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【楽曲解説】ピチカート・ファイヴ - これは恋ではない

 

 『ベリッシマ』期の小西康陽はどのような実験を行っていたのだろうか? その一例を作曲の視点から明らかにしよう。得られる教訓は次の通り。頻繁に行われる脈絡のない転調という小手先の技巧はしなくてよい

 

 

ピチカート・ファイヴ - これは恋ではない - 動画 Dailymotion

youtubeにはなく、dailymotionにはある)

 

 個人的に「これは恋ではない」は好きな方の曲である。が、良い作曲とは思わない。もっぱら田島貴男の歌唱と小西康陽の歌詞を愛聴している。

  歌詞も、途中までは「真夜中のドライブ」といういかにも小西康陽が書きそうなモチーフそのままで意外性がない。ひとえに終盤の「これは恋ではなくて」「痛み」「君は天使じゃなくて」「痛み」というたたみかけに救われている。君は、「痛み」なのか! なるほど、なるほど。

 ここからの展開のために4分48秒を費やす価値があると信じる。

 

 歌詞とコード譜は次に従う。コード進行だけは本文でも書いておく

https://ja.chordwiki.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AF%E6%81%8B%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84

 

 

 

前半のコード進行

「X *n」は「Xというコードをn小節くりかえす」の意。

[intro] F/G * 4

[verse 1] Bm9/E * 8

[verse 2] Dm7/G * 2 → Fm7/Bb * 2 → Bm9/E * 4

[verse 3] Em9/A * 6 → Fmaj7/G * 2

[chorus] ||: Am7 → D9 → Gm7 → C9 :||

 

 

 説明のため[intro]は一回飛ばす。

 

 [verse 1] Bm9/E : 

 メロディはB minor pentatonic (add b13) でkeyはBmと推測。どうも分数コードの上側が主体らしい。

 Bm9に対するEは11thであり、テンションノートをベースにするとコードの機能は転換するというのが通常である(この場合 Bm9/E = E7sus4(9,11)で弱いドミナントセブンスになるはず)。しかしこの曲においては事情が異なる。小西康陽は手癖でベースを11thのテンションとしたものの、それはそれとして全体の調性はBm7だと言いたいらしい。特に、Eが真のルートならBを軸としたスケールはB dorianの方がより自然だが、実際にはB aeorianである。

 「機能を転換させるつもりのないm7/(11th)」は初期の小西康陽作曲にたまに出てくるが、大抵イントロや中間部なので、歌詞を載せているのは本当に珍しい。いらん小細工/手癖で採譜が面倒くさかったのでベースはBをとって欲しい。(あるいはこの採譜が間違っている?)

 

 [verse 2]  Dm7/G → Fm7/Bb → Bm9/E :

 メロディはDm → Fm → B min. penta. と変化。調性もこの通りと思ってよいだろう。[verse 1]でBmだったのが短3度上昇してDmに、そしてもう1回短3度上昇してFmにいったあとBmに戻ってくる。

 一応注意すると、この短3度上昇はBmの平行調Dをマイナー転調してDmにするポップス定番の転調。後期小西康陽の得意技でもある。

 

 ここで[intro]のF/Gを考えてみる。考えてみた結果、よく分からないという結論に至った。F/G = G7sus4(9) のような弱いドミナントセブンスをイントロとするのは渋谷系の手癖として存在するが、定石に従うとCmaj7に解決するだろう。

 [verse 2]が短3度上昇だったから、[intro]→[verse 1]で短3度下降に挑戦したのか? 一応ドミナントセブンスだからどこに解決してもいいと考えた?

 

 [verse 3] Em9/A :

 メロディはB min. penta.  機能はBmに対するサブドミナントマイナーEm7としても、ベースを重視して平行調Dに対するドミナントセブンスA7sus4(9,13)としても良いだろう。

 [verse 3] Fmaj7/G :

 これまたよくわからない。メロディがc – b – d – a を通るので key : C maj ~ A min から来ているようだ。つまり key : Bm から全音下降している。そして[Chorus]で次に接続するのはAm7。Fmaj7/G – Am7 だけ見ると key : C の偽終止として成立しているか? (ただ次で触れるようにAm7はVIm7ではなくツーファイブの前半つまりIIm7なので、[chorus]でまた転調が挟まることになる)

 

 [chorus] Am7 → D9 → Gm7 → C9 :

 コード進行だけ見るとポップスであることを考慮し key : F で IIIm7 – VI7 – IIm7 – V7 と言いたくなる。しかし、曲の後半(転調後)のコード進行を見るとAm7のテンションとして9が入るらしい。またD9のメロディで13thを通るのだが、VI7ならb13thの方を通りたいところ。ツーファイブごとに部分転調しているとみなした方が実情に沿うか。key : G のツーファイブと key : F のツーファイブ。

 

 

 [chorus]のあとは[verse 1-3]から再び[chorus]、そして[interlude]へ。

 [chorus]終わりのC9 から[verse 1]始め Bm9/Eへの接続 は「C9 – Bm9」 と思うと半音下へのドミナントモーションになる。偶然である可能性の方が高い。

 

 

 

後半のコード進行

 

[interlude] ||:  Db/Eb * 2 → Dbmaj9 * 2  :||

[verse 3’ ] Ebm9/Ab * 6 → Fbmaj7/Gb * 2

[chorus’] ||: Abm7 → Db9 → Gbm7 → Cb9 :|| (repeat 3 times)

[verse 1&2&3’] Bbm9/Eb * 2 → Dbm9/Gb * 2 → Em9/A * 2 → Fbmaj7/Gb * 2

[chorus’’] ||: Abm7 → Db9 → Gbm7 → Cb9 :|| (repeat many times)

 

 

 前半の[verse]が key : Bm = D 、[chorus]終わりが key : F だった。

 [interlude]の Db/Eb → Dbmaj9 は key : Ab でもDbでもダイアトニックになり得る進行である。[chorus]から[interlude]へのつなぎが上昇感あるしAbの方かと思いつつ[verse 3’ ]以降を見ると・・・これは[verse 3]から半音下がっているのか?

