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暗い穴

2021/11/15:シェイクスピア / グロテスク・リアリズム

 

 シェイクスピアソネットを少し読んだ。

シェイクスピアのソネット Shakespeare's Sonnets

 

 Sonnet 018/060/127 の出来が良い。127は菊池成孔が『フランツ・カフカ南アメリカ』で「黒こそ美」と引用しただけのことがある。

 154中108を占める(男性の)青年への愛を歌った詩篇だが、今読むと正直に言って気持ち悪い。理由を言語化してみよう。

  1. 文学を拗らせた(英語圏最大の作家である)中年男性が10代そこらの青年の美を讃え愛を囁き続ける。この構造はシェイクスピアも織り込み済みで、対比のためときに自らを卑下する。
  2. さらに、その愛は肉体的なものではなく精神的なものだと幾度となく強調する。
  3. 同じテーマ擦りすぎ。食傷気味
  4. 詩の翻訳不可能性

 

 

 

 異性愛よりも同性愛とした方が読みが多彩になり面白いのは確かだ。語り手が同性愛に対して禁忌を感じたり誇らしげに愛を宣言する距離感の揺れそれ自体に、面白みがある*1。これでプラトニックな異性愛だったら凡庸すぎて本当に救いようのないソネットになったと思う(Sonnet 127からは肉体的な異性愛を扱っている)

 上のサイトだと154中の40しか訳出されていないが、既に食傷気味だ。シェイクスピアならもっと多様性を確保できただろ。この一貫性、ネタ切れ(?)に対する言い訳までも詩になっている(Sonnet 076)。

 

 Sonnet 020の、青年を持ち上げるために行われる女性蔑視。ウマル・ハイヤーム「ルバイヤート」でも似たよう描写があった気がする(セルジューク朝ペルシャでは少年愛が社会に組み込まれていた)。社会・時代が言語空間を規定し、言語の限界=社会の限界=人間の限界はすぐ来る。世界はゆっくりとしか広がらない。

 

オマル・ハイヤーム 'Umar Khaiyam 小川亮作訳 ルバイヤート RUBA'IYAT

 

 Sonnet 035は青年の浮気を扱っている。Sonnet 042では更に、シェイクスピアの女性の愛人(Sonnet 127以降に出てくるdark lady?)を青年が寝取ったことが示唆されており、しかしシェイクスピアは「だがうれしいことに 君とわたしは一体」なので「自分が女を抱いているも同然」と述べている。

 脳が破壊されないと出てこない負け惜しみ? 中年の悲哀もそこにあるのだろうか。今なら最終的に全員が疎外されているように読める。現代はそういう社会なので。

 

 

 さて、今までの感想は全て詩の意味内容、表現の過程で文学的に要請された醜さをあげつらうものだった。詩の、言葉そのものの美しさはどこに?

 

 ソネットが14行詩で韻律に基づくことぐらいは筆者も知っていた。元々イタリア発祥の形式で4/4/3/3と分けるのだが、シェイクスピアは4/4/4/2に分け、韻律を「abab cdcd efef gg」とした。

 だがこの上、各行は弱強五歩格に従うのだ:10音節でアクセントを弱-強-弱-強- ...と連続させる。

アイアンブ - Wikipedia

 

 こんなの訳出できるはずがない。原文で読むしかない。*2

 なお、イギリス人は学校でシェイクスピアをしっかり古英語で読まされしっかり嫌いになるらしい。勉強で読まされる作品なんて表面的な意味内容しか注目しないだろうし、ソネットに関して言えば殆ど「面白い」だけで嫌いになるのも無理はない。

 聖書並に引用されるシェイクスピアに対してインテリはどう対処しているかといえば、レコード時代以降はオーディオブックを聞き流して音声的に何となく覚えてしまうらしい。

 

 それにしても李白杜甫漢詩世界もそうだが、優れた詩人はまず形式を求めるのだろうか。

 散文自由詩で破壊されたかに見えたそれは、モダニズム詩(現代詩)において「会話のサンプリング」などで現代的に復活する。自由詩は「形式から自由」なのではなく「形式を選び編集する自由」なのであった。

