橋徹也(仮)」を寄稿する予定です。高橋徹也は1996年に渋谷系からキャリアを始め、1998年には実存主義文学とノワールを取り入れた異常なロック――菊池成孔は「ツイステッド・ポップ」と呼んでいます――にたどり着きました。今こそ語るべき音楽家だと私は考えています。
以下、高橋徹也を扱った当ブログの記事。
・まじめな分析
【楽曲解説】高橋徹也『夜に生きるもの』(コード進行で見る高橋徹也②) - 古い土地
・その他
「AIのべりすと」に歌詞は書けるか〔高橋徹也編〕 - 古い土地
ヨルシカ、YOASOBI、夜に生きるもの(高橋徹也) - 古い土地
*1:かつてこのブログに投げたエッセイ『ピチカート・ファイヴ論考1: 人さらいの音楽 / "誤解" / 階級闘争』『ピチカート・ファイヴ論考2: 歌詞の具体例 / 録り音 / DJ感覚』が執筆のきっかけとなりました。査読も経て内容面では遥かに洗練されています。
ピチカート・ファイヴ論考1: 人さらいの音楽 / "誤解" / 階級闘争 - 古い土地
ピチカート・ファイヴ論考2: 歌詞の具体例 / 録り音 / DJ感覚 - 古い土地
*2:ただしリオパラでは歌詞の八割が改変され、東京オリではインストBGMとして使われている。リオで「お腹が空いて死にそうなの」と歌わせる気概を見せて欲しかった。
*3:高橋健太郎によるインタビュー『小西康陽が語る、自分の曲を自分で歌う意味「OKと思えるのに40年かかった」』
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34120
*4:「前期/後期」の分け方はこの論説特有のもので一般的でないことに注意。メインボーカルの変遷を確認しておくと、佐々木麻美子・高浪慶太郎(1984~1987年/『カップルズ』)→田島貴男(1988~1990年/『ベリッシマ』~『月面軟着陸』)→野宮真貴(1991~2001年/『女性上位』~『さえら』)となる。田島貴男はピチカート脱退後オリジナル・ラヴでメジャーデビューする。
*5:93年以後のピチカートについて一部擁護しておく。『overdose』(1994年)と『フリーダムのピチカート・ファイヴ』(1996年)は文句のない名盤だと筆者は考えている。『プレイボーイ・プレイガール』(1998年)『さえらジャポン』(2001年)はまあまあの出来。名前を挙げなかったアルバムは聞き通すのが辛い。良い曲もあるが悪い曲も多く、アルバムコンセプトが希薄。
*6:次の記事の末尾に詳しい解説を載っています。作品の強度を保証するのに非常に便利な概念です。