 

 そうこの曲、前半から後半にかけてキーが半音下降する曲なのである。

 

 だから[interlude]のkeyはDから半音下がったDbが正しい。Db/Eb → Dbmaj9 は key : Db 上の「IIm7 – Imaj7」がテンションを盛られて「IIm11 – Imaj9」になったと思えば筋が通る。

 [chorus]から[interlude]にかけて上昇感があるのは、メロディが工夫されているのが原因。また、[chorus]終わりのC(9)と[interlude]始めのDb(/Eb)で半音上昇と聞こえる(?)のも影響しているかもしれない。意図しているかは微妙なライン。

 あとはほぼ前半部から半音下がっているだけである。

 

 仕掛けをまとめよう。

 [interlude]は高低差の分からないトンネルになっている。前半の[chorus]から[interlude]を通った[veres 3’]は前半の[verse 3]と調が違うことは初見でも気づく。こういう場合調性は上がるものだとリスナーは判断する/期待するが、しかし実際は下がっていることで期待を裏切る。

 

 はたしてこの仕掛けは必要だったのか? 

 曲のちょうど中間で半音キーが上がっても、ポップスをそこそこ聞いている人なら慣れからメロディを覚えられるだろう(「夜をぶっとばせ」など)。しかし、半音下がる経験は殆どの人が持たず、したがって対処できない。不必要に覚えづらくなるのはポップスとして致命的に思える。

 加えて、[chorus’]は半音下がったキーに対して単に前と同じメロディーを当てているだけなので微妙な盛り下がり方をする。展開にメリハリがつかない。

 

 

 [verse 1&2&3’]に触れておこう。前半部の3つのバースを8小節に詰め込んだようなパートであり、この曲の白眉。歌詞の「痛み」「痛み」「おしまい」に対応するように短3度上昇が繰り返され、ここに筆者は歌詞・メロディ・和声の幸福な結合を見る。見るのだからしょうがない。

 

 正直に言って、前半の[verse 2]の歌詞は短3度上昇による盛り上がりをまったく必要としない。しかし[verse 1&2&3’]を予見するためには必要だった。

 いや、先に[verse 1&2&3’]が作られて、「この盛り上がりは後半に配置すべき」という判断から同じ進行で展開の弱い歌詞が前半に置かれた、というのが実際だろうか。「痛み」「痛み」「おしまい」の3行さえ書ければこの曲全体が書けたも同然である(小西康陽の提唱するタイトル作曲法の亜種)。

 

 最後の[chorus’’]において、もはや「愛してるとひと言」さえ求めず、ただ「ベイビー」と呼びかけ続ける。keyが半音下がっていても最後のメロディは上がった方が盛り上がるし、妥当な判断。

 

 

 

結語

 

 「これは恋ではない」は不必要なテンション・展開が多く含まれている曲だった。作曲家のみなさんは不必要に難しいことをやらないようにしましょう。

 小西康陽も『ベリッシマ』(88年)の次の『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(89年)からこれほど無茶な展開は使わなくなっている。90年代半ばまでテンションは盛る傾向にあるが。

 渋谷系フォロワーのアーティストも、テンション盛るのは真似しても『ベリッシマ』の無茶さは真似してないだろう。不必要なうえに、売れない。

 

 

 

追記

 

 「Keyを下げる」である曲を思い出した。

 今年発表されたOfficial髭男dism「Cry Baby」はかなりメカニカルに作られている:Aメロ・Bメロ・サビでkeyがAb → F → D → Db (→Ab)と一巡する。しかもサビの最中で半音下げているのがエグい。

https://ja.chordwiki.org/wiki/Cry%2BBaby

 

 エグい、エグいが、しかし、そういった技巧は何の感動ももたらさない。せいぜい習作かと思う程度である。この曲の場合、歌詞、メロディの当て方、同じkey内でのコード進行があまりに手癖/ゴッテゴテゴテのj-popなのが悪い。バランスとったつもりなのかもしれないがkey一定の方がよっぽど良い曲になるだろう。そんな唐突にkeyを変えたいならもっと工夫すべき。

 どうやら売れているらしく、売れてるから偉いという反論は認めます(売れるポップスというのは結局ベタの上手さ・演出だと筆者は考えていて、この曲は彼らにしてはベタが下手だと思うのだが)

 

 コード進行的なコンセプトから始めて「良い」曲になるのは、1940年代ビバップまでではなかろうか。いや、ビバップでさえもコード進行だけで良曲とはしない。ポップスの和声は歌詞やメロディで何らかの必然性を伴わなければならない。

 あるいは、無理やりでもColtrane changesがぶっこまれたら筆者は感動(爆笑?)してしまうかもしれない。高橋徹也も「ナイトクラブ」でやったのだから、Official髭男dismも頑張ってくれないものか。

 

wagaizumo.hatenablog.com

 

 

 下げる方向の転調でうまくいってるポップスがもし存在していれば例として面白いので、ご存知の方がいればこっそり教えて欲しい。

 

 

追追記(2021/11/8):小室哲哉松田聖子に提供した「kimono beat」。AメロBメロはkey : G で サビが key : F と全音下降してる。メロディもサビに入って抑えた感覚があり、しかし設計や編曲が上手いのか心地よい。