 

 

後記(2021/11/16)

 ミハイル・バフチン(1895-1975)による「グロテスク・リアリズム」「カーニバル文学」の思想。ルネサンスはスコラ哲学の静的世界から人間中心の動的世界へ移った点で近代を準備したが、同時に中世の民衆文化の総決算であったと。シェイクスピアセルバンテス、フランソア・ラブレーなどルネサンス文学の中には近代中心史観では捉え切れない「共同体の笑い」があったのではないか? 次はフランソア・ラブレーの例

フランソア・ラブレーの世界 Francois Rabelais:詩の翻訳と解説

 

 ソネットにおけるシェイクスピアは、中世というよりは近代的な視点に寄っている、と思う。それでもグロテスク・リアリズムについて述べたのは、筆者の(過剰なまでの)近代傾倒が先の議論に著しく影響していることへ注意を促したいからだ。

 ラブレーの例で言えば、そこで描かれている「祝祭」はもはや「呪い」でしかない(ように見える)。バフチンの思想は共同体の安易なプロパガンダとしか思えない。

 

笑いの比較(ルネサンスポストモダン

 

いざ法印族の番が来ますと、皆は籠手を振り上げて、おめでとうござると、ぽかぽか殴りつけてしまいましたので、法印族は、片目には、腐った黒バターでも塗りこくられたように隈ができ、肋骨は八本へし折られ、胸骨はぐしゃぐしゃに潰され、肩甲骨は四つに割られ、下顎は三つに裂かれてぱくぱくになり、傷だらけになって失神してしまいましたが、何もかもフザケ気分で、わあわあ笑いながら行われたのですよ

――フランソワ・ラブレー『第四の書』(1552)(渡辺一夫訳)

 

 マルピギー氏の館では、ほとんど毎日、さまざまの名目の、実はなんの根拠もない祭儀が行われ、祝宴がそこここで設けられる。これらの祝典は完全にその厳粛味を欠いていて、人身供儀の式典でさえも、だらけたゲラゲラ笑いの中で、血だけが小川のように流れる。

――〔「マルピギー氏の館」のための素描 9 祭り〕 入沢康夫『声なき木鼠の唄』(1971年、青土社

 

我々は後者の視線を通してのみ前者をまなざす。

 

 

 我々は共同体を失い、その回復を求めるが、しかし本当に共同体に戻りたいわけではない――我々は疎外にも共同体にも耐えられない。我々は救済、全ての解決をこそ求めているのであり、またそれは人間の本性として(by defnition)いつの時代も与えられることがない。

 

 シェイクスピアソネットで描かれた人間性の湿っていて柔な部分。それを攻撃するのは筆者が近代を内面化し近代の人間疎外までも内面化しているから?(構造と同一化しようとしている?)

 筆者の中心イデオロギーは反時空主義・反人間主義(反人間中心主義でなく)・反言語主義・反存在主義である。と言ってみる。言ってみたいが、いずれの主張も述べた瞬間に自己矛盾で崩壊するので、機会が無い。

 

 

 

 

追記:中世美談

 ラブレーの作品内にも登場するフランソワ・ヴィヨン(1431?-1463?)は「フランス文学の父」「中世最大の詩人」「最初の近代詩人」などと呼ばれるが、女に(腕っぷしの?)喧嘩で負けて噂されると恥ずかしいからパリから逃げたり(罵倒の詩を残している)学生窃盗団の首魁をやったりしていたらしい。そんなことあるんだ。

 ヴィヨンはアルチュール・ランボーにも参照されていたりする。

 

 

 

 

*1:そして気持ち悪さ、というか人間的な不快さを感じる。同じテーマをひたすら擦り続ける食傷気味にも関連するが、湿っぽくて過剰なのだ。筆者は乾いた過剰はともかく湿った過剰は許せない

*2:英語→日本語はともかく、英語→フランス語など同じインド・ヨーロッパ語族なら韻律を保った翻訳はできる?